時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

北の町を描き続ける:L.S.ラウリーの作品世界(5)

2014年08月06日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

 


Flowers in a Window
1956
Oil paint on canvas
50.8 x 61cm


『窓辺の花』
 どこかの町の人通りのすくない道に面した家。茶色の煉瓦の壁が外壁となっている。灰色がかった石畳の歩道。子供が描いた絵のような感じもする、平凡な光景。しかし、熟達した画家の作品である。よく見ると、煉瓦の一枚、一枚もしっかりと描き込まれている。歩道の石もどれも同じではない。
とりたてて記すほどのこともない、ありふれた家。そしてその一場面。労働者街の一角かもしれない。きっと画家の住む町なのだろう。
ふと見ると、白いカーテンが開かれていて、花瓶に花が生けられている。なんの花かも分からない。
室内も通りから見えるようだが、特になにも描かれてはいない。しかし、見ていると、どことなく和らいだ雰囲気が観る人に伝わってくる。いつもは冷たく殺風景な街路も今日はどこか少し柔らかく、癒される。


 ラウリーが残した作品を見ていると、いつとはなしに心が和み、穏やかになる。描かれた対象はイングランド北西部の工業都市。年間を通して青空の見える日の少ない決して明るい環境ではない。そして、描かれた対象の多くはその地の工業のやや荒廃した風景が多い。特に注目される作品は、『工業の光景』 Industrial Landscape と題された工業都市のさまざまな場面である。工場、林立する煙突、あるいは労働者の住宅の煙突から立ち上る煙で、描かれた空はいつも灰色に曇っている。実際この地を訪れてみると、今日では青空の日も多いのだが、この画家が当時描いた作品の空はいつも独特の曇り空である。そして、ロンドンなどの大都市もスモッグで昼でも薄暗く、大気汚染は多くの人命をうばっていた

青空の見えない空の下で、産業革命以降、工業化の進んだ都市に住む人々のさまざまな姿をラウリーは描いた。工場などで働く労働者にとどまらず、街角で世間話をする人、j冬にはスケートを楽しむ人、犬を連れて歩く人、乳母車(バギー)に子供を乗せて押している母親、サッカーの試合のことを話しているらしい男たちなど、都市の活動のあらゆる面が描かれている。

  こうした作品を見ているだけで、なんとなく引き込まれ、ラウリーのファンになる人がきわめて多いようだ。一見すると、子供が描いたようなほほえましい絵も多いが、画家はしっかりとした美術の教育を受け、スキルを磨いてきた。ロンドンの美術の権威たち?が評価しなくても、ラウリーの絵が好きな人たちは老若男女を問わず多数に上り、人気は絶大だった。小品でも掘り出し物がマーケットに出ると、驚くほどの値がついた。


『冬のペンドルベリー』
Winter in Pendlebury (1943), oil on panel , 44.0 x 24.0 cm
1859年に建造されたこのSt. Martin Church は1964年に取り壊された。
右側の建物は当時操業していたAlbion Mill。
しかし、左側の側壁は今日も残っている。ラウリーが好んで描いた場所でもあり、冬の市街の雰囲気がよく伝わってくる。

画家の家庭環境
 画家の家庭は、父親が不動産会社の事務員、あまり自分を主張することない静かな男だったようだ。母親は人に尊敬されるようなピアノ奏者になりたいと思っていたが、果たすことができず、かなり神経質で鬱屈していたようだ。鬱病に悩んだ時もあった。息子には支配的で、抑圧的であったらしい。ラウリー自身、自分の幼年時代は不幸であったと晩年に述懐してもいる。しかし、表面的には破綻を来すまでには行かずにすんでいた。

 幼年時代の初期は、マンチェスターの郊外のラスホルム Rusholme の木々の多い地域で過ごしたが、家庭の財政窮迫で一家は1909年に、ペンドルベリー Pendlebury という工業都市のステーション・ロード117番地へ移り住んだ。ラウリーはここが好きではなかったと記している。あたりは機械工場、繊維工場、炭鉱などで囲まれた工業地帯であった。しかし、年と共にラウリーはこの地になじみ、その地の風景や人々の生活を描くことで、自分の存在を確認していった。描かれた光景は、当時の美術界の体制派からみれば、美術の対象にはならないとみなされた工場や都市の風景であった。しかし、ラウリーはそこに描くべき対象を見出し、膨大な蓄積を残した。


『鉄工場』

Iron Works (1947)
oil on canvas, 51 x 61.5cm

画像クリック拡大

 画家の住んだ地域には工場にエネルギー源の石炭を供給するための炭鉱もあった。1880年には
ニュータウン炭鉱の縦坑が掘られ、1961年まで操業を続けたが、その年に廃坑となった。ラウリーにとって炭鉱も格好の画題であった。今日は再開発され住宅地となっており、当時の有様を
知ることは難しいが、ラウリーの作品によって在りし日の鉄工業、採掘された石炭を選炭場へ運ぶ炭車の列がいかなるものであったかを知ることができる。


 この作品が制作されたのは1956年、画家の晩年に近い。この年、前年のロンドンのスモッグがひどく、なんと12,000人の死者が出たことに対して、「空気浄化法」 Clean Air Act が制定された。法律の目的は家庭から出る煙による大気汚染の防止にあり、より汚染の少ない石炭、電力、ガスなどへの転換を促進することにあった。発電所は都市部から遠隔地へ移転を迫られ、煙突の高さも高くなった。 

 

Reference
Judith Sandling and Mike Leber. LOWRY'S CITY, Lowry Press, 2000. 

コメント
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