【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

【叙勲】おめでとう岡田卓也さん97歳「旭日大綬章」小売業では異例、累積で多額所得納税か「小売業の繫栄は平和の象徴」、岡田克也立憲幹事長の実父

2023年04月29日 05時01分05秒 | 岡田克也、旅の途中
[写真]岡田卓也さん、早稲田学報2010年4月号に掲載された写真から。

 政府は、春の叙勲で、日本最大手の年商8兆円の流通グループ「イオン」の創業者(3人のうちの1人)である、岡田卓也さん97歳らに「旭日大綬章」を授与すると発表しました。令和の天皇陛下から直接手渡されます。

 岡田克也・立憲民主党幹事長の実父。

 小売業経営者への旭日大綬章は、電力・ガスを除けば極めて異例。小売業は年商から仕入費と人件費を差し引くため利幅は薄く法人税納税額は少なくなるため、岡田さん本人の所得税額が生涯累積で多額になったことが評価されたとみられます。任意団体「日本チェーンストア協会」の第2代会長も2年間だけの在任だったようです。天下りも四日市に縁がある元財務事務次官、元検事総長らを毎期2人程度社外取締役に受け入れているだけです。

 岡田さんは1925年9月19日、四日市生まれ。ダイエーの中内功さんより3学年若いことになります。岡田さんは早稲田大学入学直前の高等学院在学中に召集令状をうけて、いやいやながら、学徒動員で勤労奉仕で工場に勤めました。日本一広い「灘」である、太平洋・茨城県鹿嶋市の海岸の要塞をつくる仕事をしながら終戦。大学生ながら、四日市「岡田屋」代表取締役に就任しました。今から77年前のことです。1946年7月2日の中日新聞に戦後初めてのチラシを打ち「焦土に開く 天下分け目の大売り出し」との売り文句を強調したところ、開店前に100メートルの行列ができ、女性がチラシを手にしながら「岡田さん、やっと平和が来ましたね」と語りかけたことから「小売業の繁栄は平和の象徴」とのフィロソフィー(経営哲学)を得ました。

 その後は、自ら赤い自転車で街を走ることを宣伝と称し、大黒柱に車をつけよとの家訓で店舗を引っ越しマンネリを破りました。32歳のときに生まれた岡田克也さんは、「店舗兼自宅で母とともに営業していた父は、やがて店舗まで自転車で通勤するようになり、自動車で通勤するようになり、そして運転手付きの自動車が迎えに来るようになった」と幼少期の急激な変化を述懐しています。

 1970年大阪万博開会式にあわせて、吹田「シロ」姫路「フタギ」とともに大阪市に出て、日本共同仕入会社「ジャスコ」を創業。開会式当月には、第1期新入社員980人を社長として歓迎するという現代では考えられない成長をとげます。当時おそらく芦屋に豪邸に所有していた流通の革命児・中内さんと違い大阪万博会場の「太陽の塔」が見える郊外の賃貸マンションに住むことで、フィロソフィーの違いを示しました。

 但し、戦後すぐ、尊敬する神戸大学経営学者を四日市商工会議所商業部会で招いた際「君たち、今すぐ小売業をやめて土地を買い占めなさい」と助言されたのに、機敏に対応できなかったことの心の葛藤もあったようです。

 岡田屋は1959年9月の伊勢湾台風で、被災者に毛布を2000枚寄付しています。

 岡田さんは「早稲田学報」2010年4月号で、百貨店法・大店法・大店立地法の規制のせいで日本にコンビニエンスストア、スーパーマーケットが成熟しているのは時代遅れで、アメリカのように統合され規模を集約すべきだとの独自の考え方を示しています。

 同時にアジア諸国に追い上げられている危機感にふれ「中国も最初に行った頃は、赤いものといったら旗だけか、口紅なんて誰も塗っていない」と冗談交じりに語っています。

 岡田克也さんから見て、おじいさん、お父さん、お兄さんは全員、早稲田大学商学部卒業。克也さんは東大でなく早稲田で冗談とコミュ力を身に着けていれば、総理になれたでしょう。でも、法学部なら東大に合格しないと学費を出してもらえないし、竹下登首相から早大商学部2学年後輩の卓也さんに「あなたの次男は通産省にいますね」と電話もかかってこなかったという因果になります。

 卓也さんは早稲田学報のインタビューで、千葉市美浜区幕張の役員応接室の窓から見える太平洋を「晴れていればアメリカが見えますよ」と冗談交じりに語り、要塞を建設していた時代とは違う景色だとしめくくっています。

 以上です。