弊ブログに足跡を残してくださっている方のブログを訪問したら、虹がかかっている一面のソバ畑の写真があった。
私には稲穂の田んぼはお馴染みだけれど、ソバの花が咲いている光景は幼いころの記憶につながる。
母の実家に行ったとき、自分の胸元あたりで赤いソバ花が一面に咲いていた。季節はいつ頃なのか、ぽかぽかとした日差しと一緒に思い出される。(もの知らずで、ソバの花が咲く季節も知らない)
24年生まれの私がまだ小学校入学前だとすると、20年代の終わりか。
そのころは既に母方の祖父母は亡くなっていて、写真でしか知らない。でも、私が誕生したときに作ってもらったという、着物(一つ身と四つ身の)を、私は今も持っている。絹地のそれらの幼子用の着物を長女(母)に産まれた孫(初めての女の子、私)のために作ってくれたのか、とこの歳になるとシミジミ具合が深まったりする。
24年に生まれた孫が小学校入学前に祖母は亡くなっている。ということは、私を連れて実家に帰ったころ、記憶にあるソバの花のころは母は30代半ば。
知ることもなかったけれど、まだ大変だったころなんだな~、と順序だてて思い出すと気持ちはしんみりする。
病に伏した母親(祖母)を実家を見舞うと、床に伏している姿を見たばかりの母に、「自分の見舞いはこれでいいから、早く(嫁ぎ先に)帰れ」というのだ、と。まだ土間に入っただけなのに、「帰れ、帰れ」っていう母親だったと。
どれだけ娘と語り合いたかっただろうに、お姑さんに「遅かった、なにをしていた」となじられる娘を気遣いつづけるのが癖で、晩年の床にあってもそうだったと。近所のお豆腐屋さんに豆腐を買いに行って、知り合いに会って立ち話をしていたら、「遅い」と怒られる厳しい姑(父の母)さんなのですから。
今は昔、隔世の感ですね。
もう母から聞いた話は、使っているのは同じ日本語であってもいまの世代には伝わらないきがします。苦笑
一つ身の着物は私が着ないままの新品で保管されていて、私の長女に着せてみたりしました。
そのうちに処分することになりますが、ちょっと画像に残しておこうかしら。
女の子が生まれた時は、実家から持たせてやるしきたりだったのでしょう。
ものがあふれる時代になって、すっかり変わったとつくづく思います。
あっランドセル(価格が祖父価格になっていると思います)を祖父母が買いそろえるという形でしきたりは残っているかな?
四つ身の着物。一つ身の着物と四つ身の羽織。母の野良着。

子どもの和服は私用に作られたもの。
母の野良着は、母が95歳で脳梗塞で半身まひの要介護生活をすることになり、暮らす場所が変わったときに私が貰ったもの。
昭和の時代の母で、よそゆきは和服の時代で、それなりの和服もあっただろうに、引っ越し荷物はいたってコンパクトにまとめられていました。
母用の荷物を弟が取りに行ったのですが、着ることがない和服は1枚も荷物に入っていませんでした。倒れる以前から自分で整理していたと思われます。ネックレスやいくつかの指輪もありました。母と二人で荷物整理しました。
これからお世話になる弟夫婦が使いやすいように、収納ケースに内容のメモ書きを張ったりしました。
指輪はひとつ(ダイヤだった。笑)はもらって、ほかは全部、これからお世話になる弟の奥さんに受取ってもらいました。
で、これは?と母が訊いたので「私が貰うね」と受け取りました。私は戦後生まれですが、戦争中、長く働き手が出征してしまい、生活費を稼がなくてはならず、お姑さんに赤子(兄)を預けて土木仕事をしたときのもの、とのこと。とすると私が生まれる前、20代にも着ていたものでしょうか。
苦労話は耳タコぐらいに聞いているので、その時はお互いに何も語りませんでしたが、荷物の殆どを諦めて処分に回したのに、回すに忍びなかった1枚だということが、ヒシヒシとわかるのは、ひとりしかいないでしょうから。
ああブラウスなどの半分以上は、私から母の日のプレゼントの品のようでした。褒められた娘ではないのですが、夫の母(おしゃれさん)のプレゼントを買う時に、一緒にちょっと地味目の1枚を選んでいたのです。長年のことでしたので、ちりも積もれば、といった感じです。苦笑
私には稲穂の田んぼはお馴染みだけれど、ソバの花が咲いている光景は幼いころの記憶につながる。
母の実家に行ったとき、自分の胸元あたりで赤いソバ花が一面に咲いていた。季節はいつ頃なのか、ぽかぽかとした日差しと一緒に思い出される。(もの知らずで、ソバの花が咲く季節も知らない)
24年生まれの私がまだ小学校入学前だとすると、20年代の終わりか。
そのころは既に母方の祖父母は亡くなっていて、写真でしか知らない。でも、私が誕生したときに作ってもらったという、着物(一つ身と四つ身の)を、私は今も持っている。絹地のそれらの幼子用の着物を長女(母)に産まれた孫(初めての女の子、私)のために作ってくれたのか、とこの歳になるとシミジミ具合が深まったりする。
24年に生まれた孫が小学校入学前に祖母は亡くなっている。ということは、私を連れて実家に帰ったころ、記憶にあるソバの花のころは母は30代半ば。
知ることもなかったけれど、まだ大変だったころなんだな~、と順序だてて思い出すと気持ちはしんみりする。
病に伏した母親(祖母)を実家を見舞うと、床に伏している姿を見たばかりの母に、「自分の見舞いはこれでいいから、早く(嫁ぎ先に)帰れ」というのだ、と。まだ土間に入っただけなのに、「帰れ、帰れ」っていう母親だったと。
どれだけ娘と語り合いたかっただろうに、お姑さんに「遅かった、なにをしていた」となじられる娘を気遣いつづけるのが癖で、晩年の床にあってもそうだったと。近所のお豆腐屋さんに豆腐を買いに行って、知り合いに会って立ち話をしていたら、「遅い」と怒られる厳しい姑(父の母)さんなのですから。
今は昔、隔世の感ですね。
もう母から聞いた話は、使っているのは同じ日本語であってもいまの世代には伝わらないきがします。苦笑
一つ身の着物は私が着ないままの新品で保管されていて、私の長女に着せてみたりしました。
そのうちに処分することになりますが、ちょっと画像に残しておこうかしら。
女の子が生まれた時は、実家から持たせてやるしきたりだったのでしょう。
ものがあふれる時代になって、すっかり変わったとつくづく思います。
あっランドセル(価格が祖父価格になっていると思います)を祖父母が買いそろえるという形でしきたりは残っているかな?
四つ身の着物。一つ身の着物と四つ身の羽織。母の野良着。



子どもの和服は私用に作られたもの。
母の野良着は、母が95歳で脳梗塞で半身まひの要介護生活をすることになり、暮らす場所が変わったときに私が貰ったもの。
昭和の時代の母で、よそゆきは和服の時代で、それなりの和服もあっただろうに、引っ越し荷物はいたってコンパクトにまとめられていました。
母用の荷物を弟が取りに行ったのですが、着ることがない和服は1枚も荷物に入っていませんでした。倒れる以前から自分で整理していたと思われます。ネックレスやいくつかの指輪もありました。母と二人で荷物整理しました。
これからお世話になる弟夫婦が使いやすいように、収納ケースに内容のメモ書きを張ったりしました。
指輪はひとつ(ダイヤだった。笑)はもらって、ほかは全部、これからお世話になる弟の奥さんに受取ってもらいました。
で、これは?と母が訊いたので「私が貰うね」と受け取りました。私は戦後生まれですが、戦争中、長く働き手が出征してしまい、生活費を稼がなくてはならず、お姑さんに赤子(兄)を預けて土木仕事をしたときのもの、とのこと。とすると私が生まれる前、20代にも着ていたものでしょうか。
苦労話は耳タコぐらいに聞いているので、その時はお互いに何も語りませんでしたが、荷物の殆どを諦めて処分に回したのに、回すに忍びなかった1枚だということが、ヒシヒシとわかるのは、ひとりしかいないでしょうから。
ああブラウスなどの半分以上は、私から母の日のプレゼントの品のようでした。褒められた娘ではないのですが、夫の母(おしゃれさん)のプレゼントを買う時に、一緒にちょっと地味目の1枚を選んでいたのです。長年のことでしたので、ちりも積もれば、といった感じです。苦笑
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