時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ヒエロニムス・ボス没後500年(3):楽園の裏側?

2016年08月23日 | 絵のある部屋

 

The main character, Simon, explains to David, the small boy he has taken under his wing: “After death there is always another life… We human beings are fortunate in their respect.” The Schooldays of Jesus. By J.M. Coetzee

シモンは自分が面倒を見ている男の子デイヴィッドに説明していった。「死んだ後には必ず次の生がある。・・・我々人間はその点で幸せなのだよ。」J.M.クートシー 『イエスの学校時代』(仮訳)

 

 

 

 いったいこれはなにでしょうか。おわかりの方はきっと人生の表も裏も知り尽くしておられるかも。

プラドに作品が多いのは
 前回のボス・ヒエロニムスの作品に立ち戻ってみる。ボスの作品は今日まで継承された数が少ない上に、祭壇画などの特別な形態をとったものが多く、日本で親しくその作品に接する機会は少ない。最近出会った作品では、「プラド美術館展」(三菱一号館美術館)に出展された「愚者の石をとる」(プラド美術館)だろうか。しかし、この作品は、この画家の代表作とは言いがたい。やはりプラド美術館やリスボン国立美術館などが所蔵する作品が代表作だろう。なにしろ、15-16世紀ネーデルラントの最高権力者フィリップ一世(フィリップ美公と呼ばれた:1478-1506)、ナッサウ伯ヘンドリック三世(1483-1538)、貴族ディエゴ・デ・ゲバラ(c1450ー1520)などの王侯・貴族たちが、金に糸目をつけず集めた作品を、後にスペイン王フェリペ二世(フィリップ美公の孫)がすべて買い取り、プラドやエル・エスコリアル修道院が今日所蔵するところとなった。真贋の点などで一部の作品には議論は続いているが、ほぼ25点の作品中で10点はマドリッドのプラド美術館が所蔵している。今回のボス没後500年記念のプロジェクトも、プラドの協力なしではほとんど成立しえなかった。かつて、プラドを見て少し余分の人生をもらったような気分がした。その後、抜けるような青い空と海の見える道を壮大な修道院のあるエル・エスコリアルまで車を飛ばした時代が夢のようだ。

 当初、ボスの作品に接した時は、同時代の画家たちと比較して、別世界にいるような奇々怪々な生物?が描かれた作品には、なんとなくなじみがたいものを感じた。しかし、この違和感はその後急速に消滅していった。そして見れば見るほど、この画家の天賦の才能、それも100年にひとり現れるか否かと思うような傑出した才能に圧倒されるようになった。生前、ボスの作品はフィリップ一世を初めとして王侯、貴族、宮廷人、熱心な収集家などの間で引く手あまたであり、実際にもかなりの数の作品が制作されたようだ。しかし、ボスの死後の宗教改革による偶像破壊活動などもあって、多くの作品が滅失した。

 ボスの作品、生涯については、筆者がこれまでかなり立ち入ってきたジョルジュド・ラ・トゥールなどのロレーヌやユトレヒトの画家たちとはきわめて異なった魅力を感じるが、あまり深く立ち入る時間はない。しかし、改めて「快楽の園」、「乾草車」、「聖アントニウスの誘惑」のようなきわめて著名で研究も進んだ大作ではない作品も見た結果、これまで気づかなかった新たな魅力も感じた。

『次の世のヴィジョン』再見
 前回記した四枚の作品、『次の世のヴィジョン』もその中に入る。改めてカタログを読んでみる。思いがけなかったことのひとつは、これらの作品がいかなる制作意図で生みだされ、その構成が実際にどうであったかという点についても、今日でも不明な部分が残されていることだった。たとえば、この四枚が画家
の『最後の審判』を中央に配した祭壇画の両翼であるという説や『(1)地上の楽園、(2)祝福された者の天上楽園への上昇、(3)地獄、(4)呪われた者の墜落』の4場面で構成される二連祭壇画という解釈も有力なようだ。筆者はボスの専門家ではないので、かつて見た作品の記憶を頼りに、カタログを読み直し、一時暑さを忘れていた。

 今まで知ることのなかった構図の配置や作品の解釈については、なるほどと思う点も多いが、今回の記念プロジェクトが明らかにした制作に関わる研究・技術的側面もきわめて興味深い。ラ・トゥールの場合もそうであるが、近年作品に関するさまざまな科学的研究が進み、不明であった制作年次、使用された顔料、下地、制作意図などが明らかにされるようになった。

 1521年からCardinal Grimani グリマニ枢機卿の所有となっていたとされる、この四枚の作品はボスの熟年期の最高傑作のひとつと考えられる。この当時は、キャンヴァスの使用がまだ普及していなかったため、オーク材(ブナ科ナラ属、大木となる)などが多数使用されていた。伐採された木材の年輪推定から40-90年を経過した大木が支持材であることが推定される。伐採後、板材の乾燥と安定化のためにおよそ20年が加えられる。支持材にもかなりの年数の熟成が必要なのだ。

ということで、ご推察の通り、上掲の四枚は、前回記した作品『次の世のヴィジョン』の裏側である。順序は次の通り:

左側上、下              右側上、下

祝福された者の楽園への上昇       呪われた者の墜落
エデンの園(地上の楽園)          地獄への川

 

 参考までに『エデンの園』の裏側を拡大してみよう。5世紀もの時の流れの過程で表面は傷だらけになっていることが分かる。


 この今日まで継承されてきた扉型の祭壇画は、これまでの歴史の過程で破壊されており、本来の姿は実はわからない。残存しているのはパネル(87x40cm)だが、上下が厳しく切断されている。そのため、たとえば「地上の楽園」earthly paradise原画の半分くらいしか絵として残っていない。このことはオリジナルのパネルはきわめて細長いものであったと推定できる。言い換えると、地上の楽園(エデンの園)から見上げる天上の楽園(天国の門)は、はるか上方に位置していたとおもわれる。グリマニ枢機卿の所有の時にすでにいまのような状態になっていたのかもしれない。これらの点に画家がいかなる考えを持っていたのか、わからない。この時代、作品を画家から入手した者が、オリジナルの作品を、自分の好みで切断するなどの行為が行われるのは珍しいことではなかった。

  ちなみに、ボスの代表作のひとつ『快楽の園』(プラド美術館蔵)の外面扉の部分を掲載してみよう。所有者が大切にしていたという理由もあるかもしれないが、外面もきわめて美しい。


 

Garden of Earthly Delights, exterior
c.1470 or later, oil on panel, 220 x 195cm

Museo del Prado, Madrid

 16世紀初め、1505-1515年ころに制作されたと推定されているボスの「次の世のヴィジョン」だが、作品の解釈については、ボスの他の作品を検討する過程でほぼ立証されている。宗教改革運動前の教会の考えと一致していると思われる。天国Paradiseと地獄は最後の審判と並んでいた。世俗の生活 earthy lifeの後に来るとされる世界の予告である。地球上の楽園に対比される世界は、いずれ二つに分かれ、神の光が射す真の天国への入口であり、対する地獄の業火が映し出す罪人が抱く後悔と自ら犯した罪への深い精神性を考えさせる暗く、怖ろしい次元が想像されていた。 

 ボスが世を去った1516年の翌年になるが、1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会の扉に95ヶ条の論題を掲げた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。ルターは当初、教皇と袂を分かつつもりではなかったといわれ、たとえばボスが描いた現世と天上の楽園(天国)との関係などについても、ルターもおそらく大きな違和感を抱いてはいなかったのではないかと推定される。

見えない天国
 ボスの作品は、当時教会などの教えを通して、人々が心の中にイメージしていた内容を具象化して描いたと考えられ、ルターなどが見たとしても、違和感はなかったろう。当時の人々が漠然と心の内に抱いていた「地上の楽園」から祝福された者だけが許される「天上の楽園」への上昇、他方呪われた者が「最後の審判」によって罪深き者として断罪され、地国へと墜落させられ、悪魔から永遠の苦痛を強いられる地獄の様相が描かれている。罪を犯した者が落ちてゆき、終わることのない過酷な日々の次元に組み込まれることへの悔恨と恐怖感が、恐ろしい地獄の業火が陰惨に燃える中で、人々の心の中に定着してゆくことを教会側は期待していたのだろう。ボスの作品にある円筒形のドーム(隧道)のような『天国の門』(入口)は、灰白色で描かれ、その先にあると思われる「天国」の情景がいかなるものであるか、まったく分からない。画家の生地ス・ヘルトーヘンボスに残る運河の隧道のようだとの揶揄もあるくらい、希有な天才ボスの目をもってしても、見えない所なのだ。

  

コメント
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