時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遙かなる昔、そして今:ルーマニア移民の明暗

2014年05月25日 | 移民の情景

  

Victoria Arcade, Bucharest




  偶然見たTVに、なつかしい光景が映っていた。『世界ふれあい町歩き』(NHKBS1 2014年5月20日)で、ルーマニアの首都ブカレストを映していた。いたるところ、これはパリではないかと思わせる雰囲気のある街並みを見かける
。ここは小パリ(Micul Paris)ともいわれてきた、東欧で唯一ラテン系の文化を継承する洒落た雰囲気が感じられる都市だ。隣国ウクライナは紛争地帯として世界の注目を集めているが、同じ農業国でも両国の印象はかなり異なる。

 遙か昔、この国を訪れたことがあった。このブログにもその印象を少し記したことがあったが、最初はまだ共産党一党支配によるチャウシェスク政権下(1918-1989)の時だった。その後まもなく、1989年の民主革命でチャウシェスク大統領夫妻が逮捕、処刑され、大きく体制が変わった。

革命前のイメージ
 最初に訪れた時は革命前であり、ブカレスト
にはいたるところ厳しい、陰鬱な雰囲気が漂っていた。電力不足で町は暗く、食料不足もあって人々の表情もさえなかった。言論統制が厳しく、印刷はすべて国家の印刷局で行われていた。ブカレストの町中を歩いても、首都としての活発さ、生気がほとんど感じられなかった。共産圏の専制国家とは、これほどまでに人々を変えてしまうのかと、暗澹たる気持ちで旅をした。

 それでもいくつか思い浮かぶことがある。TVにも映されていたが、街角に花屋が多かった。北駅から旧市街へ向かう道路の交差点にあった花屋が映っていた。TVのカメラマンを通してだが、なんと24時間営業しているとのこと。よほど花の好きな国民なのだろう。TVではカメラマンへの挨拶が「ボンジョルノ、アリデヴェルチ」とイタリア語だった。最初訪れた時は、ルーマニア語しか聞かれなかったが、こちらがルーマニア語を知らないことがわかると、フランス語をに切り替え
て試してくれた。暗い印象が残ったブカレストだったが、住宅のベランダなどを彩る花々が印象に残った。

 地理的な近さもあってか、今ではイタリアの影響も大きいようだ。この国はかつてロシア、オスマン・トルコに囲まれていた時期があった。そのためか、東西文化の複雑な影響を受けている。町中にはjフランス風のバケットなどをウインドウに並べたパン屋があるかと思えば、水煙草を吸わせる店なども残っている。チャウシェスク時代に、かなり歴史的な建造物が破壊されてしまったが、今に残る19世紀に作られたといわれるヴィクトリア・アーケードなどは、当時の美しさを伝えている。

変わりゆくブカレスト
 ブカレストの街並みは今大きく変わっているようだった。古い街並みを残しながらも、新しいビルがあちこちに建てられ、多数の新しい車が走っていた。かつて共産主義体制下、あまり人の姿が見られなかった有名なチェルニカ修道院は400年以上の歴史を誇るが、今は美しく補修され、多数の人で賑わっていた。かつて訪れた時は、人も少なかった。多少、観光地化したようだ。歴史的な街並みを自らそこに住みながら、補修事業を行っている若い人たちもいた。

 2007年にルーマニアとブルガリアは、希望していたEUへの加入が認められた。しかし、EU諸国の中で両国共に、経済的に遅れが目立つ後発国だ。そのため、ドイツ、フランス、イギリスなどEUの基軸国へ出稼ぎに出る人が多い。かつてポーランドがEUに加入した時にも、EU側はどれだけの移民労働者がやってくるか、推定が難しく大変憂慮していた。

移民労働者規制を強化するEU
 ほぼ無条件でポーランド労働者を受け入れたイギリスなどは、予想を上回る流入で対応に苦慮した。そのため、今回のルーマニア、ブルガリアの加入については、最初から警戒的であった。イギリスの移民労働者統計は複雑で、実態を知るのが難しく、しばしば物議を醸す。2013年3月時点でイギリスで働くルーマニア、ブルガリア人労働者は144,000人と公表された。今年2014年3月では140,000人と少し減少している。右派政党などが掲げたような大量流入はなく、イギリス政府もひとまず胸をなでおろしたようだ。このところ急速に移民労働者の受け入れ制限に動いているイギリスは、ルーマニア、ブルガリアからの労働者が失業給付を申請するには、最低3ヶ月は待たねばならないという新たな規制措置を導入した。*1

 フランスもルーマニア、ブルガリアからの労働者受け入れには厳しい対応を見せてきた。とりわけ、ロマ(ジプシー)人のフランスでの行動をめぐって激しい議論が行われてきた。ヨーロッパ諸国とジプシーの関係は長い歴史があり、さまざまな問題を経験してきた。ロマ人の多くはルーマニアから旅をしてくると言われている。現在のフランスにはおよそ2万人のロマ人が100近い都市の外縁部に掘っ立て小屋などを作り、住んでいる。しかし、地域住民との間では度々紛争を引き起こしてきた。極右政党の国民戦線などは、以前からロマ人をシェンゲン協定を結んでいる地域(シェンゲン圏★)に受け入れることに強く反対してきた。フランスにおける反移民感情は年々高まっており、その先頭には反EUを掲げる極右政党、国民戦線が立っていて、今や第一党に迫る勢いだ。

 ルーマニアとブルガリアは2014年のEUへの加盟によって、シェンゲン圏に入ることが予想されている。 しかし、加盟国の多くはルーマニア、ブルガリアがEU域外からの移民労働者の突破口になることを心配している。というのは、この両国は国境管理、旅券、査証審査、警察などとの関係が緩く、十分でないと懸念しているためである。そのため、域外から両国へ入り込んだ移民労働者が、EUの基軸国などへ自由に移動してくることを恐れている。

外国へ行った人・残った人 
 再び、今のブカレストを映したTVに戻る。ブカレストには活気が戻っていたが、それでもなんとなく寂しげな雰囲気が町や人々の表情に残っている。念願のEU加盟を果たしたが、多くの国民が外国へ出稼ぎに行ってしまう。しかし、出稼ぎ先で彼らの多くは良い仕事にありつけない。受け入れる側はますます規制を強化している。他方、外国へ出稼ぎに行けない人たちには、折角の機会を放棄しているような挫折感もあるようだ。活力のある人たちは出国してしまい、さまざまな事情で出国出来ない人たちがブカレストの仕事を支えているような雰囲気だった。

 こんなことを考えている時に、これも興味深い記事に出会った。ドイツのある研究機関によると、移民労働者は自分の行動が正しかったか否かを、離れてきた自国の経済状況との比較で判断する傾向があるという。ドイツで働く移民労働者についての調査結果である。その要旨は、彼らは外国で働きながら、母国の経済状況が良くなると憂鬱になるが、自国の失業率が悪化すると、自分の決断が正しかったと思うのか、かなり元気になるという。こうした感情はこのブログでとりあげたこともある、ドイツの Schadenfreude (他人の不幸を喜ぶ心情)に近いもので、彼らはおそらくそれまでにこうしたドイツ語を知るにいたるほど、ドイツに住み着いているのだろうというオチがついていた*2。

 

 ★ 1985年にシェンゲンで署名された協定でヨーロッパ26カ国が加入。その地域をシェンゲン圏という。渡航者はシェンゲン圏に入域あるいは圏外へ出る場合には国境検査を受けるが、圏内で加入国の国境を越える際には検査は必要ない。シェンゲン圏にはアイスランド、ノルウエー、スイスなどEUに加盟していない国も含まれている。ただし、アイスランド、イギリスは例外でシェンゲン協定を施行していない。シェンゲン圏内の人口は4億人を越える。

References

*1 ”Bulgarian and Romanian immigration-what are the figures?” BBCNEWS 14 May 2014


*2 "The great escape" The Economist 17th May 2014



 

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