サンシュウ&大寒桜&お弁当
まぁ~キレイ・・・。Tさんが言った。なんのお花…?
Kさんが答えた。ホラ、幹に書いてあるでしょう!!
桜咲く隣のグランドでは応援団の歓声。
それにはわれ関せず、ただ見上げ桜の鑑賞。
野川公園を縦貫する東八道路 西武多摩川線
リーダーからの伝達。
前に見える休憩所でお昼です。
モグラ君の大忙し! トンネル工事中。
ただいま昼食中。
コメント欄は閉めています。
サンシュウ&大寒桜&お弁当
まぁ~キレイ・・・。Tさんが言った。なんのお花…?
Kさんが答えた。ホラ、幹に書いてあるでしょう!!
桜咲く隣のグランドでは応援団の歓声。
それにはわれ関せず、ただ見上げ桜の鑑賞。
野川公園を縦貫する東八道路 西武多摩川線
リーダーからの伝達。
前に見える休憩所でお昼です。
モグラ君の大忙し! トンネル工事中。
ただいま昼食中。
コメント欄は閉めています。
くじら山(標高❓m)に登る
くじら山は、人工的に盛られた山か?
野球場に向かう子供たちの自転車。ユニホームからそう見て取れた。
その上に”フジノ会・歩こう会”の一団が見えます。
その横の小高い山(丘)が、目差すくじら山です。
モトクロス、オートバイの乗り小規模のコース?
皆さん元気!ものともせず登る後期高齢者。
くじら山の頂です。
ここで5分間の休憩です。
山歩きで鍛えた皆さんはすこぶる元気!!
くじら山から見ると、中央にはJR武蔵小金井駅前の高層ビルが目に入る。
高層ビルが武蔵小金井駅、本日の出発点です。
くじら山の周辺を眺めると、巨木や大木が目に入ります。
この森を見て小金井市、タイトルノ「癒しの森林ウォーキング」を実感した。
一人静かにニュース ペーパーを読む。唯我独尊の心境に浸かる。
管理事務所棟。
ツバキがとても綺麗でした。
コメ欄は閉めています。
野川の周りを歩く
野川を語るには”はけ”を知ろう
小金井には高低差15~20mの
段丘崖(国分寺崖線、ハケ)が東西に走っています。
そのため風情のある坂や階段が今も数多く残っています。
この高低差によって高きから低きに流れる水が、野川のはけに流れ出し
湧水となり水の溜まりを作り湿地となり、小川となり多摩川に注いでいます。
丸山橋から➡小金井新橋まで
野川を水の流れに沿って下る。
↓
丸山橋です
丸山橋に掛かろうとしたとき大きな椿を見つけた。
フジノ会員の皆さんの5人ほどが椿を見ながら離れなかった。
歩いている人の誰かが言った。
”あし”と”茅”はどう違うのと誰かが言った。
I don't knowと言った。
野川の脇に設けられた、立体花壇。
前方に見えるのは「天神橋」か?
ア・ア・ア・ア・ア”サギがいる”と前の人が言った。
きれい、美しい‼一本足。
これほで満足に撮れた鳥は初めてです。何故、近づいても動かなかった。
左岸、右岸は枝垂れ桜の並木です。
野川の飛び石を渡る。後期高齢者足がふらつくが皆渡り切る。
小金井新橋から高見の見物。
この野川は、国分寺史跡跡付近から源水として、はけの水を集め小川を作っています。
武蔵の公園です。
次回は、武蔵の公園です。
JR中央線武蔵小金井周辺を歩く
若かりし頃、隣り武蔵国分寺駅駅から徒歩20分ぐらいの
所に住んでいました。
そんなことからこの周辺は、懐かしさ半分、興味半分で参加しましたが
その景観は全く異なっていた。
線路は高架となり、武蔵小金井駅に降りたときは長いエスカレーター
(階段)、駅前には武蔵野の面影は全く消え失せていた。
浦島太郎が、玉手箱”開けて駅前に立った心境に駆られた。
南口を見る
かまぼこ型の屋根駅に前広場をふんだんに取り入れてバスの発着所。
確かこの南口駅前周辺には、「小金井自動車練習所」があったと記憶している。
武蔵小金井(北口)を見る
東京からの離陸基地、
羽田空港行きのバス発着所までが・・・・。
南口駅前には高層ビルが建つ
AM10時集合、
いつもの顔なじみの人達は、ほとんど集まった。
時計を見ると、まだ10分の時間が有ります。
集合終了、
小金井街道を野川方向に進んでいます。
小金井市は、あちこちに桜の名所が有ります。
小金井公園、玉川上水近辺。
小金井古戦場の碑
↕
アアア見つけた!!
こんな所に「小金井自動車学校」の看板を発見。
駅から随分と野川方向に後退していた。駅前開発で移転!?
自動車学校は桃の花が咲く、野川に沿って左岸のすぐそばにありました。
上部のビルが、駅前にそびえ立つビルです。
附 則
史跡 金井原古戦場 と書かれています。
鎌倉時代から室町時代は坂東武者が活躍した時代なのですが 残念ながら私はそれほど詳しくは知っていません。
ここは南北朝時代の武蔵野合戦の古戦場で ここのほか近くには府中の、
分倍河原古戦場跡などがあります。
昔は唯の原野だったのでしょうけれど、意外な歴史がありました。
次回は野川周辺を歩きます。
≪新金線に路面電車が走ることを願いつつ≫
高砂地区の踏切
高砂 地区の踏切とその付近の様子です。
富士見橋です。
富士山は高い家並が出来てあまり見えません。
富士見橋から細田方向に伸びる新金線
中川に架かる高砂橋。
新金線が敷き設されたころは、帝釈天へ参拝する帝釈枝道の
”渡し”が有り多くの人達が行き来した。
そして富士見橋と言う名前が付けられるくらいですから、富士山の眺めが
絶好であったことでしょう。
金町駅方向に伸びる線路
京成線のガードが見えます。大光明寺です。
青龍神社。
青龍神社の怪無し池
奥が中川の土手です。
中川の堤防が決壊したときに出来た駅です。
小松川街道踏切。青龍神社入口から見る。
小合用水が線路の西側に流れる付近に空堀ガーター橋が残っている。
将来は下を掘削し道路計画が有ります。
高砂踏切。
旧佐倉街道に架かる踏切なのになぜ佐倉街道踏切にしなかったのか。
踏切の近くには、佐倉連隊に向かう軍用車が
小合用水に転落殉職(昭和16年)の兵士碑が建立されている。
コメ欄はお休みです。
日本庭園ランキング第3位にも選ばれているという
米国の日本庭園専門誌「Sukiya Living〜ランキング調査(2014年)
日本庭園ランキング第3位にも選ばれているという山本亭の日本庭園、を発見しました!
(ちなみに1位は足立美術館の庭園で、2位は桂離宮だそうな。)
山本亭の見事な日本庭園
午前中レクチャーを受ける
郷土と天文博物館員(学芸員)からのレクチャーを受ける。
午後から参加者50名を、柴又帝釈天を中心とし、山本亭の中にある、
”防空壕”を案内する。
郷土と天文博物館の学芸員からのノウハウを伝授
日本三大名園の前でレクチャー
帝釈天の前庭にて
ボランティヤ(葛飾探検団)の勢ぞろい
山田洋次記念館前にて
参加者の前にて班の編成と探検団の紹介。
山本亭の裏玄関先で、これから防空壕の見学をする参加者。
山本亭の内部については、後日DBにて紹介します。
コメ欄はお休みです。
東京大空襲と葛飾 区の公募者(参加者)のお手伝い
【かつしか探検団、ボランティヤ】
大正末期に建てられた山本亭は、和洋折衷の建造物です。
合資会社山本工場(カメラ部品)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられた。
大正15年から昭和5年までに増改築を重ねました。洋風建築の佇まいを残す貴重な
建築として、葛飾区が登録有形文化財に指定。
昭和63年に買い取り、平成3年4月から一般公開されています。
この中に今でも残る、母屋から
階段続きのコンクリート製”防空壕”が保存されている。
非公開物件ですが、この日に限って区民公募者の見学が許された。
50名の参加者(抽選)の方々を案内説明(葛飾区探検団員として)をした。
A 山本亭
B 山本亭入り口門
C 玄関口 多くの見学者が訪れていた。
D 母屋2階の佇まい
E 山本亭の屋敷を通り抜けて寅さん会館へ
F 防空壕後、地上への脱失口
G 上記Fに同じ
H 母屋からの防空壕に通じる階段屋根と防空壕からの脱出口
I 母屋からの防空壕へ下りる階段
J 内部のコンクリート中に組み込まれた金庫、床は板張り
K 大正期には珍しい換気扇が設置されている。
L 周囲はコンクリートの上に熱い布が張り付けられていましたが、
傷みが激しく破れていた。
M 母屋の階段と防空壕(地下室)の間取り。6畳2間
O 防空壕(地下室)の見取り図
← HPからお借りしました。
縄文人と防空壕
終戦の年が、尋常小学校2年生でした。
したがって少々終戦のゴタゴタは記憶に残っています。我が家にも防空壕がありました。
父が亡くなって間がないので、どなたが掘ったのか記憶にない。
今思えば粗末なもので4~5人入壕できた。
穴を掘りその上に材木を渡し、その上を土で覆った。1~2回入った?か。
戦後は、野菜入れに使われたが、いつの間にか無くなっていた。
苦難、辛抱、責任、奮闘
葛飾、奥戸天祖神社しめ縄飾り作り
指は太りきって、関節ごとに糸で括ったような
節くれ立った手。
その生々しい力強い指、
何匹かの蚕が這っているようにも見える。
顔で笑って腹で泣け。
男の生き様、遍歴の魂が潜んでいる。
=縄=