Teju Cole, Open City, New York: Random House, 2011, cover
画面をクリックすると拡大
去る10月14日のETVで短いドキュメンタリーを見た。東京、新宿区大久保にある図書館の館長が、同地域で急速に増加した外国人家族が少しでも出身母国との絆を維持できるよう地道な活動をする傍ら、日本へ永住を希望する人のための支援・努力をしている感動の物語である。とりわけ印象的であったのは、小さな図書館の館長が、外国人の子供たちのために母国語の本を少しでも確保し、読書会を開いたりして、ともすれば孤立しがちな彼らのために図書館を活用、交流の場とする努力である。その対象となっていたのは、図書館に本がほとんど置いてなかったネパール、スリランカなど、日本在留者が少なくこれまで注目されなかった国が多い。
日本に生まれ環境にも慣れて来て、ネパール語の本など読みたくもないと駄々をこねる子供をなだめて、親と協力していずれ帰国できた時のため、ネパール語を教えようとする努力は、心が痛む。館長はそのためにつてを頼って、子供の絵本を取り寄せている。日本語だけでもできれば良いではないかというのはたやすい。しかし、彼らが日本に永住できる可能性は限られている。祖国のことも知らずに育つ子供の心はいずれ引き裂かれる。
祖国と日本の間で
いずれ祖国への帰国を期待して生きている親たちは当惑する。祖国のことを全く知らない移民が生まれ育っている。東京は一体どうなっていくのだろうか。
筆者もかつて1990年代初めに、この新大久保地域に居住する外国人について調査を行なったことがあった。当時は圧倒的に韓国人の街になりつつあった。その後実態は大きく変化した。今は韓国、中国、ベトナム、スリランカ、フィリピン、ネパールなどのアジアや中東の諸国など、住む人たちの出身国は実に多様だ。世界有数の巨大都市東京がこうなるのは当然の結果だ。しかし、東京は「オープン・シティ」と言えるだろうか。
ひところ喧伝された多文化主義の構想はほとんど議論されなくなった。ヨーロッパやアメリカで移民・難民の排斥の動きが強まっている。東京オリンピックの開催国として日毎に深刻な労働力不足を経験しつつある日本にとって、十分検討すべき課題だ。これまでの日本の政策はかなりご都合主義であった。
全国的に外国人旅行者の数が顕著に増えたことを実感する。地方都市などでも、大きなスーツケースを引っ張って歩き回っている外国人をよく見かける。オリンピック後の状況はどうなることか。自国へ戻らない外国人も大きな数になるだろう。観光客増加ということだけで、喜んでばかりはいられない。日本にいかなる状況が生まれるか、今回の選挙でほとんど議論にもならなかった。
都市が「開かれている」ことの意味
番組を見ながら、少し前に一冊の小説*を読んだことを思い出した。最近、日本語訳も刊行されたようだ。原著はPen/ヘミングウエイ賞、ローゼンタール賞などいくつかの重要な賞を受賞したり、受賞候補作となった。
小説の題名は"Open City"、小説の主人公ジュリウスはナイジェリア系アメリカ人でナイジェリア人の父とドイツ人の祖母と母の血を引いており、一時は祖母を探して、ブリュッセルにも住んだ。ニューヨーク、ブリュッセル、ラゴスは主人公の頭に常に去来する大都市だ。
話は、主人公がナイジェリアを後に、1992年以来精神科医としてニューヨークで暮らすほぼ一年の経験を描いたとも言える構成になっている。セントラル・パークの北西、モーニングサイト・ハイツというところに住み、そこを舞台に多数の複雑な背景を持つ人々が行き交うマンハッタンの街中を、一人彷徨する。読者はこの世界的な大都市の構成にかなり通暁していないと、方向を見失うだろう。しかし、この年に住んだことのある人、長い滞在などを通して、町のありように興味のある人にとっては、手元において何度か読み返してみたい魅力を内包する。
ストーリーがどこへ進むか、当てどもない描写の中に、ニューヨークという大都市の日常を、手探りのような手法で描き出している。主人公は生活に苦労しているわけでではない。地球上で取り立てて住みたい場所があるわけでもないようだ。
主人公はマンハッタンという街中を、特に目的があるとも思えない形で歩き回り、出会う人々のルーツや体験を様々に描き出してみせる。散文体で何か方向性を予想させるわけでもない。散策の過程で出会った人たちを中心に、ニューヨークに住む人々の人生の複雑さ、そこにたどり着くまでの入り組んだ過程を、微妙な陰影を持って描き出す。
ニューヨークで出会った人ばかりではなく、これまでの人生であった様々な人々、ナイジェリアの大都市ラゴスで会った女性、兵学校での生活、ブリュッセルであった女性などの思い出が、各所に顔を出す。その手法は「W.G. ゼーバルトの再来」とも評されている。しかし、ゼーバルトのような鬱屈したような印象もない。
「オープン・シティ」の未来
筆者が本書を読んでみようと思った動機は、「オープン・シティ」とは、外国人作家の目からどのように映る都市なのかという点にあった。その実態を知りたい。最近のトランプ大統領の「壁」論争に先立って、アメリカには外国からの移住者が集中・集積し、大きな活動源になっている都市が生まれている。ロサンジェルス、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークなど数多い。”サンクチュアリィ・シティ”とも言われ、移民の権益保護の意識が他より強い。
主人公ジュリアスはアメリカで教育を受けた精神科医である。彼が街を歩き回り出会う人々の多くは、様々な移民であり、実に多彩だ。そして、この都市は彼らの活動によって存在している。彼ら移民なしには成立しない。この都市には目に見える壁はなく、その意味で「オープン」(開かれている)だが。他方、不安や問題を抱えながら、多くの移民・難民が住んでいる。開放されているが故に、多くの危険や災害も取り込んでいる。2001年の9.11はその例である。ジュリアスは当然ここも訪れている。「オープン・シティ」は「クローズド・シティ」よりは、概して評価される。しかし、そのためには苦しみも伴う。
いずれにせよ、本著はニューヨーク市という「オープン・シティ」に住んだ主人公が、多彩な、しかしどこへ向かうのかも定かでない姿を一人の外国人作家の目で確認しつつ、最終的に一つの交響曲のごとく描き出している。ニューヨークを訪れたことのある人、そしてこの市を愛する人にとっては、この巨大都市の知られざる次元を斬新な視角で体験するこができるだろう。読み物としても旧知の場所が浮かんできたりして、なかなか楽しい。ゼーバルトのように、多くのことが記憶の霧の中から浮かんでくるが、読後感はかなり異なる。
最後の部分で、主人公ジュリアスが前日、カーネギーホールで、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルによるマーラーの第九交響曲を聴いた印象が語られる。「第九交響曲」は主人公を含め、それを聴く人々に、ある終焉感を伴う大きな感動を与える(マーラーの生涯については、筆者も多少考えてきたことはあるが、長くなるので、ここには記さない)。本書は小説ではありながら、現代の移民問題について、様々な含意、暗喩を含んでいて、それを汲み取ることで多くの示唆を得ることができる。
巧みな描写で描き出されたんニューヨークのストーリーの最後は、自由の女神像へのクルーズを通して「オープン・シティ」の行方を暗示するかのごとく、なんとも表現しがたい影を落とす。これまで女神像は移民の未来を象徴してきた。しかし、女神像の冠部分には2001年末から上ることが禁止された。今はただ下から見上げるしかない。ミソサザイなどの鳥が女神像や灯台の下で沢山死んでいることがある。鳥類学者たちは天候と風向きが影響しているという。しかし、本書の主人公ジュリアスは、「もっと厄介な何かが作用している気がしてならない」と感じている。
*Teju Cole, Open City, New York: Random House, 2011
テジュ・コール(小磯洋光訳)「オープン・シティ」新潮クレスト・ブックス、2017年。