ラ・トゥールの庇護者ルイXIII世
ラ・トゥールのパトロンたち(2)
フランス王室にもいた多数のパトロン
ラ・トゥールはその生涯のある時期に「ランタンを掲げる聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」をフランス王ルイXIII世に、「悔悛する聖ペテロ」を宰相リシリューに献呈したと推定されている。しかし、その正確な背景については未だ十分解明されていない。
ラ・トゥールは生涯に1回以上パリへ行っていると思われるが、記録の上では1回の旅についてのみ概略が判明しているだけである。この画家がリュネヴィルからパリまで出かけた理由は必ずしも十分解明されていないが、研究が進むにつれてラ・トゥールの人気が17世紀前半には、ロレーヌの地方画家という域を超えて、パリにまで広がっていたことを推測させる状況が浮かび上がってきた。戦乱の世の中にもかかわらず、この希有な才能を持った画家の作品は多くの愛好者から熱望され、パリを中心としてフランスの広い範囲で収集の対象になっていた。
この事情を少し詳しく記すと次のようなことである。ラ・トゥールの研究家テュイリエによると、研究者ミシェル・アントワーヌMichel Antoineが、ラ・トゥールが1639年に6週間、パリにいたことを示す文書を発見している。それによると、滞在の目的はフランス王のための仕事となっているが、具体的にいかなることであったかについては文書はなにも語っていない。
パリへの旅は
また、別の王室文書 は、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに、王の仕事のために、画家がナンシーからパリへ旅をした費用、パリの滞在費、そして帰途の費用として、1000リーヴルが支払
われた」と記している (Thuillier 109.)。この文書に署名している責任者の一人、クロード・ド・ブリオン Claude de Bullionはこの時代の富裕な絵画収集家として知られており、ラ・トゥールのパトロンでもあった。彼がラ・トゥールの作品を所蔵していたことは別の文書で推測されている。すなわちド・ブリオンが、「ラ・トゥール作と思われる絵画を3点持っていた」との記録が残っている。さらに、偶然ではあろうが、ドブリオンの弟は1634年にリュネヴィルの住人からフランス王への忠誠誓約書をとりつけた王権の代理人だった(Choné 83)。 ラ・トゥールもこの誓約書を提出したことは、すでに記した通りである。
美術史家の中にはラ・トゥールは重要な庇護者やパトロンから制作費をもらうことを暗黙の了解の上で作品を贈ったこともあったのではないかと推定している人もいる。たとえば、ロレーヌ公チャールスIV世、フランス国王ルイXIII世、リシリュー枢機卿などは、こうした形でのパトロンであったと思われる。王侯貴族に絵画などの作品を贈呈することは、かなり一般的に行われていたのだろう。
先に記したフランス王室コレクションの「ランタンを掲げた聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」については、ドン・カルメ Don Calmetが残したこの画家につての有名な逸話(1751)があることは以前のブログに記した。「彼は聖セバスティアヌスの夜の絵画を、ルイXIIIに贈った。それは大変素晴らしい出来映えであったので王はその他の絵をすべて自分の部屋から取り外させ、この絵だけをかけた」(Thuillier 109).
このように、ラ・トゥールの作品のあるものは、1630年代にフランス王室関係者の収集品となった。しかし、どういう理由と機会のがあって、それが実現したかについては正確には分かっていない。推定されるひとつの時点は、ルイXIII世とリシリューが1633年、ナンシーに滞在した間である。その時にラ・トゥールは自ら作品を贈る機会があったと思われる。
テュイリエは、ラ・トゥールのただひとつ確認できるパリへの旅は、「聖セバスティアヌス」の王室コレクションとの関係だとする。画家がこの滞在期間にルーブル宮に与えられていた部屋で制作したか、リュネヴィルから作品を自ら運んだかのいずれかの可能性が考えられる。前者の可能性は高い。そして1000リーブルがラ・トゥールに支払われているのは、画家への王の感謝のしるしと考えられる(Thuillier 109)。
このパリへの訪問の後、ラ・トゥールは「王の画家」peintre ordinaire du roi の称号を授与されている。美術史家の間では、このタイトル自体はさほど重みはないとされている。テュイリエは、この称号は形式的なもので、なんらかの特権が付帯しているわけではないとしている。さらにこの称号の保持者は、パリの画家にとっては、ギルドの制約を避ける上で役立ったと述べている研究者もいる(Choné 84)。
ラ・トゥールはもしかするとロレーヌよりもパリで仕事をしたかったのかもしれない。こうした称号が王室からの報奨金などを伴わなかったとしても、作品への注文増加につながった可能性は高い。ラ・トゥールはロレーヌでこの称号を与えられた唯一の画家であった(Choné 83)。
上納金よりも絵画を望んだラ・フェルテ
戦乱・悪疫流行など、決して安定した世の中ではなかったが、ラ・トゥールは1640年代には画家として成功の頂点に立っていた。折しも、ロレーヌの新しい知事として、リシリューの死後、その後を継いだマザランによって任命されたラ・フェルテ公爵 the marquis de La Ferte が、1643年にナンシーへ赴任した。彼は自らの職責とも関連して、熱心な収集家となった。
彼はナンシーとリュネヴィルに毎年、上納金の代わりにラ・トゥールの絵画を要請していた。これに応じて、ナンシーは(おそらくジャック・カロの手になるものと思われる*)デェルエ Claude Deruet の銅版画、リュネヴィルはラ・トゥールの作品を贈ったようだ。1645年から画家が世を去った1652年の間に、ラ・フェルテには6枚のラ・トゥールの作品が贈られた。この点については、幸いにも主題と価格が最も詳細に判明している。ひとつの主題だけが不明である。残りの5枚の中で4枚はラ・フェルテの1653年の収集品と合致している。
ラ・トゥールの作品を近くに置きたいと思った人々は、ここに記した名士ばかりではなかったはずである。そのため、模作も多かったことは想像に難くない。当然、ラ・トゥール工房は忙しくなり、作品も多数生み出されたことが推測される。戦乱などがなかったならば、われわれはもっと多くの作品に接していることだろう。
*Reinbold(1991)に収録の作品かと思われる。
Reference
Paulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996
Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition
Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991