時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

自らの生き方を貫いた画家:L.S.ラウリーの作品世界(3)

2014年08月01日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

Street Scene (1935), oil on canvas, 43 x53cm
『通りの光景』 

 画家L.S.ラウリーが40年近く住んだPendlebury
ペンドルベリーは、画家にとって最も重要な制作上の
アイディアが生まれ育った場所だった。近くには多数の
工場、炭鉱があり、イギリスの代表的産業地域であった。
町の中心部にはThe Acme Spinning Company Mill
アクメ紡績会社が1905年に開設されて操業していた。
作品の背景にそびえる巨大な建物がそれである。
イギリスで最初にすべての動力を電力で供給していた。
そのために、ラウリーの産業の光景にほとんど例外なく
描かれている煙突がない。描かれた場所がかつては
人々が集まる町の盛り場の一つであったことが分かる。
この建物は1984年に都市再開発のために撤去
されて
しまったので、当時を偲ぶ貴重な絵画作品である。
 


 L.S.ラウリーという画家については、思い浮かぶことがあまりに多くて、一度書き始めると止めどもなく広がってしまう。現代の画家であるにもかかわらず、日本ではこのブログで、取り上げている17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラトゥールとはまったく違った意味でほとんど知られていない。しかし、20世紀のイギリスでは非常に人気のある画家である。画家の生前、長い間テートのようなエスタブリッシュメントや一部の保守的美術評論家が軽視しようと、ラウリーは意に介せず、淡々と絵筆を手にしていた。エスタブリシュメントが無視しようと、画家の評価は着実に高まり、歴然としていた。そして画家の死後になったが、昨年テート・ブリテンがやっと回顧展を開催したこともあって、最近再び急速に人気が高まっている。作品はオークションの大人気アイテムで驚くほどの高値がついている。

深い人間愛に充ちた作品
 個人的にも、この画家の作品そしてその人生の過ごし方は素晴らしいと思う。これまで見た企画展のカタログや作品集、伝記などを読んでいると暑さも忘れ、思わず子供に戻ったように楽しくなってくる。単純なテーマを描いたにすぎないと思われる作品であっても、他の作品と併せて見ていると、画家の深い人間愛が伝わってくる。イングランド北西部特有の曇り空、そして工業地帯の排煙などで青空のみえない光景。その下で日々を過ごす人々への暖かな心。一部の作品だけを見ていると分からないこの画家の広い心象世界に、深く入り込むほどに人々は癒される思いがする。画家は町中には、こうした工場や労働者ばかり目につき、他に描く対象がなかったから、ただ描いただけと述べているが、工場の煤煙や騒音の中にある美しさを見出した画家の作品は、時を経て現代につながる貴重な記録となった。

 作品を通して、人々はラウリーの人間性に感動させられる。ラウリーの前半生は恵まれたものではなかった。両親はラウリーが持って生まれた画家としての天性に気づかず、それを積極的に育てようとも思っていなかったようだ。そのため、絵を制作することは、趣味(hobby)として認められていた。ラウリーは義務教育の過程を終了すると、ポール・モール社という不動産会社に書記として雇われ、後には家賃の集金掛となり、65歳の定年までその仕事を勤めていた。しかし、ラウリーは会社勤めの傍ら、個人教授や美術学校に通い、美術の技能修得に努めるとともに、暇さえあれば制作に当たるという生活を過ごしていた。

 こうして、仕事の合間に描かれた作品は、次第に人々の認めるところとなり、多くの愛好者が生まれた。小さな作品でもオークションの対象になり、高値がついた。作品の多くはサルフォード・シティ・アート・ギャラリーなど地元の美術館などが購入し、今日に残る貴重なコレクションの重要な部分を構成した。1927年にはお高いテート・ギャラリーも初めてラウリーの作品(Coming out of School)を一点購入した。


 ラウリーは決してエスタブリシュメントが考えたような「日曜画家」の類ではなかった。彼は会社勤めをしながら、デッサンの個人教授を受け、さらに1905年にはManchester School of Artでフランスの印象主義者の教師P.A.Valetteについて研鑽を重ねた。ラウリーは印象主義そしてパリで同時代に起きていることに多大な関心を抱いていた。さらにラウリーはSalford Royal Technical College(University of Salford) に入学し、1925年まで研鑽を続けた。画家としての技能をしっかりと身につけていた。後年1945年にマンチェスター大学からMaster of Arts の名誉学位を、1961年にはDoctor of Letters の名誉学位を授与されている。1965年にはサルフォードの名誉市民となり、1968年には作品は郵便切手(シリーズの最高表示価格)にまで採用された。
 しかし、ラウリーは世間的名誉などは気に掛けない人物だった。大英帝国爵位、ナイトの称号など、国家的栄誉授与の申し出を実に5回にわたり辞退、断っている。

エスタブリシュメントが理解できなかった作品 
 ロンドンの美術界エスタブリシュメントは、なかなかラウリーの作品を評価しなかった。この画家独自の様式化された人の描き方やイギリス北西部の天候の変化が少ないこともあって、イングランドの北の方に住み、工場や都市などばかり描いている2流の画家とみなしていた。彼らは、工場や都市の風景などは、美術の対象にならないと思う人々の集まりだった。他方、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツは、ずっと開放的だった。ラウリーの作品についても正当に評価してきた。余談だが、ここは管理人のごひいきの場所だ。これまで何度通ったか分からない。ロンドンに行けば、最初に出かける場所だった。ラウニーもロイヤル・アカデミーの方をはるかに好んでいたようだ。後に、アカデミー会員に選ばれている。この経緯にも興味深い話があるが、後に記すこともあるかもしれない。

 ラウニーの作品については、この画家が生涯のほとんどを過ごし、描き続けたイングランド北西部のことを知らずには理解できない。この画家は自分が住んだ地域の光景を生涯にわたって描き続けていた。この画家と切り離せない二つの都市がある。現在はグレーターマンチェスターに包含される都市サルフォードと画家が40年以上にわたって住んでいたマンチェスターのペンドルベリーだ。特にサルフォードの美術館の歴代の館長はラウニーの作品を高く評価し、この画家の作品の収蔵に努めてきた。今日、この画家の作品がテート・ブリテンなどをはるかに凌ぐ多数がサルフォード市にあるのはこのためである。この画家の作品の大規模なコレクションは、画家がながらく住んだサルフォードのその名もThe Lowry と名づけられた公的展示施設に所蔵されている。

 
★このブログ記事の画像イメージ、作品背景
は、管理人の在英当時のメモ、画家についての多数の出版物とりわけ下記によっている。上掲のイメージは下記から転載させていただいた。


Judith Sandling and Mike Leber. Lowry's City: A painter and his Locale, Lowry Press, p.16. 

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