玄関とある処
玄関
↑
あるところ
コップにバラの浮き花
居 間
頂いた百合の花
コメ蘭はお休みです。
小岩菖蒲園
6月11日(月)現在、4分咲きでした。開花のスピードが速くなりました。
これからが、花菖蒲の見頃となることでしょう。
≪花菖蒲の育て方≫
この看板何かおかしいと思いません??
字の書き方は、左から。生育サイクルは右から・・・・!!
菖蒲の手入れを一生懸命されている方々は、お年寄りの人達でした。
⇒
江戸川河川敷に広がる100種5万本のハナショウブが楽しめます。
ハナショウブの他にもアジサイや睡蓮、フジバカマなども見れます。
(6月11日記す)
デジブック 『菖蒲と睡蓮』
花に語りかけてみた・・・。
白樺派・文人達
志賀直哉,武者小路実篤,そして,「民芸」運動の指導者,柳宗悦……
「白樺派」と呼ばれる文人達に共通の土地,それが我孫子です。
我孫子には,大正時代の一時期を中心に,多くの文化人が住まいを構えていた時代がありました。
当時の我孫子は,別荘地としても利用されていた,手賀沼を見下ろす風光明媚な土地。
この時代に我孫子が,「北の鎌倉」と呼ばれていたことは,今はあまり知られていません。
大正時代,文化人達が愛した我孫子と手賀沼の自然は,
今もその面影と共に,文化の香りを残しています。
我孫子駅前の文学案内碑
大正6年5月12日、武者小路実篤宅にて撮影
前列左から柳兼古(25) 武者小路房子(25) 武者小路喜久子(7)
後列左から金子洋文(23) 一人おいて武者小路実篤(32) 柳宗悦(28) 志賀直哉(34) 志賀康子(28)
一人おいて宇田川三造
手賀沼のほとりの文学碑
手賀大橋
手賀沼の文化を守る会の短歌
手賀沼の資料や、blogを整理しながら振り返ると我孫子は文人達の集まり
≪白樺派と我孫子≫を色濃くしていたことに気づく。
明治前半期の「自由民権運動」と大正期の「大正デモクラシ-」、日本の自立した市民による
民主的思想と実践運動が大きく育っていたことが輝かしいです。
我孫子白樺文学館があり、
我孫子宿と白樺派の文人達を訪ねる(所要時間 2時間)のモデルコースがある。
また是非訪れてみたい地です。
葛飾区の名工・刀鍛冶を訪ねる
伝えたい技がある
葛飾区教育委員会、郷土と天文博物館共催による
≪文化財めぐり≫が行われた。
むかし道の佐倉道を歩き周辺の文化財を尋ねる3時間ほどのウオークでした。
興味を抱いたのは、
東京都無形文化財保持者 吉原氏宅の日本刀製作現場でした。
案内役・文化財推進委員
吉原氏
世界をまたに駆けて、活躍されているとは思えない気さく・温和な方で
我々を迎い入れてくれました。車庫にて
最年少で文化庁認定の刀匠となる。
映りを鮮やかに再現し、日本刀備前伝ブームの先駆けとなった。
39歳にして刀匠の最高位である「無鑑査」となった。
特賞の最高賞が設置された1973年に初代高松宮賞を受賞。
若くしてベテラン刀匠と肩を並べ、若き刀鍛冶として脚光を浴びた。
日本の刀匠で唯一人、メトロポリタン美術館、ボストン美術館に短刀が買い上げられている。
現在、世界各国の美術館から作刀のデモンストレーションの要請を受け、国際的な活躍をされている。
刀剣文化の普及にも尽力している。
東京都指定無形文化財保持者に認定 (BS TBS 超人から)
凛として澄み切った、氷のような刃
研ぎ澄まされた日本刀.命がけで斬り合う武器として進化を遂げた刀は、
現在、美術工芸品としてのみ、造ることが許されている
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
若き後継者であろう4人が
焼く、打つ、研ぐに懸命に取り組んでいました。
あまり見られない現場です。
画像が多くなりました斟酌ください
ご好意によりカメラ・ビデオカメラの撮影が許可されました。
デジブック 『伝えたい匠 刀鍛冶』
モウ・・・、歳なんだから・・・・
それを言チャァ~お仕舞いさ
自分は何をしたいのだろう、どういう自分になりたいのだろう、
という問いに、なりたい自分が見つからない。
そして歳を経る。
多くの人は、歳を取り成長していくにつれて、
なりたい自分、なりたくない自分との現実の差を知ることになる。
他人と比べてみたり、自己嫌悪に堕ち入ったり、しばしばです。
そこに人との諍い、意見との相違が目立つと、果たしてこれでいいのか
自己評価する事しきりです。
いまさら、モゥ歳なんだから諦めたら、峠をひたすら下っている、自己顕示欲をあっさり拭い去ったら、
と言う気持ちが、心の片隅にある。
世に生がある限り、健康でいたい、少しでもプラスの方向に、他人よりよき者に、
そして社会に役立つ
という事が人間の本性であろう。
そこに、大なり小なり葛藤が生まれる。
手賀沼周辺の稲田&揚水機
5月の30日、葛ハイ一行は湖面を渡る風に吹かれながら手賀沼周辺を歩いた。
広々とした湖面、岸にはアチコチに釣り人が糸を垂れていた。
手賀沼周辺一帯は穀倉地帯。稲の苗が5cm位に伸び、そよ風に揺れていた。
湖面が長く大きく広がる
手賀沼のさわやかな風が稲田を吹きぬける
筋状に植えられた稲田が風にそよぐ光景を見て心が癒された。
カエルの子はカエルと・・・思った瞬間でした。
なまこ板の下にある簡便な揚水機
あまりにも簡単な揚水機
地下水が高く揚水に大きな動力を必要としないのであろう。
我孫子市の飲料水は、3割が地下水によって賄われている。
「地下水が豊富で簡単に揚水出来、稲田に水を引くのは、わりと簡単なんです。
このように電源さえあれば・・・・・・・・小さな揚水機で、・・・と」、
草刈作業されていた農家の方が仰った。
それもそのはず、周囲には利根川が流れ、手賀沼には見渡す限りの水を湛えている。
記念講演会
講師・平櫛田中彫刻美術館 館長、平櫛弘子氏
平櫛弘子さんは、平櫛田中氏のお孫さんにあたる方です。
彫刻師 平櫛田中と葛飾の係わり合いは郷土と天文博物館に詳しい。
講演の内容
平櫛弘子氏講演
田中の幼少期については家系図を示し、また館長の親から聞かされた話を興味深く話された。
愛情、制作意欲、家族の病気、エピソードについて様々な面から、特に幼少期については詳細にされた。(伝聞内容を事細かに)
平櫛家は、病気で亡くなる方が次々出て、家が途絶える。跡取りは、男女に係わらず最初に生まれた子を継がせることに決まっていた。弘子さんが跡を継ぎ現在に至っている。(↑の講演者)
平櫛田中は、岡山県・後月郡西江原村(現・井原市西江原町)の田中家に生まれる。明治5年1月15日、田中倬太郎として・・・。幼くして平櫛家に養子に入る。平櫛家と田中家の姓をとり、通称・平櫛田中とする。その後実家に帰ったりまた戻ったりして少年時代に辛酸をなめた生活を体験している。
田中は15歳で、木彫に興味を覚え、大阪に出る。1893年(明治26年)に、人形師・中谷省古に弟子入りし木彫の修行を行う。この間に多くの彫刻家との親交があり、これが後年になってから大きく花開く礎になったと言う。以来、百歳をこえても現役の彫刻家として活躍しました。その芸術の特徴は、優れた写実力と深い精神性、そして彩色に抜群の力を振るう。
葛飾区には、昭和14年~44年?)お花茶屋に工房を設け、上野の居宅から京成電車で通い、大作の≪鏡獅子≫をここで完成させている。昭和45年住み慣れた台東区上野から、小平に転居して昭和54年107歳で亡くなっている。
学問もなく、世に大作を輩出し、芸大の教授まで上り詰めたのは、田中自身の才能と努力は勿論のことですが、取り巻く多才な多くの人達の力添えによるところが大きい。・・・と付け加えた。≪講演要旨から≫
私の好きな言葉
今日もお仕事、おまんまうまいよ、
びんぼうごくらく、ながいきするよ
六十、七十は鼻たれ小僧、
男ざかりは、百から百から、わしもこれからこれから
・・・・・以下略・・・
言葉との出会いは、
50歳前後の頃、玉川上水緑陰を多摩川取水口から流れに沿って歩いていた。
フト目に入ったのが小平に在る美術館でした。何気なく門を入る。迎えるように額縁が玄関にデンと掛けられていた。
≪六十,七十は鼻たれ小僧・・・≫のーーーーことばに胸を刺される思いがした。
全く知り得ていなかった人物。奥深い言葉と力強い書、彫刻のすばらしさに触れて酔った。
感動したことが数日前のように蘇る。
博物館の掲出された看板
葛飾区立郷土と天文博物館
素晴らしい名作が出展され、企画展を盛り上げています。
今月6月17日(日)までです。