時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

絵と音楽を結ぶ:L.S. ラウリーの作品世界(8)

2014年08月14日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



Coming from the Mill
A Musical Evening for L. S. Lowry
the Gift of Music
L.S. ラウリーのためのコンサート CD ジャケッ
『工場から帰る人たち』 


 1964年11月、マンチェスターに本拠を置く伝統あるハレ・オーケストラ(通称 The Hallé) は、L.S. ラウリーの77歳の誕生日を祝って、特別記念コンサートを開催した。


 この画家の作品の数は多く、ジャンルもかなり多岐にわたることはすでに記したが、なんといっても大きな貢献は、産業革命以来、その中心であったマンチェスターと近傍の工場風景、都市化への変容、そこに住む人々の日常の光景をつぶさに描いたことにある。産業革命以降、イギリスは世界に先駆けて工業化の道を進み、あらゆる点で大きく変貌した。しかし、工業化がもたらした暗い汚れた光景には人は目を背けても、直視することはなかった。こうした中で、ラウリーは、画題としてはほとんど注目を集めることがなかった工業化・都市化の姿を終始一貫取り上げた希有な画家であった。


 それだけに、なかなか画壇の主流から評価されることがなかったが、イングランド北西部を中心に、ラウリーの作品をを愛するファン層は拡大の一途をたどった。この画家の制作態度は、初期には工業化のさまざまな場面を描きながらも、登場する労働者については、「マッチ棒のような人たち」に象徴されるように、独特の画法でひとりひとりの人間からは、やや距離を置いていた。当時のラウリーにとっては、工業化の大波に呑み込まれてゆく人たち、そしてそれによって大きく姿を変える工業地帯、都市としての全体像を描くことjが関心事だった。機械や労働規律が支配を強める過程で、工場労働者はかつての職人が持っていたような個性を失っていった。しかし、それでもラウリーはその変化を重視し、工場や炭鉱、事務所などで働く新しい労働者やその家族それぞれの日常の姿を描くことに画家としての視点を移していった。

今日の労働を終えて
 この記念コンサートのCDジャケットに採用された Coming from the Mill 『工場から帰る人たち』は、すでにブログに記した通り、ラウリーのこのジャンルの代表作である。長い工場での一日が終わり、夕闇迫る中、多数の労働者が工場からはき出されるように、家路についている。1日の長い労働に疲れ、家庭での休息を求めて、皆前屈みに歩いている。そこにはなんとなく鬱積したような疲労の色さえ感じられる。工業化は工場で働く以外に日々を過ごす糧を得る手段を、人間から奪い取っていた。かつての牧歌的な手工業や自分で仕事の段取りを決められる生活は後方へ追いやられていった。次々と生まれる巨大な工場や炭鉱は、まるで集塵機のように人々を吸い込み、排出した。歴史上初めて他人に雇われる以外、生活の手段を持たない労働者が誕生したのだった。

 決して表面的には美しいとは思えない工場や煙突の林立、そこからはき出される黒々とした煙や煤煙で汚れた空を正面から取り上げて描いたラウリーの作品は、産業革命以降のイギリス社会の重要な変化を今日に伝えている。当時撮影された工場地帯の写真は、もちろん存在するが、モノクロのおよそ美しいとはいえない、単なる記録写真である。しかし、ラウリーの作品は、工業化がもたらした変化をリアリスティックに、そしてそれがもたらした人間への影響の大きさを生々しく描き出している。描かれた光景は暗く汚れていても、画家にはそこで働くこと以外に生活手段がなくなった人々への深い同情と愛がこめられていた。時には稚拙なように見える独自の画法も、ラウリー自身が正規の美術教育を受けた上で、創り出したものである。

失われて行くものを描き残す
 こうした工場、労働者住宅、巨大煙突などは、マンチェスターなどでも、1960年代には急速に変化し、次第に消滅の途上にあった。都市化の波は、薄汚れた工場建屋やまっ黒な煙突の煙に象徴される産業革命後の鉱工業の姿を、次第に台頭してきたサービス業などにみられるオフィスビルなどの建物に変貌させつつあった。ラウリー自身が定年まで働いていたのも、地域の不動産業であった。この過程で、ラウリーの画家としての制作対象も変化を見せて行く。

 ラウリーの描いた工場や鉱業所などの光景、さらには地域のさまざまなスナップショットのような作品に、多くの人たちが惹かれていった。画家の関心が移行しても、工業化のさまざまな場面を描いた作品の与える印象、時にそこに込められたノスタルジックな思いは、地域の人々の間でかえって強まっていった。この画家の作品はオークションなどでも高値を更新し続けた。

 作品を手にすることができない人々のために、多くの公共美術館などの施設が、画家の絵を取得し、人々の要望に応えてきた。なかでも、画家が長らく住んでいたサルフォードの美術館は、350点近いラウリーの作品を所蔵するまでになった。その後、作品の多くはマンチェスターのサルフォード波止場のThe Lowry というきわめてユニークな公共の施設で展示されるようになった。


地域に行き、人々に愛された画家
 ラウリーは晩年イングランド北西部の人たちからは、大きな尊敬の心で迎えられていた。地域の人々は年とともに失われていく故郷の光景に懐かしさをこめた思いを抱き、それを描く画家に親しみを感じた。多くの画家たちがこの国の中心舞台であるロンドンを目指し、この地を離れてゆく中で、ラウリーはかたくなまでにこの地に留まることを選んだ。こうした画家の功績に、画家と思いを共にする人たちが彼に贈ったのが、これも同じマンチェスターの宝であるハレ交響楽団の演奏会だった。

 ラウリーは自分がこの地で生涯を送り、地域に関わる作品を描くことに全力を注いだことについて、次のように記している:

 私の描きたい主題はすべて自分のまわりにあった。。。。ペンドルベリー近くの工場、炭鉱など。そこで働く人たちは朝夕目の前を通り過ぎていた。私の制作のためのすべての材料は家の戸口にあった。

画家と音楽
 ラウリーの画家人生で、音楽は特別なものであった。母親は息子が画家になることに反対していたが、自らはピアノを弾き、演奏家になることを夢みていた。後年、ラウリーはイタリアのオペラ作曲家ドニゼッティとベリーニの音楽をテーマとする作品を制作したこともあった。彼はこの記念演奏家の曲目になにを望むかを聞かれた時、いつも自分が耳にしている好みの曲のリストを上げた*。


 関係者が画家の77歳の記念にこの催しを企画した時、ラウリーは80歳までは生きないのではないかと案じたようだった。 しかし、画家はその後12年を生き、制作を続け、1976年、88歳で世を去った。ラウリーの人気は画家の死後も高まるばかりで、生前こうした展示を企画することのなかったテート・ブリテンも、昨年初めてこの画家の回顧展を開催した。イギリス美術界のエスタブリシュメントが認める以前に、北西部から出ることのなかったこの画家はその声望に支えられ、国民的画家になっていた。






 この記念コンサートCDにはコンサートの演奏曲目に加えて、ラウリーが自宅で好んで聴いていた曲目も加えて、編纂された。曲目の選定について興味深いこともあるが、20世紀を代表する希代のソプラノ歌手マリア・カラス Maria Callasが歌った曲が含まれていることだ。とりわけ、ベリーニ『ノルマ』 Norma ― Casta Diva Vincenzo Bellini は、1958年ローマ歌劇場公演の際、ノルマ役で出演したカラスが、思うような歌唱発声ができなくなったとして、第一幕だけで出演を放棄、大混乱になったいわくつきのものであるだけに興味深い。

  さらにハレ・オーケストラの常任指揮者は当時、同楽団中興の祖とといわれたジョン・バルビローリだったが、1970年に急逝した。










 

 

 

 
 

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