時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(50)

2005年12月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale
Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991


ラ・トゥールのパトロンたち(1)
 

    晩年のラ・トゥールは、ロレーヌのみならずパリを中心とするフランスにおいても、一流画家としての名声を確保していた。これは、画家の天賦の才能に加えて、世俗の世界においても並々ならぬ処世の術を発揮した結果であることは繰り返し述べた通りである。

  加えて、当時の芸術家たちにとって大変重要であったのは、彼らを支える庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤を準備してくれる庇護者たちの存在が欠かせなかった時代である。これまでのラ・トゥールの画家人生を振り返ってみると、ある時期からかなり多数の有力なパトロンそして作品を求める人々がいたことを知ることができる。ブログでもそのつど触れてはきたが、ここでラ・トゥールのパトロンたちの群像を改めて整理してみたい。

最初のパトロン:ラムベルヴィリエ
  ラ・トゥールが歴史的記録に現れるようになって以来、美術史家によって明らかにされてきた成果によると、この画家を世に出すについて最初に支援の手を延ばしたのは、メス司教区でヴィクの代官であったアルフォンス・ド・ラムベルヴィリエ Alphonse de Rambervilliers であったことは、すでにこのブログに記したとおりである。
  彼はロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。 彼はジョルジュと結婚したネルフの親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。

  背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであったし、若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエであったのではないかとの推測もなされている。 ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。ラ・トゥールの研究者で、とりわけ家系や年譜の形成に大きな貢献をしたアンネ・ランボル Anne Reinboldの著書には、国立文書館に残るラムベルヴィリエの肖像画が掲載されているが、文人らしい知性を感じさせる容貌である(photo)。
  
    ちなみにランボルの研究は、ラ・トゥールの家系、年譜の丹念な調査として出色のものであり、後の研究者にとって貴重な布石を与えた。

   ジョルジュとネールの夫妻は、1620年にはリュネヴィルへ移住したが、ロレーヌ公アンリII世は、ナンシーよりもこの地を好んで城も造営していた。メス司教区の下にあったヴィクから移住したジョルジュはアンリII世の許可が必要だった。このためにジョルジュから提出された請願書には、画家としての職業の誇示、租税公課の免除などかなり強い要求も含まれていた。アンリII世は、リュネヴィルに住む貴族でもあるネルフの父親とのつながりもあって許可したと思われる。

芸術家を支援したロレーヌ公
  ロレーヌ公は伝統的に、フランス王よりも先に芸術に関心を寄せており、地域の画家などの活動を支援してきた。ラ・トゥールについても、ジョルジュとネルフの夫妻がリュネヴィルへ移住した年から、その点が感じられる。
  
  記録に残るかぎり、1620年にアンリ II 世はラ・トゥールに2枚の制作を依頼しているが、2枚目は聖ペテロの肖像画であったらしい。これには150フランの支払いがなされている。 この年、ラ・トゥールは最初の徒弟となったクロード・バカラClaude Baccaratを4年間、200フランで契約をしているが、この後徒弟を受け入れるごとに契約費用は急速に引き上げられて行く。これは、ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてきたことを反映していると思われる。たとえば2番目の徒弟の場合は、1626年から3年契約で500フランになっていた。そして3番目の徒弟フランソワ・ナルドワイヤンの受け入れでは700フランへ増加している(Choné, 54)。

戦乱に失われた作品
  1634年フランス王ルイ13世は、ロレーヌをフランス領へ併合した。その年ロレーヌの貴族たちの多くはフランス王へ忠誠を誓っている。ラ・トゥールもその一人だが、ロレーヌ公との関係も断絶していない。 フランスと神聖ローマ帝国の間で、ロレーヌは30年戦争の戦場と化していた。亡命していたロレーヌ公チャールスIV世は神聖ローマ側についていた。
  
  1638年9月30日、リュネヴィルはフランス軍の侵攻を受ける。この戦乱の時に、ロレーヌにかなり存在したはずの画家の作品の多くが失われたと思われる。


Reference
Paulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

コメント
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