時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

王室画家の世界(1)

2006年03月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Simon Vouet. The Fortuneteller
1617, Oil on canvas, 95 x 135 cm
Galleria Nazionale d'Arte Antica, Rome
http://www.wga.hu/html/v/vouet/1/2fortun.html

  脇道に入り込んだついでに(?)、リシリューの時代における宮廷画家たちの世界について、少し記しておきたい。ラ・トゥールとはどんな関係があるのかと云われると、手短かに答えるには窮するが、この宮廷画家たちの世界をのぞき見ないかぎり、ラ・トゥールの世界も見えてこないように思われる。ラ・トゥールとフランス王室との関係は、どの程度だったのだろうかということを探索する上で、少し踏み込んでみたい。

陰謀・策略渦巻く宮廷
  前回に記したように、ヴーエ、プッサンやシャンパーニュなどの画家たちが活躍していた17世紀前半のフランス宮廷で、国王ルイXIII世(1610-43)と、国王に仕えその威光を広めることを最大使命とする枢機卿・宰相リシリュー(1585-1642)は、30年戦争への介入を始めとして、内外の敵と戦いながら日夜を分かたぬような多忙な日々を過ごしていた。このころのフランス宮廷は、陰謀、策略が渦巻く世界で、宗教上もカトリックとプロテスタントが相対し、宮殿内にも暗殺者が紛れ込んでいたといわれる状況だった。なにしろ、ルイXIII世の前のアンリIV世は1610年、パリの路上でドミニコ修道会派とみられる刺客によって暗殺されているほどである。リシリューが多くの護衛たちを従えていたのも理由があってのことだった(ちなみに、ルイXIII世自身も1642年に、パリ市内で刺殺され非業の死を遂げている)。

平穏ではなかった宮廷画家の世界  
  他方、宮廷の芸術家として芸術活動に専念できる環境は、外の世界から見れば大きな羨望の的であったろう。しかし、王のお膝元である宮廷画家たちの世界も平穏ではなかった。芸術家の世界も、妬みや追従、策謀などが入り乱れ、すさまじかったようだ。

  モーツアルトとサリエリの例を挙げるまでもなく、芸術家たちは自らの作品がパトロンにどれだけ受け入れられるかをめぐって、陰湿な駆け引き、葛藤の日々を送っていた。パトロンといっても、誰もが画家の才能や作品について十分な鑑識眼を持っていたわけではない。ルイXIII世あるいは枢機卿リシリューが芸術家やその作品の評価にどれだけ目をもっていたかというと、かなり疑わしい。

リシリューと芸術
  先の「リシリュー:芸術と権力」展の企画者であったゴールドファーブなどの研究者は、美術に関してはリシリューに厳しい。リシリューは音楽、美術はよく分からなかったのではないかという。詩的センスも欠いていたとされる。こうした批判にもかかわらず、さすがに歴史に残るフランスの大政治家、宰相・枢機卿リシリューは、国王に仕える最大の権力者としての役割を認識していた。そしてフランスという国家的栄光のために、芸術を自らの権力でいかに活用するかに力を注いだ。
 
  リシリューがたとえ芸術に鑑識眼がなかったとしても、ヨーロッパ世界の中心にいた人物であり、芸術の世界に関する情報は十分心得ており、時代の流れ、著名な作家たちについても良く知っていた。時にはヴァザーリの『芸術家列伝』などもひもどいていたようだ。プッサンやラ・トゥールなど、当時の芸術家などについても、広く情報網をはりめぐらしていた。リシリューの側近には、数人の美術の収蔵家もいた。情報は、ルイXIII世にもさまざまに伝えられていた。そして、リシリューは大政治家であるとともに、時代を代表する文人であった。リシリューは詩は分からなくとも、演説は得意であり、文章力にも長けていた。非凡な人物であったことは疑いない。

  ルイXIII世の治世に、王室の美術にかかわる仕事を任せられていた画家は何人かいた。アンリIV世の二番目の妃であったマリー・ド・メディシスのごひいきで、ルーベンスも王室画家としてパリにいたことがあった。1623年リシリューが権力を掌握し、ルイXIII世に王位が移ると、ルクセンブルグ宮でアンリIV世の美術回廊を受け持っていたルーベンスは仕事を取り上げられてしまい、1624年にはパリを去り、二度と戻ることはなかった。パトロンである権力者がいなくなると、画家たちも運命を共にするのは世の常であった。

ヴーエはパリへ
  シモン・ヴーエが、ローマからパリに呼び戻されたのは1627年のことであった。ヴーエは1590年生まれで、1593年生まれのラ・トゥールとほとんど変わらない同時代の画家である。パン屋の息子であったラ・トゥールと異なり、画家の家に生まれたヴーエは、当時多くの画家が目指したように1613年イタリアに移り住んだ。イタリアは芸術の面でも、ヨーロッパ随一の先進国であった。ジェノア、ヴェニス、ナポリなどを経て、ローマに住み、画家としての生活を送っていた。すでにこの時期からフランス王室から留学資金を与えられていたといわれるから、早くから才能が認められていたのだろう。

  生来の素質とイタリアでの研鑽の結果はまもなく実を結び、著名な画家として知られるようになった。ヴーエの名声はパリにも聞こえ、ルイXIII世の招きでパリへ移住することになる。そして、王の主席画家premier peintre du roiとしての称号を与えられ、形の上では全体をとりしきる役割を与えられていた。かなり名目的な称号であったようだが、王室が与えた最初のもので、後に一時プッサンに与えられた時を別にして、ヴーエがその役割を担っていた。

  ヴーエはイタリアのバロック美術の洗礼を受けていたが、フランスに戻ると、華やかさを維持しつつも、イタリア風とは対比できる分かりやすく世俗的な「パリ風」に工夫して持ち込んだ。彼の弟子たちも協力して、「パリ風アンティーク」とテュイリエが形容した一派を成すまでになった。ローマ時代のヴーエの作品を見ると、カラヴァッジョの影響がありありと分かる。この記事で取り上げた「占い師」も、カラヴァッジョではないかと思ってしまうほどだ。妻のヴィルジニーVirginie de Vezzoも画家であり、ルイXIII世にパステル画を教えていた。

枢機卿はお好みではなかった
  このように、王室の絶大な庇護を受けていたかにみえるヴーエだが、リシリューの好みに合わなかったようだ。その理由としては、リシリューのきらいなイタリア・バロックの影響が色濃かったこと、ルーベンスに似ていたなどが上げられているが、詰まるところ、リシリューが期待する壮麗さに欠けていたことにあったようだ。フランス王室の権威と偉大さを示す役割を負わされた美術として、ヴーエの作品は物足りなかったのだろう。

  こうした状況でプッサンがローマから招かれることになった。そこでなにが起こったのだろうか。

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