石川達三「日陰の村」日経・夕刊 文学の周辺
日陰の村、小河内村
東京都資料から出典
日経新聞・夕刊、2/2を
読んでいると、下の記事が目に飛び込んできた。
そうそう!!山行きで奥多摩湖へ何回も足を運んだ。
村民の集団陳情に向った奥多摩むかし道も2度ほど往復した。
"Once more, please." もう一度、
あの「日陰の村」=『湖底の故郷』に、陽を当てたかった。
日経新聞の記事
「日陰の村」は37年9月「新潮」に発表された。
東京の水源として貯水池の底に沈むことになり、当時大きな社会問題化した。
その旧小河内村を克明に描いた小説です。立ち退きの補償を当てにする村民は
勤労意欲が減退し、山林や畑は荒れ放題。
ところが工事着工は、何年も先に延ばされて村は益々疲弊する。
村民は、奥多摩道を通り集団陳情に出かける。
その一部始終が丹念に取材され村落の哀史が浮き彫りにされる。
上記は、「日陰の村」解説の冒頭部分書き出しです。
奥多摩湖周辺図
何回か訪れた奥多摩湖。
湖底に沈んだ村の歴史を刻んだ碑、
右の赤石は「湖底の故郷」を刻んだ歌碑、ここに佇むと故郷への思いが・・・・・、
熱く込み上げるものがあり涙腺が緩む。
東海林太郎・「湖底の故郷」
♬夕日は赤し 身は悲し
涙は熱く 頰濡らす
さらば湖底のわが村よ・・
この歌は、「日陰の村」と同じ年に発表された。
発表を見るや湧然として世の共感を呼び、全国内に愛唱されるに至り、
村民もこれに依って離郷の悲想を大いに慰められた。
奥多摩湖には、4~5回訪ねた。
「奥多摩 水と緑のふれあい館」を訪ね、旧小河内村の日常生活用具、
農機具も見学、実際手にも触れました。
それらをつなぎ合わせて編集した。長編です。
村民の立場に立って考え作りました。思うと熱いものが込み上げる。
"Once more, please." もう一度、
DB 湖底の故郷
涙は熱く 頬濡らす
さらば湖底の わが村よ
幼き夢の 揺り籠よ
1966年この歌碑の除幕式が湖岸で行われ参列した旧小河内村の人たちは嗚咽したといわれます。
移住した山梨県高根村清里念場ヶ原、海抜1200m~1300mの八ヶ岳山麓火山灰地、痩せ地、冷涼、農業試験場の指導の下に。土地に合う農作物の開発に艱難辛苦したそうです。
2011年5月30日のブログです。
https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/9cc6ab1fe23331425de91c5f11a8509b
リンクのブログ10年前でしたか。
ありがとうございました。
比企野さんの記事を見ました、又ウイングが、広くなったような気がしました。
≫参列した旧小河内村の人たちは嗚咽したといわれます。
気持ちわかり過ぎるほど分かります。
先祖伝来と続いてきた家屋敷田地田畑、お墓までが湖底に沈む。
此処でお昼を食べたことが有りましたがその話になると、湿っぽくなりました。
引き上げました。
、
デジブック拝見しました。 800世帯もの人達
村ごとって感じですね。
ダム湖の橋を 人は渡るけど 湖底の故郷を踏みつけるようで
渡れない・・・ 胸にジーンときました。
私は佐賀県で 石橋がダム湖に沈むことになり
役所 ゼネコン 町役場 あちこち電話して抗議したことがあります。
石橋でさえ これなのに・・ 温泉や何もかも・・・
茶の間の様子を見たら 切なくなりますね。
momomamaさん
DBがちょいと長かった。
みて頂き感謝です。
≫人は渡るけど 湖底の故郷を踏みつけるようで
渡れない・・・ 胸にジーンときました。
縄文人が、最も住民の心を映すだろうと、そんな思いで一生懸命に綴りました。
私の心が通じました、有難うございます。
当時の日本鋼管(JFE)は創業を止めるかの瀬戸際が
続きました。
そのことを契機に時出来たダムがあります。八田原ダムと言いますがかなりに家が水に沈みましたが、保証金で多くの人は大きな家を建てダム御殿と言われていました。
裏では悲しい出来事もあったのでしょうが!御殿ばかりが目立ちます。
住み慣れた故郷が消える
先祖伝来田地田畑家屋敷。
察すると思いあまるものがあります。
ここの人達はそれぞれ、長野清里、群馬昭和村へ引っ越して行きましたが、開拓で相当な苦労を背負ったそうです。
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