私の映画玉手箱(番外編)なんということは無い日常日記

なんということは無い日常の備忘録とあわせ、好きな映画、韓国ドラマ、そして
ソン・スンホンの事等を暢気に書いていく予定。

1972年5月15日の事

2022-05-15 19:34:33 | なんということはない日常

1972年5月15日、小学校中学年だったが、その日の事は覚えている。

当時担任だった20歳代後半の女性の先生は、始業式の際「1年間、皆さんの担任の間、毎日学級新聞を発行したいと思います。それが先生の今年の目標です。」と言い、毎日ガリ版で作成した学級新聞を私たちに配ってくれた。

自分の自己紹介から始まり、運動会や遠足等の学校の行事の事、掃除当番をさぼる人への注意や、学級内での係活動の事等、学級周りの事が中心だったが、時には小学生にわかるような時事ネタを取り上げる日もあったりした。

1972年5月15日は、沖縄返還の事がB4サイズのわら半紙にまとめられていた。

先生からは「学級新聞は、必ず家に持ち帰ってご両親に見せてください。そしてご両親と学校での出来事について話し合ってください」と言われていた為、小学校中学年だった私はキチンと言いつけを守り、毎日先生が鉄筆で書き、ガリ版印刷した用紙を家に持ち帰り両親に見せていた。今式に言うなら、毎日の出来事をFacebookにアップするということだと思うのだが、鉄筆書きし、印刷するのはFacebookより何倍も労力がかかって大変だったと思う。若い先生故、きっと希望と理想に燃えていたのだろう。

ただ、両親は仕事が忙しかったようで、先生の作る学級新聞にあまり興味がなさそうなのは子ども心にもよくわかった。「先生には『両親にもキチンと見せています』と言えばいいから・・・」と言い、斜め読みをすればいい方だった。先生の言う事を聞けばいいのか、両親の言う事を聞けばいいのか、小学生にとっては悩ましい事だった。

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1972年5月15日のすべて沖縄返還の事が書かれている学級新聞を家に持ち帰って両親に見せると、いつもは学級新聞の内容についてあれこれ言わない二人が「小学生にこんな事を教えなくてもいいのに・・・」と珍しくその内容についてあれこれと話し合っていた。「学級新聞なんだから、勉強の事や、キチンとした生活習慣の事だけでいいのに」と時事ネタを取り上げていた事に納得がいかない風だった。

子どもの私が「まずい」や「美味しくない」などと食事に対する不満を口にすると「戦争になると、とにかく食べる物が無くなる」と、食べる物があるだけ有難いという話を何度も繰り返し、母は疎開先で食料が無くて困った事や、遠い親戚の家に身を寄せて肩身の狭かった事、長野の南部出身の父は、家に何度も満洲開拓移民を勧める村の人がやって来た話をしてくれた。終戦時に小学生だった両親にとっては、戦争イコール食べる物がないということで、沖縄の事は遠い離れた場所での出来事だったに違いない。どんな事でも「なんで?なんで?」と知りたがる娘の私の好奇心に辟易してのリアクションだったのかもしれないし、先生の書いた内容に疑問を持っていたのかもしれないが、今となってはその真意を確認する事は出来ない・・・

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その担任の先生は、学級新聞以外にも「班活動」に力を注いでおり、「班の誰かか宿題を忘れたら班の連帯責任」「班の誰かが掃除をさぼったら班の連帯責任」等、連帯責任のために、あまり楽しくなかった思い出が多いのだが、1972年5月15日の事を考えるきっかけをくれた事にはとても感謝している。

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せっかく子どもの頃、考えるきっかけを貰ったにもかかわらず、今考えている事が、今日スーパーで購入した沖縄そばの事なのが情けない・・・



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