Nicolas Poussin. Self-Portrait. 1650. Oil on canvas. Louvre, Paris, France. *
http://www.abcgallery.com/P/poussin/poussin75.html
美術先進国はイタリア
ルイXIII世の時代に入ると、前の王で非業の死をとげたアンリIV世の時代に造営された王宮、とりわけルーヴル宮などは、建造物としてはあらかた出来上がっていたようだ。しかし、建物ばかりで中身は乏しく、リシリューそして彼の最も忠実な支持者であり、軍事参謀・国事秘書であったスブレSublet de Noyers やそのいとこたちは、宮殿の内容充実に多大な努力を払っていた。
とりわけ、スブレの二人のいとこは、当時の美術先進国イタリア、ローマの事情に通じていた。彼らは最初ベルベリーニ宮殿やピッティ宮殿の装飾などを手がけ、法王の画家でもあったピエトロ・ダ・コルトーネPietro da Cortoneを招聘する意向だったようだが、体よく断られてしまった。当時はローマと比較すると、パリは治安も悪く決して魅力のあるところではなかったのだ。それ以上に、当時のローマはその文化水準で、ヨーロッパ諸国を圧倒していた。フランスの画家たちもイタリア美術の動向には、絶大な関心を寄せていた。芸術活動に関わる者は、ローマに行きたいと思い、またすでにローマにいる者は離れたがらなかった。
プッサンの招聘
そこで、次に候補となったのがプッサンNicholas Poussin(1594-1665)であった。フランス、ノルマンディー、レザンドリー生まれのプッサンは画業修業を目指し、1612年に故郷を離れた。ルーアン、パリなどを経てイタリア、ヴェニスへ旅している。1622年にはパリのイエズス会からの絵画制作の依頼を受けている。その後、シャンパーニュとともにリュクサンブール宮殿の装飾を手がけ、ノートルダム大寺院などでも制作活動を行ってきた。1624年以降は、ローマに移り住み、画家としての名声を高めていた。
初期にはティティアーノの詩的・神秘的な主題、輝かしい色彩や動的構図の影響が感じられたが、次第にラファエルや古典的な伝統に傾斜し、「サビーニの女たちの略奪」にみられるような壮大で厳粛な主題が選ぶようになった。プッサンは、構図の明瞭さ、姿態の精確さ、細部についての詳細な描き込みを通して、人間の行動の高貴さを伝えようとした。カラバッジョやラ・トゥールとは異なる華麗さも持っていた。
プッサンには、すでにリシリュー宮のためにBacchanals(バッカス)の大作2枚の制作依頼がなされていた。その間にベルベリーニ枢機卿などからのプッサンの作品寄贈などもあり、プッサン起用のお膳立ては着々と出来あがっていた。スブレを通してリシリュー、そしてルイXIII世へとつながり、王の裁定による招聘の形が出来上がった。フランス生まれではあったが、1624年以来ローマに住んでいたプッサンは、パリ行きは気が乗らなかったらしい。だが、フランス国王の招聘となると、むげに断るわけにもいかなかった。この間、プッサンにはさまざまな圧力がかけられたらしい。
プッサン、パリへ
パリへ行ったプッサンは手厚い待遇を受け、ヴーエに代わって直ちに王室首席画家premier peintore に任ぜられた。フランス王室にいわば新参の画家プッサンにとっては、破格の待遇であった。
ヴーエの場合は、名目的な肩書きであったが、プッサンには実質的に壮大な仕事が次々と依頼された。リシリュー、そしてスブレたちのプッサンにかけた期待が、いかに大きなものであったかが推察できる。プッサンは、パリに「ローマとその壮麗さを持ち込んだばかりでなく、フランスのローマと壮麗さを持ってきた!」(Fumaroli 40)のだった。
サンジェルマン教会祭壇、ルーヴル宮殿の大回廊の装飾を始めとして壮大な仕事がプッサンに委ねられた。王の仕事のみならず、リシリューやスブレも制作を依頼した。リシリューはシャンパーニュには特別目をかけていたが、プッサンにはシャンパーニュ以上に期待をかけた。その壮大で威厳のある画風に惹かれたのだ。プッサンに対しては、フランス王室の威厳と壮麗を美術として発揚するようにとの厳しい要請ではあったが、リシリューたちにはこの画家の秘める天賦の才と偉大さへの尊敬の念があった。
王室画家たちへの衝撃
プッサンに対する王室の厚遇は、他の芸術家からの怨嗟、不満、追従、謀略などを生み出すことになった。なかでも、王とリシリューの下で表面的には王室の芸術全般をとりしきっているはずだったヴーエにとっては、プッサンという新参者へ強く反発したことは想像に難くない。大役を任されたものの、プッサンにとっては宮廷内に漂うさまざまな波風に、居心地の悪い思いであった。ヴーエとプッサンに象徴的に示される対立は、少し時間をおいてみるとヨーロッパ美術界の大きな潮流の対立でもあった(この点については、後に触れたい)。
人生のほとんどはイタリアで過ごしたプッサンは、17世紀フランス美術を代表する偉大な国民的画家として、尊敬され、高い評価を得ている。しかし、この画家がパリで過ごした年月は、苦労が多かったようだ。
* プッサンにはもう1枚、1649年に描かれた自画像がある。この2枚の自画像についても、興味深い点があるが、さらに脇道にはいるので別の時に残しておこう。残念ながら、ラ・トゥールの自画像は「発見」されていない。ヴーエには自画像ではないかと思われるものがあるが、確認されていない。
http://abcgallery.com/P/poussin/poussin74.html
Reference
Marc Fumaroli. "Richelieu, Patron of the Arts". Richelieu, Art and Power, 2002.
ルイ・マラン(矢橋透訳)『崇高なるプッサン』みすず書房、2000年
(プッサンの制作活動の実際については、ほとんど何も記されていないが、この画家の精神性の高さを知るには不可欠の一冊。)