おそらく自分が一番多く繰り返し聴いた交響曲はブルックナーの八番
手元にあるレコードやCDは様々な指揮者のものだったり
同じ指揮者でも録音した時が違うものなど、聴き比べを楽しんでいる
その中でも、第三楽章はとびきりお気に入りの楽章で、聴き比べをする時は
ここを取り出して集中して聴く
この音楽はとても不思議で、聴き漏らすまいと集中して聴いているのだが
もしかしたら集中というよりは音に身を委ねるといったほうが正確かもしれない
聴いてて得るものは(感じるものは)ブルックナーの人生観とか
それらを反映しているものとは全然違って、ただただ音響の表現するもの
ある時は自然であったり、寂寥感であったり、忘我の瞬間だったりで
この楽章だけで20分以上を要するが、何故か長いと感じないし疲れない
ただ聴くだけじゃつまらないと思い、楽譜を購入して音を目で追ったり
ベッドに寝転びながら音を思い浮かべながら眺めると、この音楽は
耳で感じるよりは緻密にできていてモチーフが、予想以上に考えられて変奏されている
この音楽はベートーヴェンの第九を参考にしていると感じることがあった
第4楽章で一楽章、二楽章、三楽章のテーマの回帰する構造が似ているというのではなくて
その設計、第三楽章に与えられた役割が精神的に似ている気がしてならない
ところで参考になるベートーヴェンの第九の第三楽章もとても好きな音楽で
有名な合唱の第四楽章よりも心に響く
この楽章も聴き比べをすることが多いのだが、ここで不思議で仕方ないのが
聴いた印象が全然違うということがいつも感じられることだ
特にフルトヴェングラーの指揮したものと、他の指揮者のものとは印象が全く違う
フルトヴェングラー以外の指揮者の音楽は、音楽表現にはいろんな解釈や方法があるものだ
と感じることが多いが、フルトヴェングラーの演奏は最初から何かが違う
演奏されて耳に達する音は楽器の音ではなく、自分の頭に備わっている楽器のようなものが
精神の活動によって響いているかのよう
だから演奏は指揮という指示のある行為の結果と言うよりは
既に存在している音楽の切り取りのような気がしてならない
(演奏者の自発的な行為のような)
何かが違うとはっきりわかるのは、曲の最後の方にあるファンファーレのところ
この一回目と二回めのファンファーレのあとの余韻とか寂寥感とか瞬間的な充実感は
果たして同じ楽譜による音楽なのか、、と感じざるを得ない
この魔術的な効果は指揮行為の技術のよるものか、解釈によるものかわからない
だた違うということだけはわかる
ということで、ベートーヴェンの第九の第三楽章は圧倒的にフルトヴェングラーの指揮したものが好き
それに影響されたブルックナーの八番の第三楽章の演奏では
現時点ではヴァント指揮ベルリン・フィル、ハイティンク指揮のロイヤルコンセントヘボウ
そしてフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルが気に入ってる
これらのうちどれを聴くかはその時の気分次第
(ジュリーニとウィーンフィル、クナッパーツブッシュのミュンヘンフィル、バレンボイムのシカゴ交響楽団も捨てがたいが)