Guido Reni
The Penitent Magdalene*
1635
Oil on canvas, 91 x 74 cm
Courtesy of :
Walters Art Museum, Baltimore
http://www.thewalters.org/html/collec_object_detail.asp?ID=37&object_ID=37.2631
ラ・トゥールはルーブル宮に仕事場を与えられていた記録もあり、大変厚遇されていた。画家としてパリに6週間ほど滞在した1639年当時は、ルイXIII世の治世の後半であった。ラ・トゥールも「王の画家」peintre ordinaire du roiの称号を与えられていたが、これは実質的なものではなかったようだ。しかし、滞在中やリュネヴィルとの往復旅費など、さすがに王室は手厚く配慮した。もしかすると、ラ・トゥールもパリに住みたかったのかもしれない。しかしながら、この画家は戦乱・悪疫などからの避難の時期を別にすると、生涯のほとんどをロレーヌ地方のリュネヴィルで過ごした。王室記録に残るこのパリ滞在期間に、画家がいかなる制作活動をしていたのかは、残念ながら不明である。
ラ・トゥールの作品が最初ルイXIII世や枢機卿リシリューの目にふれたのはいつのことであったのかも、残念ながら記録がない。しかし、この希有な天才画家の噂は、かなり前からフランス王室にも届いていたことと思われる。すでに記した通り、リシリューは広範な情報ネットワークを持っていた。そして、実際に作品を献上された王および枢機卿リシリューに大変強い感銘を与えたことが確認されている。
ラ・トゥールについての記録文書は、きわめて少ないのでなんともいえないが、この画家は結婚前、若い頃にもパリにいた可能性がある。ルイXIV世の治世になってからもパリを訪れたかもしれない。
枢機卿宮殿を飾ったラ・トゥールとレーニ
ルイXIII世がラ・トゥールが献上した作品「聖セバスティアヌスを介護するイレーヌ」に非常に感銘を受けたことはよく知られている。同じ時期に作品を献上されたリシリューも同様に大変気に入り、1639年に完成した枢機卿宮殿Cardinal Palaceでは豪華な収蔵品が置かれた場所から離れた自分の部屋に他の作品を外して、ラ・トゥールとレーニの絵画だけを掲げたといわれる。ラ・トゥールの「聖ヒエロニムス」Saint Jerome と レーニの「聖マドレーヌ」Madeleineであった(Fumaroli, 35)。
この「聖ヒエロニムス」は作品の内容、大きさ(152x109cm)などから、リシリューの死後、彼の財産目録に含まれている作品で、現在ストックホルムの国立美術館が所蔵する赤い枢機卿帽が描かれた「悔悟する聖ヒエロニムス」The Peintent Saint Jeromeと同一ではないかと考えられている。グルノーブル美術館所蔵の同様のテーマによるものは、枢機卿帽は描かれていない。これらの点から、ラ・トゥールがリシリューの要望を含んで、書き加えたより新しい作品とみられる(Goldfarb, 157)。
もうひとりの忘れかけられた画家レーニ
リシリューがラ・トゥールとともに個人的に最も好んだレーニGuido Reni(1575-1642)という画家も、知名度はいまひとつのところがあった。しかし、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパに知れ渡った有名画家であった。19世紀にはその名声は埋もれかけたが、その後再評価の光が当てられた画家である。この点も、ラ・トゥールと似た点もある。
レーニはボローニャで生まれ、9歳からフランドル画家の工房で絵画を学び始め、20歳の時に、ヴーエも親しかったカラッチ家が創設したアカデミーに入って古典画技法などを学んだ。1600年頃、ローマに旅し、ナポリ、マントヴァ、ボローニャなどで活躍した。法王ポール5世や、イタリアでも屈指の王族たちがパトロンになっていた。
レーニの作品の優雅な古典スタイルは、ラファエロの影響ではないかといわれているが、カラヴァッジョの影響も明らかに受けていた。
1609年にアカデミー当主のアニバーレ・カラッチが死去すると、レーニはエミリアの画家たちの流派のリーダーとなった。ボローニャに大きな工房を持っていた。その成果としての作品は、1610年頃のキリナーレ宮殿、ヴァティカン、その他の教会のフレスコ画として残っている。レーニの一派は古典への回帰を目指し、スタイル、色彩その他きわめて完成した作品として結実した。ボローニャの国立美術館が所蔵している大きな作品などにそれがうかがわれる。
晩年になると、ルーニの作品の色彩は次第に褐色などの色が多くなり、若い時代の華やかさは抑えられたものとなる。なんとなく、ラ・トゥールと似通った色調の作品もある。レーニのことを詩人ゲーテは、「神のごとき天才」と呼んだ。
華麗・壮大を求めなかった画家
ラ・トゥールの作品も、レーニと並び王や枢機卿の宮殿を飾った。しかし、少なくも現存する作品から推定するかぎり、ラ・トゥールという画家は宮殿や教会などの祭壇、壁画、天井画などはほとんど手がけず、パトロンや小さな修道院などの依頼に応じての作品を制作した画家であったとみられる。
ラ・トゥールの現存する作品からは、同時代に王室画家であったヴーエやプッサンなどと比較して、華麗さや壮大さは感じられない。この点では、リシリューが期待したようなフランス王や王室の威厳や壮麗さを表現し、誇示できるような画家ではないし、自らもそうした作品を試みなかった。しかし、この画家はそれとはまったく異なる次元において、王や枢機卿などの為政者を含めて、一般民衆にいたるまで多くの人々の心に深く訴えるものを持っていた。フランス王室の威光や壮麗さを表現する手段として、王やリシリューが選んだ作品と、彼らが個人として心の安らぎを感じ感銘を覚えた作品は別であった。美術はよく分からないのではないかと評された政治家リシリューも、深く感じるとことがあったのだろう。そして、このラ・トゥールの魅力は、今日においても現代人の心をとらえてはなさない。
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Reference
Hilliard t. Goldfarb. Richelieu and Contemporary Art: “Raison d’Etat” and Personal Taste. Richeliu, 2002.
Marc Fumaroli. Richelieu, Patron of the Arts、Richeliu, 2002.
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