Thomas Piketty, CAPITAL IN THE TWENTYーFIRST CENTURY
The Belknap Press of Harvard University Press, 2014
英語版表紙
われわれが生きている世界はいったいどこへ向かって進んでいるのか。その将来はどうなるのか。最近の動向をみるかぎり、あまり明るい方向に進んでいるとは思いがたい。今世紀もまた紛争・戦争の世紀となることは、ほとんど確実になっている。人間はなぜかくも争いが好きなのか。イスラエルとパレスティナ(ガザへのイスラエル侵攻)、イラク、ウクライナ、そして日中韓をめぐる対立など、まもなく終幕となるワールド・カップ後の世界は、かなり心配なものがある。
今後の世界を見通すための手がかり、羅針盤がほしい。そうした思いがつのる中、昨年来アメリカ、ヨーロッパなどで大きな話題を呼んできたフランスの経済学者トマ・ピケティの労作については、ようやく日本でも一部の経済学者やメディアの間で注目を集めるようになった。このブログでも簡単な紹介を行ったことがある。
当初、フランス語で900ページ近いこの作品を手にした時は、目次内容などから一見して読書欲をそそられたが、同時に読了にはかなりの覚悟が必要とも感じた。あの難解なマルクスの『資本論』を考えたからだった。しかしながら、フランス人 professeur particulier の助けを借りながら、意を決して読み始めてみると、論旨は実に明解で読みやすい。現代の世界が抱える課題を、「持てる者」と「持たざる者」の格差に集約し、その過去、現在、未来を統一した視点から見事に分析している。
近年の経済学の専門書は論理は精密ではあるが、前提条件などの制約が多すぎ、数量化が暗黙の前提になっているため数式も多く、結果として迫力を欠き、読後感が薄いものが多かった。しかし、本書はテーマの設定、資料の選定、集計、推論、政策的課題など、専門書として手堅くステップを踏んで、結論に導く作業が見事で、きわめて成功している。『21世紀の資本』という壮大な表題からして、読者を一瞬ためらわせるが、読み始めてみると、歴史書の側面も含まれ、急速に引き込まれて行く。世界の主要国が注目する課題である所得格差の過去・現在・未来を、見事な分析と筆致で解き明かしている。
主として米日独仏英の5カ国を対象に、時間軸では実に200年以上も遡り、所得階層などを基準に、近現代史を通した資産・所得の変遷が鋭利なメスで切り裂かれ、分かりやすく提示されている。バルザックのたとえ話なども随所に出てきて、経済の専門家でなくとも、容易に読めるよう巧みに工夫されている。ともすれば、仕掛けばかり複雑な現代経済学の専門書と比較して、政治経済学の伝統が継承され、同時に歴史書を読むような楽しさもある。挿入されているグラフなどについても、必要最小限で大変分かりやすい。さらに詳細な内容・背景を知りたい場合には、著者のHPに照会するなどの手段がある。インターネットが生みだしたきわめて利便性の高い手段が駆使されている。
とりわけピケティの母国フランスは1789年のフランス革命直後から、国民の資産を「土地・建物と金融資産を併せて驚くほど現代的かつ総合的に記録」し続けてきたと書かれているが、こうした認識が著者をして、この壮大な作業に向かわせたようだ。まったく別の領域での関心から17世紀のフランスの史料のわずかな一端に接したことのある管理人も、各地の古文書館に思いもかけない記録が保存されていることに驚嘆した。とりわけ租税公課にかかわる史料は、今日からみるとまさに宝庫にふさわしい。税金は古来、領主や国家の財政基盤を支える最たる手段であるだけに、徴税に関連する史料は詳細で、しばしば付帯する情報も貴重なものがある。
ピケティは共同研究者とともに、15年におよぶ歳月をかけて、膨大な資料の解析に切り込み、「資本(または資産)の収益率は常に経済成長率を上回る」という驚くほど簡単な論理に整理してみせた。有効な政策手段をとらずに放置すれば、格差は広がるばかりなのだ。これはアメリカ経済学会会長でノーベル経済学賞を授与されたサイモン・クズネッツ(1901-85)の「所得格差は経済が成長すれば自然に縮小していく」という命題に、正面から対決を迫るものである。至近な例では、日本のアベノミクスの成長戦略にも関わっている。さまざまな多国間貿易交渉が格差のあり方にいかなる影響をもたらすか、考える基準にもなる。
経済のメカニズムはそれ自体複雑である上に、自然災害や戦争などによって歪められる。200年を越える資料を駆使して、時間軸の上で俯瞰することで、ピケティは自らの見出した一般的原則がいかなる場合に例外的結果を生むかを記している。たとえば、二度にわたる世界大戦や恐慌期には富裕層の資産が大きく目減りすることで、格差が縮小している。
もちろん、これだけの大著に批判される点がないわけではない。欧米諸国では、すでにかなりの議論が白熱して行われている。総じて賞賛が多く、統計記録の整備だけでも優れた貢献であるとの評価もなされている。今後、本書の提示した衝撃的な結果をさらに掘り下げた議論が世界的に展開することは確実だが、現時点で管理人が見るかぎり、最大の難点は、過去・現在以上に将来についての推論であり、今後の世界を救うための政策的提案の妥当性にある。この点をめぐっては、さらに議論が必要だろう。しかし、次の世代にとって残された時間は多くはない。格差が破滅的な事態にいたらない前に、グローバルな政策対応に着手する必要がある。
この大著を読み終えて、数々の問題を考えさせられた。ピケティの導き出した論理が、今後の世界経済にどれだけの妥当性を持つかという点が問題だが、ここではひとつだけ記しておこう。かつて、マンサー・オルソン(Mancur Olson、Jr., 1932-1998 )という優れた経済学者が第二次大戦後の時期における戦勝国であったイギリス、アメリカ経済の低成長、衰退と敗戦国である(西)ドイツ、日本の相対的に高度な経済的発展を、集団的行為の理論という彼独自の理論の延長線上で、説明してみせた。ドイツと日本は、敗戦で国土は壊滅状態となり、多くの国富を喪失したが、同時に専制的政府、財閥などの特別な利益集団の硬直的なネットワークも破壊された。戦前に存在した大きな社会的格差もかなり消滅した。しかし、復興とともに新たな桎梏の源が胚胎し、発展する。格差は再び拡大の道へ戻って行く。これらの国々の経済的盛衰を見てみると、さまざまなことを考えさせられた。所得や資産の格差がそこに存在する人間の行為にいかなる影響を及ぼすかという問題もそのひとつだ。
いずれにせよ、ピケティの功績は、平等と結果をめぐる古くからの論争に大きな一石を投じ、ひとつの新鮮で注目すべき前進をもたらしたことは確かだろう。ピケティのこの斬新な分析と推論がすべての点で、問題なしとは言い切れない。すでにいくつかの欠陥や政策の実現可能性について指摘もなされている。重要なことは、政治家や政策立案に当たる者が、こうした分析をいかに考え、今後の政策のために生かすかにかかっている。今後の世界を生きる若い世代の人たちには、人生の指針となるかもしれない。仏英版ともにきわめて読みやすく、しかも多くのことを考えさせる注目の作品である。暑さ(厚さ)をいとわず、大著に挑戦する気概のある人たちには、今夏の読書にお勧めの一冊である。
References
Mancur Olson. The rise and Decline of Nations: economic Growth, Stagflation, and Social Rigidities, New Heaven and London, Yale University Press, 1982.(加藤寛監訳『国家興亡論ー『集合行為論」からみた盛衰の科学』PHP 研究所、1991年。
拙稿「国家の盛衰と労使関係ー80年代労使関係研究のための覚え書」 『日本労働協会雑誌』1984年4,5月合併号