17世紀半ばのネーデルラント共和国の地図(干拓以前で複雑な国土であることがわかる)
16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパの画家たちにとっての憧憬の地は、なんといってもローマだった。ローマで修業したというだけで、画家の評価が変わったといわれた。
ロレーヌ公国の首府ナンシーの宮殿でも、フランス宮廷文化を基本としながらも、イタリア風のファッションが幅をきかせていた。きらびやかな衣装をまとい、片言のイタリア語を話し、気の利いた詩句のいくつかを弄するだけのいかがわしい若者が宮廷に出入りしていた。彼らは貴婦人の格好なお遊び相手だったらしい。
それはともかく、このブログごひいきの画家ラ・トゥールが、イタリアへ行ったか否かは、画家の研究史上、かなり重みのあるテーマとなってきた。しかし、この画家のイタリア行きを立証する証拠のたぐいは未だなにも発見されていない。そればかりか、修業時代がほとんど闇に包まれている謎の画家だ。しかし、この修業あるいは遍歴の時代、具体的には画家が12-3歳から23歳頃、1605―1616年頃までの時期は、画家のその後を推測するにきわめて重要な意味を持っている。ラ・トゥールがどこかの工房で画業のための修業をし、ヴィックを経てリュネヴィルに移住するまで、まったく手がかりのない時期である。画家はこの年月にどんな遍歴修業をしたのだろうか。ここまでくると、やはり知りたくなってくる。
南ではなく北では
この画家の作品を見詰め、わずかに残る記録を手がかりに、当時のヨーロッパの地政学的な観点を含めて、この画家のたどった人生を考えてみた。かなり以前から、少なくとも多感な青年時代、遍歴の時期にこの画家がほぼ間違いなく訪れたのは、イタリアよりもユトレヒトなどの北方の地ではないかという気がしていた。こちらも記録はなにも発見されていないのだから、あくまで推測にすぎない。
もちろん、多くの美術史家が暗黙にも前提とするようにイタリアにも行ったかもしれない。だが、それ以上に可能性の高いのはヴィックやナンシーから距離的にもはるかに近いユトレヒト、アムステルダムなどのネーデルラントの地ではなかったかと思われてくる。
ネーデルラント絵画の底流
長らくこの画家の作品を見てきたが、イタリアン・バロックの印象は、画面からあまり強く伝わってこないのだ。むしろ、同時代ネーデルラントの画家たちの作品を見ていると、その根底に共通に流れているものを感じる。たとえば、レンブラントの弟子であったエリット・ダウ Gerrit (Gerard) Dou (1613 Leiden,―Leiden 1675) やゴッドフリード・シャルッケンGodfried Cornelisz Schalcken (1643 near dordrecht – the Hague 1706)などのネーデルラント画家の作品(下掲)を見ていると、その感はさらに強まってくる。年代としては、ラトゥールよりは少し若い世代だ。
Gerrit Dou Old woman with a candle Oil on panel, 31 cm x 33 cm Wallraf-Richartz Museum, Cologn
Godfried Cornelisz Schalcken. Girl with a candle late 1660s Pitti Gallery, Florence
これらの作品を眺めていると、この時代に共有されていたネーデルラント文化の基調のようなものを感じる。いずれ記すことがあるかもしれないが、イタリア修業から帰国したテル・ブリュッヘンなどにもその残照のようなものが感じられる。ラトゥールの作品とも近いものがある。
当時の芸術文化の世界は、アルプスを境に「南」と「北」に分けられ、「南」はイタリアを意味していた。より具体的には、ローマであり、フィレンツエ、ヴェネツイアなどの都市であった。「南」は青い空に太陽が輝き、芸術が花開き、文化が栄える憧憬の地であった。 これに対して「北」は、元来「南」を前提に考えられた存在だった。地域的にも漠然としていたが、ドイツ、ネーデルランド(オランダ、フランドル)、広くはフランスなどを含めて想定されていた。イタリアのような華やかさはないが、地味ながら確固とした文化が展開していた。「北方ルネッサンス」ともいわれるように、この地にも独自の文化が花開いていた。実際、「北」から「南」への文化の流れも着実にあったのだ。
こうした中で、レンブラントやリーフェンスのように南を目指す流れに安易に身を任せない画家たちもいた。自らの技量に自信を持ち、イタリアまで行かなくてもアムステルダムでイタリアは分かると豪語していた。ネーデルラントの地には、それを支える文化の基盤がしっかりと形成されていた。とりわけ、ユトレヒト、アムステルダムなどはその中心的位置を占めていた。あのテル・ブルッヘンもイタリア帰りでユトレヒトで活動したカラヴァジェスキの一人だ。次回は、ユトレヒトに行ってみるか。