水神碑から総集編・編集後記
水神の碑
石井善兵衛翁の生家を見る
善兵衛樋の4文字の標識発見
現代は配水路、そのむかし大正、昭和の時代は・・・・。
川からたんぼへ、今は配水路!
野遊びや池に石投げ水輪かな (縄)
「水は高きから低きに流れる」溜め池は山間地にあり、天水や湧水を溜めて田植えの時期5~6月に放水して下地の田畑を潤した。わが故郷・秩父にも大きなため池があり流れ出たため池の水により、代掻きをし早苗を植えて、行く末の豊穣を祈った。そこには山裾に用水路を作り、急峻な土地を通水するときは木材をくり抜いた大きな樋を作って導水した。
上小岩親水公園にある「善兵衛樋」、江戸川土手下の水神碑から端を発し調べるに至っ全5回連続記事、その前からだと多くを重ねた。碑文を見ると『水が滝のように流れているのは善兵衛樋のシンボルであることを知った。善兵衛樋は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく流れ落ちその落ちる様は樋の仕組みになっていて、 まるで滝のようで・・・」と記しています。
此処で、「善兵衛樋」とは如何なる仕様によって、高きから低きに流れる水の原理を応用して、干上がった付近一帯の田畑を潤したのでしょう。現代であれば揚水ポンプなる仕掛けで簡単であるが、ことはこれ江戸時代でした。4~500M離れた上流柴又地区においては、足踏み水車が6連あり揚水したと葛飾探検隊・柴又用水編調査で出会った。ある本に克明に記録が残っていた。
ここ北小岩においても立派な水神碑が残っていましたが、≪揚水原理≫が分からない。江戸川区役所・公園課に電話したがラチが明かない、図書館はご覧の通り閉まっていて要をなさない。まだまだ田圃と河川の高低差、暗渠と堤防とのなれ合い見分したり調べたいことが沢山ありますが、石井善兵衛生家、善兵衛樋の現場を知り得たことは知を広め、上小岩親水緑道を歩いていても見方がだいぶ変わってきた。未知の部分は次への機会に譲ります。
* 検索によれば「論集≪江戸川≫」が刊行されているようです。また「江戸川区史」また↑の画像に電話番号があります。何らかの手掛かり詳細がわかるかっも、望みを託しこの項を終わりとします。
拙い調査を応援下さったブロガーの皆さんに御礼申し上げます。
お越しくださって有難うございます。
締めております。