時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(63)

2006年03月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リシリュー枢機卿とラ・トゥール(2)

 リシリューの生きた17世紀は、フランスが国家としてのアイデンティティを築いた時代であった。彼は文字通りその中心にいた。目まぐるしいばかりの政治や社会の変化の渦中にあったリシリューにとって、美術とはいったいどんな存在だったのだろうか。

異色の特別展
 このなんとも難しい異色の問いかけに真正面から果敢に取り組んだ一つの特別展が2002年に開催された。主題は直裁に「リシリュー枢機卿:美術と権力」であった。企画したのは、北米カナダの都市モントリオールのモントリオール美術館*である。決して、世界的に良く知られた美術館というわけではない。しかし、構想と準備が素晴らしければ、十分注目を集める展示になりうることを示した。

  モントリオールという都市は、私にとっては特別の思いがある場所である。なにしろ、初めての外国であったアメリカの次に訪れた国の大都市であり、その後、縁あってこの都市と密接に関連する領域で仕事をしたこともあって訪れた回数も多い。
  
 友人とキャンピングカーを借りて、オンタリオ湖景勝の地 サウザンド・アイランド、キングストンからスタートし、トロントからオタワ、モントリオールを通り、ケベック、ガスぺ、ハリファックスまで、セントローレンス川探索の旅を試みたこともあった。モントリオール郊外のローレンシャンからアディロンダックにかけての紅葉は、世界一ではないかと思う。セントローレンスを下った旅には色々な思い出があり、いずれ書いてみたい気もする

 閑話休題。 宰相リシリューとモントリオールはいかなる関係があるのだろうか。実はリシリューが世を去った1642年は、モントリオールが建設された年であった。しかし、それに先だって、リシリューはしっかりと「新たなフランス」の構想を描き、着々と手を打ち、実現していた。1620年代に彼はフランスの統治者として最大の実力者であったが、北米の一角にも投資を行い、その発展を見守っていた。より正確には、アンリ4世のヴィジョンに基づき、北米の探検隊としてサミュエル・ド・シャンプランを派遣し、後にカナダにフランス植民地が築かれるきっかけを準備していた。

リシリューと美術  
 他方、リシリューは美術をいかに考えていたのだろうか。単純に表現すれば彼は、時代の人々の思いを結合し、フランスという国家のアイデンティティを形づくるために芸術の力に着目し、自らの力を行使したといえる。まさに芸術の力を国家イメージの形成に使ったのである。美術はその後、フランスという国家の文化政策の構築・展開のために重要な武器のひとつとなった。

 リシリューは文学と劇場には関心を抱いて、政治的目的のため最大限に活用したが、絵画などの美術については教養ある貴族のたしなみ程度で、関心が薄かったといわれる。しかし、事実は必ずしもそうではないらしい。 確かに、リシリューは文学や演劇についてはかなりのコメントを残しているが、美術に関連することはそれほど多くないことも、こうした推測を生んできたようだ。

 この多忙をきわめた政治家は、不眠症であったようだが、大変気配りの人でもあったようだ。1634年に彼の姪3人の結婚祝いに贈るパラソルの図柄を自分で選び、デザイン、絹地の種類からレースまで、秘書に詳細な手だてをさせ、ジェノアの大使経由で注文させていたという逸話も残っている。
  
 また、リシリューは一時期、自ら家計にも深くかかわり、収支のありようなどにも配慮していたようだ。予想外に色々なことに気を配っていた。57歳で亡くなるまで、実に多くのことを手がけていた人物であることを、思わぬことから知らされた。

リシリューとプッサン
 リシリューがラ・トゥールと同時代のプッサンNicolas Poussin(1594-1665)の絵を好んだことはよく知られている(最も好んでいたのは、シャンパーニュだったらしいが)。そして、リシリューがフランス、ノルマンディー生まれの画家プッサンをローマからパリへ呼び戻したこと、厚遇して雇ったこと、などはこの展示にも示されていた。
  
 他方、プッサンはローマの生活になじみ、パリには来たくなかったらしい。しかし、フランス王室は外交力で間接的に脅したり(?)すかしたりで、やっとこの画家をパリに招いている。1640年12月、パリに画家が到着後も、テュイリュー宮に滞在させたり、さまざまに面倒をみている。     

 プッサンは当時若くしてヨーロッパ美術界に知られた画家であったが、生年はラ・トゥールの1年後で、ラ・トゥールよりも13年近く長生きした。文化的で生活環境の整ったローマで良い生活を過ごしたことも影響しているのかもしれない。

王室になじまなかった画家  
  しかし、ルーブル宮には、プッサンの重用を好まぬ宮廷画家たちもいたようで、プッサンはさまざまな軋轢に悩まされたようだ。結局、パリの王室の生活は、肌に合わなかったようだ。まもなく、ローマに帰ってしまい、その後フランスへ戻ることはなかった(プッサンについては、別途少しくわしく書いてみたいこともある)。

  リシリューは建築設計への指示や要望などから推測すると、ギリシャのドーリア様式が好みのようであった。絵画については、多数の作品が彼の生涯を彩っているが、多くの美術家のパトロンでもあったリシリューは自分の審美観に合わない作品も積極的に集めようと考えていたようだ。後にフランスが世界に誇る財産となるが、コレクションには、プッサン、カラヴァッジョ、カスティリオーネ、ラファエル、ダヴィンチ、シャンパーニュなどおびただしい数の名作、大作が目白押しであった。さまざまな理由で寄贈された作品もあった。ラ・トゥールの作品もそのひとつと考えられる。

Reference
Cardinal Richelieu:Art and Power The Montreal Museum of Fine Arts,2002
http://www.mmfa.qc.ca/en/index.html
  
    余談だが、この展示のカタログは異色のテーマを意欲的に取り上げたこともあって、あまり目立たない美術館の主催にもかかわらず、非常に立派で読み応えがあるものになっている。このブログ記事で、歴史的事実にかかわる部分はこのカタログに依っている。 モントリオールの後、ドイツのケルンに移動し、同じテーマで展示された。
September 18, 2002 – January 5, 2003, Cologne, January 31 – April 20, 2003


この旅を実施するについては、小学生の頃に読んだ「セントローレンス川をさかのぼる」という書物(?)の記憶がどこかに残っていた。フランス植民地の成り立ちなどを含め、地名など今でもかなり細かい部分まで覚えているのだが、肝心の著者の記憶が不確かである。多分、長らく職場を共にした友人にきわめて近い方ではなかったかと思うのだが、いずれ確認してみたい。

コメント
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