Jacques Callot. La marche de bohemiens.
先日のブログでブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』について言及したが、改めてこの作品についても少し記しておきたいと思った。シラーの『30年戦争史』『ヴァレンシュタイン』などの壮大な史劇は、今読んでみてもそれなりに印象的ではある。しかし、なんとなく空白な部分があることを感じる。自分たちにはまったく関係のない宗教・政治戦争の底辺で、さまざまな苦難に日々直面していた民衆や農民の姿に視点を置いた作品も読んでみたいと思った。グリンメルハウゼンやヘルマン・ロンスを取り上げたのもそのためである。
ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』*は、30年戦争の年代記というジャンルで作られている。「訳注」によると、ブレヒトは「年代記」をエリザベス朝演劇の「史劇」(history)に近いジャンルと説明している。
すでに記したように、ブレヒトはグリンメルスハウゼンの『女ぺてん師クラーシェ』からアイディアを得て、この作品を創作した。とりわけ主人公は、「肝っ玉」(クーラージュ)という名前まで借用している。グリンメルスハウゼンのクラーシェも軍隊の酒保(軍隊の営内にあった日用品・飲食物の売店)付きの女商人だったこともあるが、大体は娼婦として過ごした。
ブレヒトのこの作品にとりたてて大きな方向性を持った筋書きがあるわけではない。しかし、主人公を中心に展開する社会の最底辺における庶民の生き様を通してブレヒトが描いたものは、30年戦争という理不尽とさまざまな暴虐に対する反戦劇である。
この『肝っ玉おっ母とその子供たち』は、岩淵達治氏の素晴らしい翻訳に加えて、詳細な「訳注」、「解説」、さらに「ブレヒト略年譜」までつけられていて、ブレヒトとこの作品について、読者はこれ以上ないほどのサポートを得ながら読み続けることができる。もちろん、ブレヒトの原著を読みこなすことのできる読者ならば、解説なしに、この素晴らしい作品に接することはできよう。しかし、時代背景も異なり、作品の隅々に秘められた作者の仕掛けや含意を原文から類推、理解できる読者は寂寥たるものである。おそらくドイツ語圏の読者でもそうではないか。
翻訳文化が華やかな日本において、翻訳書はプラス・マイナス両面を持っている。最初、翻訳書に接し、後に原著を開いてみて、そこに存在する少なからぬ間隙や違和感に気づかされることもある。さらに、翻訳書に付けられた「解説」や「あとがき」の浅薄さに、あぜんとさせられることも少なくない。
しかし、本書で岩淵達治氏の名訳に付された「訳注」「解説」「ブレヒト年譜」に接した読者は、その誠実で正確きわまりない内容に、絶大な感謝の念を抱くのではないか。恐らくドイツ語のよほどの達人であり、しかもブレヒトについての深い学識を持たれる僅少の人々を例外として、読者は本書から単なる翻訳書というイメージをはるかに超える多くの恩恵を享受することができるだろう。
グリンメルスハウゼンの作品が、17世紀の30年戦争という時代を扱いながら、現代への深いつながりを感じさせるのは、ブレヒトのこの作品を貫いている「平和は、戦争という<引き立て役>がコントラストとして存在しないと存在し得ないのだろうか」(本書解説p217)という根源的な問いかけである。
* Bertolt Brecht. Mutter Courage und Ihre Kinder, 1949(岩淵達治訳『肝っ玉おっ母とその子供たち』岩波書店2004年)
先日のブログでブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』について言及したが、改めてこの作品についても少し記しておきたいと思った。シラーの『30年戦争史』『ヴァレンシュタイン』などの壮大な史劇は、今読んでみてもそれなりに印象的ではある。しかし、なんとなく空白な部分があることを感じる。自分たちにはまったく関係のない宗教・政治戦争の底辺で、さまざまな苦難に日々直面していた民衆や農民の姿に視点を置いた作品も読んでみたいと思った。グリンメルハウゼンやヘルマン・ロンスを取り上げたのもそのためである。
ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子供たち』*は、30年戦争の年代記というジャンルで作られている。「訳注」によると、ブレヒトは「年代記」をエリザベス朝演劇の「史劇」(history)に近いジャンルと説明している。
すでに記したように、ブレヒトはグリンメルスハウゼンの『女ぺてん師クラーシェ』からアイディアを得て、この作品を創作した。とりわけ主人公は、「肝っ玉」(クーラージュ)という名前まで借用している。グリンメルスハウゼンのクラーシェも軍隊の酒保(軍隊の営内にあった日用品・飲食物の売店)付きの女商人だったこともあるが、大体は娼婦として過ごした。
ブレヒトのこの作品にとりたてて大きな方向性を持った筋書きがあるわけではない。しかし、主人公を中心に展開する社会の最底辺における庶民の生き様を通してブレヒトが描いたものは、30年戦争という理不尽とさまざまな暴虐に対する反戦劇である。
この『肝っ玉おっ母とその子供たち』は、岩淵達治氏の素晴らしい翻訳に加えて、詳細な「訳注」、「解説」、さらに「ブレヒト略年譜」までつけられていて、ブレヒトとこの作品について、読者はこれ以上ないほどのサポートを得ながら読み続けることができる。もちろん、ブレヒトの原著を読みこなすことのできる読者ならば、解説なしに、この素晴らしい作品に接することはできよう。しかし、時代背景も異なり、作品の隅々に秘められた作者の仕掛けや含意を原文から類推、理解できる読者は寂寥たるものである。おそらくドイツ語圏の読者でもそうではないか。
翻訳文化が華やかな日本において、翻訳書はプラス・マイナス両面を持っている。最初、翻訳書に接し、後に原著を開いてみて、そこに存在する少なからぬ間隙や違和感に気づかされることもある。さらに、翻訳書に付けられた「解説」や「あとがき」の浅薄さに、あぜんとさせられることも少なくない。
しかし、本書で岩淵達治氏の名訳に付された「訳注」「解説」「ブレヒト年譜」に接した読者は、その誠実で正確きわまりない内容に、絶大な感謝の念を抱くのではないか。恐らくドイツ語のよほどの達人であり、しかもブレヒトについての深い学識を持たれる僅少の人々を例外として、読者は本書から単なる翻訳書というイメージをはるかに超える多くの恩恵を享受することができるだろう。
グリンメルスハウゼンの作品が、17世紀の30年戦争という時代を扱いながら、現代への深いつながりを感じさせるのは、ブレヒトのこの作品を貫いている「平和は、戦争という<引き立て役>がコントラストとして存在しないと存在し得ないのだろうか」(本書解説p217)という根源的な問いかけである。
* Bertolt Brecht. Mutter Courage und Ihre Kinder, 1949(岩淵達治訳『肝っ玉おっ母とその子供たち』岩波書店2004年)