ボヘミアンの旅(J.カロ)
ラ・トゥールの「占い師」fortune-teller を最初見た時の衝撃は忘れることができない。とりわけ、画面中央の卵型の顔をした女性は、なんとも形容しがたい不思議な顔である。そして、右側のいかにも奇怪な顔をした占い師の老婆も実に異様である。他方、ここでも「かも」になっているのは、世の中の辛苦などなにもしらない貴族の坊ちゃんだ。
17世紀のロレーヌ、とりわけ30年戦争前のロレーヌは平和で豊かであり、ナンシーやヴィックは交通の要衝でもあり、ヨーロッパの東西からさまざまな人々が行き来していた。 宮殿のあったナンシーやリュネヴィルには、実際にこういう顔をした人たちが歩き回っていたのだ。若者を取り巻く占い師や美女たちは、ジプシーである。ロレーヌでは多くのジプシーが漂泊の旅をしていた。 この作品を見た当時の人々にとって、ジプシーは身近な存在であり、画家が何を描いたのか直ちに分かり、画面に魅了されたに違いない。描かれた人物の顔かたちはいうまでもなく、衣装のデザインの細部にまで込められた画家の力量に圧倒される。そして、作品を見る者の「読みとる力」まで試されているのだ。
グリンメルスハウゼンの「クラーシェ」は、この作品とも深い関係がある。ここに描かれた女性はジプシーであり、占い師、音楽師、道化師などを生業としてヨーロッパ全土を放浪していた。ジンプリチシムスやクラーシェもそうであったように、ジプシーたちはしばしば各国の傭兵ではなく正規兵として軍隊稼業をしていた。そして、驚くことにしばしば子供を含む家族ぐるみで、軍隊とともにヨーロッパを移動していた。カロの版画には食事を準備する母親たちの周りに、幼い子供たちが座って段取りを見ている作品もある。
各国の皇帝や王侯たちは自国の民衆が軍隊に入ることを嫌ったり、逃亡してしまうので、傭兵に頼ることが多かった。軍隊生活に慣れていたジプシーは、その点では王侯・貴族たちにとって必要な存在でもあった。
占いについても、ジプシーの仕事と考えられていた。占いという神秘的な、未来を予測する能力を持つといわれる彼女たちに、人々は畏敬の念と疑いの念の双方を持っていた。16世紀以降、カトリック教会もプロテスタント教会も占いを禁じていた。司祭たちは、占いは、人を惑わすペテンの術と言っていた。しかし、教会の教えることに反したことをしていたにもかかわらず、ジプシーたちが表立って罰せられたりすることはなかった。これについては、ジプシーに対する信頼と恐怖がないまぜになっていたからと推定されている。
しかし、そればかりではない。キリスト教も決して救いの柱となっていなかった。キリスト教自体が大きく揺らぎ、分裂し、厳しく内部反目していた。長く続いた教会や修道院の堕落、腐敗は、宗教改革の大きな嵐を呼んでいた。キリスト教もカトリック、プロテスタント共に、不安な世界に生きる民衆に対して、説得力をもって神の国を語ることはできなかった。
戦争、疫病、飢饉などが次々と襲ってくる世界では、一時の気休めにすぎなくとも、ジプシーたちの占いにつかの間の救いや安心の種を求めることは自然な成り行きであった。占いの結果は、予想されるとおりさまざまな波紋を生んだ。ジプシーは世の中に迷妄、不安をもたらすとして彼らを嫌悪、排斥する動きもあった。しかし、その結果は宗教戦争のような次元まで拡大するものではなかった。
ジプシーの占い師のテーマは、当時かなり人気のあるものだった。カラバッジョ、ヴーエなど、当時の著名な画家たちはいずれもこのテーマの作品を手がけていた。それらは、大別すると二つのジャンルに分けられる。ひとつは、ジプシーの若い美しい占い師と、占ってもらう若者との間の愛のやりとり、色恋の情景である。もうひとつは、長い漂泊の旅で日焼けした占い師の女が占いをしている間に、仲間の美しい女たちが顧客の若者や女性から金品をかすめとるという光景である。
当時、ジプシーの女たちは組みになって村などを訪れ、野菜など、物をねだったり、ちょっとしたものを売り、その間に他の仲間がこそ泥を働くなどの行為をすることがよく知られていた。 カラヴァッジョの描いた「占い師」は前者のジャンルだが、リアルではあるが平凡でつまらないとも評価された。
他方、ラ・トゥールの「占い師」は実によく考えられていて見る人にさまざまなことを考えさせる。パトロンはきっと飽きずに眺めるほどの充足感を覚えただろう。たとえば、画面中央に立つ「卵形」の顔をした女は、どう見ても馬車やテント生活に明け暮れているジプシーの顔立ちとは異なっている。左側の悪事を働いている女たちもそれぞれ美しい。他方、占い師の老婆はなんとも形容しがたい異様な顔で描かれている。しかし、老婆の衣装などは当時のジプシーの身なりなのだ。
ラ・トゥールは明らかに他の画家の作品とは一頭地を抜く、エンターテイメント性の高い作品を創り出している。この作品には当時の上流階級に流布していた文学や伝承の話が背後に込められている。その点は長くなるのでいずれ記すことにしたい。
このラ・トゥールの「昼の世界」の作品は、画家が比較的若い頃のものと推定されている。リュネヴィルに移り、妻の階層である貴族社会に入り込むために、画家はその技量のありたけを見せようとしたのだろうか。「かも」になっている自分の周りにいるような若者を彼らはどう見たのだろうか。想像するだに面白い。人物の配置、衣装のひとつひとつを見ても、さまざまなことを考えさせる傑作である。
ラ・トゥールの「占い師」fortune-teller を最初見た時の衝撃は忘れることができない。とりわけ、画面中央の卵型の顔をした女性は、なんとも形容しがたい不思議な顔である。そして、右側のいかにも奇怪な顔をした占い師の老婆も実に異様である。他方、ここでも「かも」になっているのは、世の中の辛苦などなにもしらない貴族の坊ちゃんだ。
17世紀のロレーヌ、とりわけ30年戦争前のロレーヌは平和で豊かであり、ナンシーやヴィックは交通の要衝でもあり、ヨーロッパの東西からさまざまな人々が行き来していた。 宮殿のあったナンシーやリュネヴィルには、実際にこういう顔をした人たちが歩き回っていたのだ。若者を取り巻く占い師や美女たちは、ジプシーである。ロレーヌでは多くのジプシーが漂泊の旅をしていた。 この作品を見た当時の人々にとって、ジプシーは身近な存在であり、画家が何を描いたのか直ちに分かり、画面に魅了されたに違いない。描かれた人物の顔かたちはいうまでもなく、衣装のデザインの細部にまで込められた画家の力量に圧倒される。そして、作品を見る者の「読みとる力」まで試されているのだ。
グリンメルスハウゼンの「クラーシェ」は、この作品とも深い関係がある。ここに描かれた女性はジプシーであり、占い師、音楽師、道化師などを生業としてヨーロッパ全土を放浪していた。ジンプリチシムスやクラーシェもそうであったように、ジプシーたちはしばしば各国の傭兵ではなく正規兵として軍隊稼業をしていた。そして、驚くことにしばしば子供を含む家族ぐるみで、軍隊とともにヨーロッパを移動していた。カロの版画には食事を準備する母親たちの周りに、幼い子供たちが座って段取りを見ている作品もある。
各国の皇帝や王侯たちは自国の民衆が軍隊に入ることを嫌ったり、逃亡してしまうので、傭兵に頼ることが多かった。軍隊生活に慣れていたジプシーは、その点では王侯・貴族たちにとって必要な存在でもあった。
占いについても、ジプシーの仕事と考えられていた。占いという神秘的な、未来を予測する能力を持つといわれる彼女たちに、人々は畏敬の念と疑いの念の双方を持っていた。16世紀以降、カトリック教会もプロテスタント教会も占いを禁じていた。司祭たちは、占いは、人を惑わすペテンの術と言っていた。しかし、教会の教えることに反したことをしていたにもかかわらず、ジプシーたちが表立って罰せられたりすることはなかった。これについては、ジプシーに対する信頼と恐怖がないまぜになっていたからと推定されている。
しかし、そればかりではない。キリスト教も決して救いの柱となっていなかった。キリスト教自体が大きく揺らぎ、分裂し、厳しく内部反目していた。長く続いた教会や修道院の堕落、腐敗は、宗教改革の大きな嵐を呼んでいた。キリスト教もカトリック、プロテスタント共に、不安な世界に生きる民衆に対して、説得力をもって神の国を語ることはできなかった。
戦争、疫病、飢饉などが次々と襲ってくる世界では、一時の気休めにすぎなくとも、ジプシーたちの占いにつかの間の救いや安心の種を求めることは自然な成り行きであった。占いの結果は、予想されるとおりさまざまな波紋を生んだ。ジプシーは世の中に迷妄、不安をもたらすとして彼らを嫌悪、排斥する動きもあった。しかし、その結果は宗教戦争のような次元まで拡大するものではなかった。
ジプシーの占い師のテーマは、当時かなり人気のあるものだった。カラバッジョ、ヴーエなど、当時の著名な画家たちはいずれもこのテーマの作品を手がけていた。それらは、大別すると二つのジャンルに分けられる。ひとつは、ジプシーの若い美しい占い師と、占ってもらう若者との間の愛のやりとり、色恋の情景である。もうひとつは、長い漂泊の旅で日焼けした占い師の女が占いをしている間に、仲間の美しい女たちが顧客の若者や女性から金品をかすめとるという光景である。
当時、ジプシーの女たちは組みになって村などを訪れ、野菜など、物をねだったり、ちょっとしたものを売り、その間に他の仲間がこそ泥を働くなどの行為をすることがよく知られていた。 カラヴァッジョの描いた「占い師」は前者のジャンルだが、リアルではあるが平凡でつまらないとも評価された。
他方、ラ・トゥールの「占い師」は実によく考えられていて見る人にさまざまなことを考えさせる。パトロンはきっと飽きずに眺めるほどの充足感を覚えただろう。たとえば、画面中央に立つ「卵形」の顔をした女は、どう見ても馬車やテント生活に明け暮れているジプシーの顔立ちとは異なっている。左側の悪事を働いている女たちもそれぞれ美しい。他方、占い師の老婆はなんとも形容しがたい異様な顔で描かれている。しかし、老婆の衣装などは当時のジプシーの身なりなのだ。
ラ・トゥールは明らかに他の画家の作品とは一頭地を抜く、エンターテイメント性の高い作品を創り出している。この作品には当時の上流階級に流布していた文学や伝承の話が背後に込められている。その点は長くなるのでいずれ記すことにしたい。
このラ・トゥールの「昼の世界」の作品は、画家が比較的若い頃のものと推定されている。リュネヴィルに移り、妻の階層である貴族社会に入り込むために、画家はその技量のありたけを見せようとしたのだろうか。「かも」になっている自分の周りにいるような若者を彼らはどう見たのだろうか。想像するだに面白い。人物の配置、衣装のひとつひとつを見ても、さまざまなことを考えさせる傑作である。