時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

アーネスト・サトウと日光

2008年05月20日 | 午後のティールーム

  災害など暗い話題が多い昨今、少しやすらぎを感じることがあった。以前に、このブログで、緑陰の美しい日光中禅寺湖畔のあまり知られざる景観について記したことがあった。

  その中で、読まれる機会の少ない日光東照宮発行の年報誌『大日光』に掲載された、
工藤圭章氏の「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」という論文に言及した*。このアーネスト・サトウは、明治の日英外交史で大きな役割を果たした英国公使アーネスト・サトウ Earnest SATOW である。蛇足ながら、このサトウの名は、日本人に多い佐藤ではなく、SATOWという英語であり、イギリスの方である。

  サトウは幕末、生麦事件のあった年、1862年(文久2年)に、19歳で通訳官として初めて来日し、明治維新を通して滞在、その後度々の日本勤務を含めて、1895年(明治28年)からは公使として、通算では実に23年ほどの長きにわたり日本に滞在され、大変日本を愛した外交官である。

  このサトウ公使と日光、そして英国との関係について、フライ・豊子駐日英国大使夫人が講演をされた記録が、『大日光』78号に収録されている。サトウが中禅寺湖畔に建て、その後英国大使館別荘となっている建物について觸れられながら、サトウが愛した日本と桜について、そしてサトウの遺児のその後などを含めて、大変興味深い内容である。とりわけサトウが建てた湖畔の別荘は、大使館別荘としてすでに同じ場所に111年間建っていることに改めて驚かされる。

  英国大使館別荘は、現在も使用されているので見学はできないが、この湖畔には少し先きにある旧イタリア大使館別荘を栃木県が取得し、整備して一般公開している。これも英国大使館別荘と同様に基本的に日本家屋であり、湖に面したテラスのガラス戸には、最近の新しいガラスではなく、少し景色が歪んで見えるような鉛分の多い昔のガラスがはめこまれている。

  このあたり、新緑から夏、紅葉の頃までは大変素晴らしい。美しい夏は短く、9月になると暖房がほしい日も出てくる。そして、冬は長く厳しい。中禅寺湖は、男体山の噴火活動でできた湖で遠浅ではない。はるか昔、このあたりで何度かの夏を過ごし、泳いだことがあった。岸辺には格好な広さの砂地が湖に向かってなだらかに続いているが、2-30メートル先から急に深くなっている。中禅寺湖は冬も結氷しないが、水に落ちたら心臓麻痺を起こすほどの冷たさである。この砥沢といわれるあたりは、半月峠へ向かう自動車道路なども整備され、さすがに人の手が入っているが、半世紀ほど前の光景はあまり変わっていない。

  湖面には男体山がその雄大な山容を映し、湖畔からは文字通り見上げるような感じである。湖畔の二荒山神社中宮祠から山頂まで続く、大崩落によるガレ場が印象的であり、夏の晴れた日などは頂上へ向かう人たちの姿が見えるほどだ。

  大使館など湖畔の別荘は、岸から湖に向けて木造の桟橋を設けていることが多く、ポールに国旗が掲げられていたこともあった。早朝、鱒釣りに出かける大使などのボートが、朝靄が立ちこめる湖面へ向かう光景なども記憶の片隅にある。

   旧イタリア大使館別荘公園として整備されてから訪れる人も増えつつあるが、このままに残っていてほしい隠れた憩いの場である。

 

 

* 工藤圭章「中禅寺湖畔の英国大使館別荘とアーネスト・サトウ」『大日光』 77号、2007年
 大変残念なことに、この論文の著者工藤圭章氏は、その後お亡くなりになったが、ブログを読まれたご家族からのご連絡などもあり、不思議な縁を感じている。

** フライ 豊子「日光と英国 アーネスト・サトウ公使の桜」『大日光』78号、2008年

コメント
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