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17世紀初めのロレーヌ地方。緑色の部分がロレーヌ公国。その他はフランス王国などの領地。
3つの司教区も実際にはフランスが支配。
Source: Histoire de la Lorraine et des Lorrains, 2006
明日は今日よりは良くなるとは言えなくなった。明日はさらに悪くなる、あるいは何が起こるか分からないという世界になっている。日本も例外ではない。というより日本はその典型かもしれない。
政治は混迷を極めている。衆院選に名乗りを上げた政党は,主要なもので12を数え、中には公示1週間ほど前にあわただしく旗揚げした政党さえある。締め切り間際まで、節操のない離合集散があった。政治の混迷が続くほど、国力は疲弊する。国家としての基本政策が定まらないからだ。進路が定まらない国は、外交姿勢も不安定で、他国からもつけ込まれやすい。
原発問題、領土問題と緊迫した状況が続く中で、時々重なり合って思い浮かべることがある。このブログで再三記してきたロレーヌ公国という小国のたどった姿だ。現代の日本とはまったく関係がない17世紀ヨーロッパの話である。しかし、しばしば日本の今とイメージを重ねてしまう。
およそ400年前、ロレーヌは小国ではありながら、ヨーロッパ文化の中で、輝いていた。形の上では神聖ローマ帝国に属してはいたが、皇帝の直轄領ではなく、11世紀中頃からロレーヌ公爵家が治めていた。しかし、問題を複雑にしていたのは、公国内部に公爵の権力が及ばない領地が散在していた。これらはカトリック司教の直轄地、司教区であった。さらに状況を難しくしたのは、これらの司教区は16世紀半ばからフランスの実質的支配の下に置かれていた。この状況は、上掲の地図のようであり、ロレーヌ公国は、さまざまな勢力から浸蝕され、まるでロレーヌ〔地方)という海に浮かぶ島のようになっていた。要するに、国土を外国勢力によってじりじりと蚕食されてきた。この地図の西側はフランス王国、東側は神聖ローマ帝国である。
単純化してみると、西にフランス、東に神聖ローマという大国にサンドイッチのように挟まれた地域であった。「危機の時代」といわれた17世紀、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールがこの地で生まれ育ち,活動していた頃、この小国ロレーヌ公国は巧みな外交で、大国に押しつぶされることなく、なんとか生き残り、ヨーロッパ文化のひとつの拠点として栄えていた。公国の人々は、隣接する大国フランスの文化的影響を受けた生活を送りながらも、ロレーヌ公国を愛し、歴代ロレーヌ公に親しみと忠誠心を抱いていた。しかし、1630年代に入ると、この公国に決定的転機が訪れる。若い策略を好む公爵が無理矢理、公位を奪い、自分の力を過信したのか、フランスに叛意を見せる。彼には、当時のヨーロッパの勢力関係を、読み取る能力が欠けていたのだった。結果はほとんど最初から見えていた。
かねてからロレーヌを併合したいと考えていたフランスの策謀家リシュリュー枢機卿は、この時とばかりロレーヌ公の領地に進入し、1633年公都ナンシーを占領する。住民はフランス王ルイ13世への忠誠誓約書に署名を要求される。ロレーヌ公シャルル4世は国外に亡命し、公国の名は残ったが、1659年までフランスの総督によって治められることになる。
400年の時空を飛んで現代に戻る。日本の外交が、アメリカと中国という強大な勢力の間にあって、今後どれだけ国家として自主独立の路線を維持して行くことが可能なのか。あるいはすでにどれだけを失っているか。内政、外政のすべてについて長期を見据えた国家構想の確立と着実な政策の実行が欠かせない。この年末のせわしい中、国民はこの国の来し方、そのあり方、そして自らの行く末を、今度こそしっかりと考えねばならなくなっている。選挙日までわずかだが、今度こそ後悔しないよう、この国の明日を考えたい。