お城についてWeb学習。
居ながらにして検索できる恩恵を享受しています。
いろんなことがわかりました。
自分用に綴っている雑文です。
車での土日旅行で、高速を伊勢方面へ走っているとき、小高い山の中腹に、お城(のかたちの比較的新しい建築物)が見えました。
あれはなんだろう。成功したお金持ちが建てた家なのだろうか。あれが自分の家だったらちょっと奇抜すぎて恥ずかしいけれど、成功して超お金持ちになった人って、周りの人の意見を聞かないところがあるからね~、などと話していた。
それ、何だったかわかりました。
伊勢の安土桃山城らしいです。
本来の安土桃山城は城跡しか残っていませんが、資料をもとに復元した建物らしいです。
(安土桃山城を検索すると、そちらのほうが先に出てくることから判明)
観光地らしいです。
で、私が知りたかったのは、
織田信長の安土桃山城のこと。1576年から3年がかりで、羽柴秀吉が陣頭指揮をとって建てた城で、近江の琵琶湖が望める高地に建てた。結構な山城で、もう数年前に杖をつきながら天守閣跡地まで登ったものです。
そして、今回行った、松坂城(跡)は、1588年に蒲生氏郷が築城しています。
蒲生氏郷は13歳の時に織田信長の岐阜城で人質として過ごした時代があった、と。
その信長は1582年6月2日に本能寺の変で命を落としています。
そんな時代の城だから、防衛への備えも十二分に考えられた城であり、蒲生氏郷という武将の勢力の大きさをも表している。私みたいな素人には、耳慣れない武将なのですけど。トホホ
日本の3大名城として並んでいるのは、名古屋城、大阪城、姫路城とのこと。①~③と順番をつけていいものやらどうやら。
おなじみの名古屋城が一番目に来ていたのに、あ~そうなんだ、といまさらながらに、思う。
名古屋城
もともと那古野荘という荘園があったところに、那古野城が築城されていて、一時信長も那古野城を居城にし、その後清州城を築城してそこに移ったとのこと。その那古野城は1582年に廃城になった(本能寺のあと、でしょうね)。
その場所に、徳川家康が1610年に名古屋城築城を命じた、という流れ。この城は西国の大名らに命じて工事をさせた天下普請によるもの。
大阪城
豊臣秀吉が1583年に築城をはじめ、1585年に完成。
ただし、秀吉の作った大阪城は1615年の大坂夏の陣で炎上。
その後1620年の徳川時代になって、天下普請によって、秀吉の大阪城の石垣などは埋められて、石垣なども含めて新たに作られたもので、1626年に完成している。
姫路城
1580年に黒田官兵衛が、秀吉に築城を持ちかけてできた。
熊本城
1591年から加藤清正が築城を計画、関ヶ原の合戦後の1601年から築城を開始し、1607年に完成。
加藤清正って、秀吉の7本槍だったはず、なのに、徳川の時代に築城を?、、、寝返っているのです。歴史通は当然に知っていることなのに、浅学の私はようやくここで認識するオソマツです。
関ヶ原で勝利をおさめた徳川幕府から、外様の島津(薩摩藩)の暴挙を抑える役目を担ったことから、鉄壁の防御が施されている、と。
加藤清正が移封になった後は、細川氏が城主になった。
彦根城
1603年築城(関ヶ原の後です)し始め、1606年に完成。
豊臣氏の反逆に備えての築城でした。これも天下普請による。
こうして、復習してみると、ひとつひとつに理由があり、歴史の動きを表しているのだと納得する。
天下統一にしのぎを削っていた勇者たちの、命の保障もどこにもない、ぶつかり合いの世界だったのでしょう。
私、徳川幕府の運営方針とされた、武家諸法度や禁中並びに公家諸法度も、その実情を学びたい、とか、気が多くて扱いかねる節があります。
時代の制約の中で、人々がどうチョイスして生きていたか、関心のあるところは、そこなんです。
文字が読めるって、いいことですね。
居ながらにして検索できる恩恵を享受しています。
いろんなことがわかりました。
自分用に綴っている雑文です。
車での土日旅行で、高速を伊勢方面へ走っているとき、小高い山の中腹に、お城(のかたちの比較的新しい建築物)が見えました。
あれはなんだろう。成功したお金持ちが建てた家なのだろうか。あれが自分の家だったらちょっと奇抜すぎて恥ずかしいけれど、成功して超お金持ちになった人って、周りの人の意見を聞かないところがあるからね~、などと話していた。
それ、何だったかわかりました。
伊勢の安土桃山城らしいです。
本来の安土桃山城は城跡しか残っていませんが、資料をもとに復元した建物らしいです。
(安土桃山城を検索すると、そちらのほうが先に出てくることから判明)
観光地らしいです。
で、私が知りたかったのは、
織田信長の安土桃山城のこと。1576年から3年がかりで、羽柴秀吉が陣頭指揮をとって建てた城で、近江の琵琶湖が望める高地に建てた。結構な山城で、もう数年前に杖をつきながら天守閣跡地まで登ったものです。
そして、今回行った、松坂城(跡)は、1588年に蒲生氏郷が築城しています。
蒲生氏郷は13歳の時に織田信長の岐阜城で人質として過ごした時代があった、と。
その信長は1582年6月2日に本能寺の変で命を落としています。
そんな時代の城だから、防衛への備えも十二分に考えられた城であり、蒲生氏郷という武将の勢力の大きさをも表している。私みたいな素人には、耳慣れない武将なのですけど。トホホ
日本の3大名城として並んでいるのは、名古屋城、大阪城、姫路城とのこと。①~③と順番をつけていいものやらどうやら。
おなじみの名古屋城が一番目に来ていたのに、あ~そうなんだ、といまさらながらに、思う。
名古屋城
もともと那古野荘という荘園があったところに、那古野城が築城されていて、一時信長も那古野城を居城にし、その後清州城を築城してそこに移ったとのこと。その那古野城は1582年に廃城になった(本能寺のあと、でしょうね)。
その場所に、徳川家康が1610年に名古屋城築城を命じた、という流れ。この城は西国の大名らに命じて工事をさせた天下普請によるもの。
大阪城
豊臣秀吉が1583年に築城をはじめ、1585年に完成。
ただし、秀吉の作った大阪城は1615年の大坂夏の陣で炎上。
その後1620年の徳川時代になって、天下普請によって、秀吉の大阪城の石垣などは埋められて、石垣なども含めて新たに作られたもので、1626年に完成している。
姫路城
1580年に黒田官兵衛が、秀吉に築城を持ちかけてできた。
熊本城
1591年から加藤清正が築城を計画、関ヶ原の合戦後の1601年から築城を開始し、1607年に完成。
加藤清正って、秀吉の7本槍だったはず、なのに、徳川の時代に築城を?、、、寝返っているのです。歴史通は当然に知っていることなのに、浅学の私はようやくここで認識するオソマツです。
関ヶ原で勝利をおさめた徳川幕府から、外様の島津(薩摩藩)の暴挙を抑える役目を担ったことから、鉄壁の防御が施されている、と。
加藤清正が移封になった後は、細川氏が城主になった。
彦根城
1603年築城(関ヶ原の後です)し始め、1606年に完成。
豊臣氏の反逆に備えての築城でした。これも天下普請による。
こうして、復習してみると、ひとつひとつに理由があり、歴史の動きを表しているのだと納得する。
天下統一にしのぎを削っていた勇者たちの、命の保障もどこにもない、ぶつかり合いの世界だったのでしょう。
私、徳川幕府の運営方針とされた、武家諸法度や禁中並びに公家諸法度も、その実情を学びたい、とか、気が多くて扱いかねる節があります。
時代の制約の中で、人々がどうチョイスして生きていたか、関心のあるところは、そこなんです。
文字が読めるって、いいことですね。
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