時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

現代産業社会を描ききる:L.S.ラウリーの作品世界(1)

2014年07月24日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lowry
Coming from the Mill
1930
Oil Painting on canvas
42 x 52cm
The Lowry Collection, Salford

L.S. ラウリー『工場から帰る人たち』 




 この絵は、誰がいつ頃なにを描いたものだろう。読者の中にはすでにご存知の方もおられよう。管理人にとっても長くごひいきの画家のひとりでもある。しかし、これまで、ほとんど言及することをためらってきた。書き出すと、もうひとつ、ふたつ新しいブログを始めねばならないと思っていたからだ。しかし、かなり長い間、人生の傍らにいてくれたような画家とその作品である。ある時期、身辺にはこの画家とその世界を思い出すもので溢れていた。人生の断片を記すからには、やはり欠かせないと思い、少しだけ記すことにした。その全容をお伝えすることはできないことは承知の上である。17世紀のラ・トゥールとは、またかなり離れた時空である。


 隠れサッカーファンとして、マンチェスター・ユナイテッドやシティの試合(マッチ)を見ると、必ずといってよいくらい思い出す画家である。画家の名は L.S. Lowry(1887-1976)、ローレンス・スティーヴン・ラウリー。イギリスで最も人気の高い現代画家のひとりである。しかし、長い間、ことさらに無視されてきたところもある。他方には熱狂的なファンもいる。いうまでもなく管理人は後者に入る。画家の最初の作品に出会ったのは、1970年代繊維や自動車工業の労働問題を調査していた頃に、この地の大学で教えていた友人の招きでの旅の途上であった。ラウリーはかなり作品数の多い画家であるが、一枚一枚を見ている間に、この画家が生涯、描いてきた産業社会なるものの実態が、絵画という作品を通して、文字や写真とは新たな次元で浮かび上がってくるのを感じた。


 少し画家の来歴も記さねばならない。ラウリーの評価は、長い時間をかけて、エスタブリシュメントの側の低い評価から多くの人々に愛される画家へと変化してきた。昨年テイト・ブリテンで開催されたこの画家の最初の企画展は、彼の死後初めて、ロンドンの主要な美術館で開催されたものとなった。この企画展には90点以上の作品が展示された。彼の作品の特徴のひとつであるイギリス北部の工場町における荒涼とした、時に暗鬱な光景とそこに働く労働者階級の姿の描写は多くの人々の注目を集めてきた。

画家の生い立ち 
 ラウリーは1887年(明治20年)ランカシャー・ストレットフォードに生まれた。父親はアイルランド系であった、両親の間でただひとりの子供だった。ラウリーの両親は、決してある規範を逸脱したような性格ではなかったが、後の画家の回想からはラウリーにとってはかなり抑圧的に感じられたようだ。地域の学校に通いながら、家庭教師のレッスンも受けた。そして1904年不動産会社の事務員となった。


 1905-1915年の間、彼は後のマンチェスター美術カレッジの前身で絵画を学んだ。その後1909年に両親とともにサルフォードのペンドルベリーへ移り住み、40年余りを過ごした。この地には紡績会社が多く、その工場町の空気は、その後の画家の生活、制作への基礎を形作った。ラウリーはサルフォード美術学校で学び、画題として当時発展し始めた都市と工業化してゆく景色を描くことに興味を抱いた。そして、この画家は一生を通して、工業化とそれに関係する出来事、風景を一貫して描き続けた。
 

資本主義社会はなにをもたらし、どこへ行くか
 われわれが生きる現代社会は、しばしば資本主義社会とも呼ばれてきた。この言葉が使われ始めたのは19世紀中頃のイギリスであった。産業革命の進展、18-19世紀にかけて定着した近代的な量産システムと、天災、飢饉、疾病、疫病などによらず、この新たなシステムが生みだした新たな貧困と所得や富の格差の拡大は、いまや世界の行方を支配しかねない重要課題だ。われわれがたどり着いた現在までの道、そして今後の世界はどうなって行くのだろうか。すでにさまざまなことがいわれているが、少し時間軸で範囲を限定すれば、われわれが住んでいる資本主義社会といわれる体制が生まれ、発展して、現在にいたり、そしてこれからどうなるのかという問いに尽きる。

 このブログで、サッカー・ワールドカップ後の世界は、きわめて難しい局面を迎えるだろうと記したことがある。ワールド・カップが開催されている間は、地球の人口のかなりの部分が、日常の生活の苦難や悩みを忘れたいと思っているかのように、熱狂していた。かなりの間そのユーフォリア(陶酔感)に浸れるだろうと思っていた日本は、見せ場もなく一次リーグで敗退し、しぼんだ風船のような状況だった。そして、ドイツが優勝、熱狂はさめ、待っていたかのように、イスラエル・パレスチナ、ウクライナ、東アジアなどで、いくつかの危機が世界を襲っている。ラウリーは町の人たちがサッカー(フットボール)に興じる光景も描いている。フットボールは娯楽が少ない労働者階級にとって、大きな楽しみのひとつであった。

画家の心象風景
 この作品、工場での1日の仕事が終わり、人々が工場から出て家路につく光景を描いている。背景には高い煙突が立ち並び、黒煙を立ち上らせている。空は煤煙に覆われ、薄暗く、青空の一片も見えない。前景には同じような衣服を身につけた多数の人々。が背を丸め、前屈みで忙しそうに歩いている。季節は恐らく冬であり、寒風に耐え、ひたすら工場を離れ家路を急いでいる。ロウリーの作品のひとつの特徴である「マッチ棒のような人たち」"Matchstick men" と呼ばれる労働者階級の人たちである。人物ひとりひとりの個性は感じられないが、全体としてひとつの強く訴える力が伝わってくる。これらの作品はロウリー独自の世界を醸し出すものであった。1960年代、そして1970年代のマンチェスター、そしてロンドンでもこうした風景は日常のものであった。1980年代初めでも、ロンドンはスモッグの日が多く、青空は見ることが少なかった。炭鉱労働者とサッチャー首相が闘っていた。ラウリーのこの作品は、ほとんど毎日眺める実際の工場を写実的に描いたものではない。画家の心象世界に残るイメージを具象化したものといえる。
 
 ラウリーはフランス、印象派のドガ、マネ、スーラなどの影響も受けていたと考えられる。それとともに、イギリス、ラファエロ前派の美術家ロセッティの作品を多数、集めており、自らの作品形成の霊感的源泉としていたようだ(これらの点には後日触れることがあるかもしれない)。 

  時代とともに、ロウリーの評価はエスタブリシュメントの側の低い評価から多くの人々に愛される画家へと変化してきた。昨年テイト・ブリテンで開催されたこの画家の企画展は、彼の死後初めて、ロンドンの主要な美術館で開催されたものとなった。この企画展には90点以上の作品が展示された。彼の作品の特徴のひとつである北の工場町における荒涼とした工業化する地域の光景とそこに働く労働者階級の姿の描写は多くの人々の注目を集めてきた。ラウリーの作品数がいったい何点になるのか、分からない。かなりの数になり、多数の公的、私的なコレクションに納められている。最大のコレクションは画家がながらく過ごしたサルフォードに2000年開設された画家を記念する総合的なアート The Lowry であり、約400点を所蔵している。

 数多い作品を、つぶさに見ていると、工業化社会、そして資本主義といわれる制度が人間の社会、生活をどれだけ変容させたかが、痛いように伝わってくる。それは、これからの時代を考えるに際して、大きな拠り所となる。ロウリーの作品は一点だけをみる限りでは、とりたててへんてつもない工場や労働者の光景であったり、当時勃興していた都市生活の一断面であったりする。しかし、しばらく見ていると、画家が生きた産業社会の空気、そこに生きる人々のイメージが次第に浮き上がって観る人に伝わってくる。 




  

L.S. Lowry(1887-1976)
 その後、ラウリーは1919年からマンチェスター美術アカデミー、パリ・サロンに出展するようになった。19世紀後期のフランスの画家たち、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・スーラ、モーリス・ユトリロなどの作品から影響も受けた。1930年代初期にはロンドンのロイヤル・アカデミーにも出展した。1945年にはマンチェスター大学から名誉修士号を与えられた。1961年には文学博士号を授与された。翌年1962年にはロイヤル・アカデミー会員に選ばれた。1965年にはサルフォードの名誉市民になり、その後も多くの名誉に輝いた。そして1976年に世を去るまでモットランに住んだ。しかし、ラウリーは大英帝国勲位、ナイトの栄典など5度にわたって断っている。市民的名誉は受けても、国家から授与される栄誉は、自分にはそぐわないと思っていたのだろう。

 ラウリーは疑いの余地なく、最も名誉あるイギリス画家であり、工業化を続ける北部の文化と光景を比類無い形で描き出した。第二次大戦前後の北部の工業化し、都市化する光景を描くことに秀でていた。ラウリーは多数の空虚な印象を与える景色や海の風景も制作した。これらの作品はラウリー独自の世界を醸し出すものである。
 
 さらにこの画家は生涯に同時に多数の鉛筆画を残している。これらを含め、この画家の作品は、今日では熱心な愛好者の収集対象になっている。20世紀イギリスの主要な画家のひとりとしてのロウリーの位置は、下に掲げる ”Going to the Match ”『試合を見に行く』 と題された作品が、オークションで実に190萬ポンドという高額な値がついたことでさらに強まった。

 


Going to the Match 『試合を見に行く』
1953
Oil paint on canvas
71 x 91.5cm
Professional Footballers' Association (PFA) プロフェッショナル・サッカー選手協会が所有し、National Football Museum 暫定で 国立サッカー博物館に展示されている。

沢山の人たちが試合が行われるスタディアム(ボルトン)に向かって歩いている。中央に一部スタンドが見えるが、すでに多くの座席が埋まっている。右側には近くの工場群が見える。スタディアムへ向かう人々のほとんどは男性だが、女性も少し混じっているようだ。イギリスのサッカー文化の1面を伝える著名な作品。ちなみにラウリー自身はマンチェスター・ シティFCの熱心なサポーターであった。
当時、サッカー場は画家にとっても重要な制作の対象であった。このラウリーの作品より20年ほど前には Charles Ernest Cundall, Arsenal v. Sheffield, F.A. Cup Final, Wembley, 1936 と題された楕円形のスタディアム全景を遠望した作品が制作され、恐らくラウリーにも影響を与えたと思われる。


1993年、ロンドン、テート・ブリテンで、1976年の画家の死後、ロンドンの主要な美術会場では初めてのL.S.Lowryの回顧展が開催された。


Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE,
London: TATE, 2013. 

 

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