酷暑の日々、いつもは考えもしないようなことが頭に浮かんだ。都内で電車に乗ったところ、前の座席に座った人たちのほとんどが、なにかに憑かれたように小さな画面を覗き込んでいる。これ自体はもうお馴染みの光景だ。最近では屋外で歩きながら、画面に目を据えている人たちがさらに増えた。駅の階段を下りながら、横断歩道を渡りながら、自転車に乗りながら、あるいは道路の片隅で立ち止まって自分の世界にのめり込んでいる。他の歩行者と衝突して言い合いになった光景も目にした。今日、あるお寺と墓地の前を通った折、双方に日本語と英語で「「ポケモン」 pokemon の探索のために、当該敷地内に入らないでください」との掲示が出ていた。これで今日のIT社会が目指している方向への違和感は、ひとつの頂点に達した。
多発する極限事象
他方、近年メディアで報道される世界の出来事の多くが、異様、殺伐、荒廃といった表現があてはまるほど、常軌を逸している。ちなみに「常規」とは「普通に行われる道・やり方。常道」(広辞苑第六版)とある。
いくつかの例をあげてみよう。世紀が代わる頃からか、異常気象、飢饉、干ばつ、地震などの地球規模での天災が目立つようになった。続いて増えてきたのが、さまざまなテロリズム、とりわけ自爆テロ、銃犯罪などの異常な人災ともいうべき出来事である。さらに最近では、国内外で多くの衝動的殺傷、時代遅れともみえるクーデターまで起きている。シリアなどで激しい戦争状態が続き、飢餓に苦しむ人々が増加している映像が世界各地に配信されている一方で、莫大な資金を投下してオリンピックに人々が熱狂している。歴史的継承の産物とはいえ、解決できない不安を一時忘れるための催しのようにも見える。
世界に大きな衝撃を与えたBREXIT、アメリカの大統領選の低劣な議論、中国の露骨な覇権主義など、文明の劣化、衰退を思わせる現象は世界中を覆い尽くしている。これらを見るかぎり人類が進化しているとは思えない。
身の回りでは、地球温暖化、大気汚染などの変化が明らかに進んでいることを否応なしに感じさせられる。子供の頃は東京のような大都市でも珍しくなかったトンボや蝉、あるいはツバメの類も、目にしなくなって長い年数が経過した。戦後しばらく、日本の子供たち、そして親たちも夏休みの宿題に野山を走り回っていた。今の子供たちは昆虫採集などイメージできないのではと思う。
生態系の異常な変化
しばらく前、日光の戦場ヶ原を訪れた時に、鹿が増殖し、立木の皮を剥いで食べてしまうとのことで、害獣ネットなる防護網を張る仕事が大変と聞かされた。かつては、自然の美しさを楽しみに歩いた所だ。折しも送られてきた第33回「日本の自然」写真コンテスト(朝日新聞社・全日本写真連盟・森林文化協会主催、ソニーマーケティング株式会社協賛)の優秀作品「夜明けの入浜」は、広島県宮島付近で日の出に映し出された樹木と鹿3頭を題材とした「日本の原風景」といわれるそれ自体はきわめて美しい写真だ。
問題は日本だけではなさそうでもある。ニューハンプシャー州の小さな町に住む友人から、ヒグマが日中も出没し、家庭のゴミを入れる大きな缶をひっくり返している画像が送られてきた。ここでは、10数年前から人手不足もあって郵便配達もできなくなり、地域の人たちの寄付を募って、廃局となった場所に共同の郵便ポストを設置しようとの運動が立ち上がっているとのこと。
タイムマシーンを駆って、後世の人たちが現在の世界を展望したら、何が見えるだろう。テロ鎮圧のため武装した兵士の姿をTV画像で見たとき一瞬愕然とした。全身を金属で覆い、まるで中世の騎士の甲冑のようだ。『帰ってきたヒトラー』がベストセラーになる時代だ。歴史はどこか逆流しているかにみえる。
歴史家の視点
暑さしのぎに、2年ほど前に亡くなった偉大な歴史家ル=ゴフ(1924-2014)の遺作ともいうべき作品を手にした*。「時代区分」という概念にかかわる議論だ。少し長いが発端の部分を引用してみよう。
「過去を組織するために人はさまざまな言葉を用い、「年代」と言ったり、「期 époque」と言ったり、「周期 cycle」と言ったりしてきた。しかし、もっとも適当なのは、「時代 période」という言葉であろう。periodeは、循環する道を意味するギリシャ語のperiodos から来ている。この言葉は、14世紀から18世紀のあいだに、「期間」や「年代」の意味をもつようになる。20世紀には、ここから時代区分 périodisation が派生した」(邦訳、p.12)。
ル=ゴフはさらに続けて、「「時代」と「世紀」はしばしば結びつけられるが、「世紀」という言葉が、厳密には「00」のつく年(の翌年)からはじまる「百年で区切られた時代」という意味であらわれるのは、16世紀のことにすぎない」(13-14頁)という。「歴史家にとって、18世紀は1715年[ルイ14世逝去の年]にはじまる」(14頁)。確かに、あのローマの1600年が特別の意味を持ったのは、ジュビリー年であったことによるのだ。
アナール派第3世代の旗手として知られるル=ゴフは、紀元2世紀もしくは3世紀から産業革命前までの時の流れを、「長い中世」として見る史観で知られてもいる。「中世」という表現は、17世紀の終わりまでは普及しなかったようだとされる。そして、フランス、イタリア、イングランドでは、16世紀とりわけ17世紀には、むしろ「封建制」という言い方がなされていた。イングランドでは、教養人たちがこの時代をしだいに「闇の時代」 dark ages という表現で指すようになった(33頁)と述べている。
ル=ゴフの歴史観からすれば、中世は「闇の時代」とはほど遠い。闇は光があってはじめてその存在が成立する。アナール派の学術的成果は、きわめて多く、到底ここに記せるたぐいではない。ここでは、その一端を記すだけである。
この著作で、ル=ゴフの提示する「適切な歴史区分とはなにか」というテーマは多くのことを考えさせる。そのひとつを挙げてみたい。人間と同様に、世界も老いて行くのだろうか。ル=ゴフは、終わりへの歩みという強迫観念は中世を通して執拗に存在したが、ほとんどつねに「復活」という考えかたによって退けられてきたという。「復活」は、現代の歴史家は「再生」と考えている(170-171頁)。
われわれが生きている現代の世界には、終末観に似た先の見えない不安感がいつの間にか広く漂っている。それと対比しうるように、ゆるやかではあったが、はっきりとした進化が12世紀から15世紀にはあった(171頁)。1492年の新大陸発見のように、新たな世界への外延的拡大と期待が生まれた。知的活動においても多くのフロンティアが開けていた。
時代はどこへ向かうか
しかし、今の世界からはいつの間にか、そうした広がりや明るい展望は消え失せている。「成長の限界」が提起されてからかなりの時間が経過した。一時は大きな期待が寄せられたグローバル化にも、さまざまな障害が立ちはだかっている。ル=ゴフの考えは、必ずしも未来への道を明示するものではないが、そのことを考える多くの手がかりは与えてくれる。結論も特に鋭利な部分は少なく、穏当な域にとどまっている。しかし、体裁は小著でありながら、各部分に小さな宝石のような輝きを感じ取ることができる。ほぼ同時代を生きたひとりの偉大な歴史家の生涯を記念するにふさわしい充実した作品だ。
酷暑の列島、脳細胞もオーバーヒートしそうだ。読む人次第だが、ル=ゴフの遺作は、読後に一時の爽やかさを感じることができるかもしれない。
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Jacques LE GOFF, FAUT-IL VRAIMENT DÉCOUPER L'HISTOIRE EN TRANCHES? Éditions du Seuil, 2014. (ジャック・ル=ゴフ(菅沼潤訳)『時代区分は本当に必要か?』 藤原書店、2016年)。