パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今年最初に聴いた曲

2020年12月31日 21時13分50秒 | 音楽

いつもなら家の中を走り回るモンスターたちも
今年はフェイスタイムの画面のなかで、先日送ったお年玉を
受け取る時の嬉しそうな表情を見るだけになっている

今年は静かな正月だ
昼から天皇杯サッカーを見て、点数以上の差がフロンターレとガンバの中にはあって
当たり前の結果だが強いほうが勝ったという感じ(1−0でフロンターレの勝ち)

テレビは年々見なくなっている
若い歌い手やタレントさんの名前も顔も覚えていない(覚えられない)
あいみょんは昔のフォークみたいだな、、とは思ったりするが
だからといって積極的に彼女を聴こうとは思わないでいる

新しいものへの容器は一杯になっているのかもしれないと不安になるが
その分今まで親しんだものには愛着が増してくる

今年最初に聴く音楽は明るい生命力に満ちたものが良いと思っていた
だがバッハでは少し真面目すぎる
ベートーヴェンと対峙するには気力が要る
そこで選んだのがモーツァルトのK136のディヴェルティメントニ長調だ
(ウィーン8重奏団演奏のレコード)
この曲は新年にふさわしく生き生きとしている
それはヴィヴァルディのような少し機械的なところもなく
本当によどみなく後から後から音楽が溢れてくる
この曲はモーツァルトが16歳の時の作品というから恐れ入る
若さゆえの勢いだけでなく途中で機知に富んだ箇所も見られる
深くは無いとしても身体的・精神的な快感は得られる

この曲の流れで次は同じくモーツァルトのK201の29番の交響曲イ長調
(クリストファー・ホグウッド指揮 エンシェント室内管弦楽団)
この曲の最初の楽章が好きだ
少し前の25番のト短調のような迫力はないが、ポール・マッカートニーの
鼻歌のように抵抗感なく聴いていられる
しかも真面目に聴くとイージーリスニングでは収まらないことがわかる
この曲の作曲の時、モーツァルトは18歳 
この男は無邪気な顔をしたモンスターだ

昨年生誕250年だったベートーヴェンは
人間が到達できる境地の高みで圧倒されることがあるし
バッハは職人の作曲技術の凄まじさに驚くことがある
でも、世の中に無いとつまらないというか
絶対欠けてほしくないのがモーツァルトの音楽だ
どの曲がというのではなく、モーツァルトの音楽という全体が
必要不可欠のような気がしている

ということで、今年最初に聴いたのはモーツァルト!
それで正解だったと思っている


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大晦日に聴いた曲

2020年12月31日 19時52分52秒 | 音楽

生の演奏会ほど集中はできないが、家で録音媒体を聴くのは都合の良いこともある
それは自分勝手に(聴く)プログラムを組むことができることだ
交響曲とかピアノ・ソナタのお気に入の楽章だけとか
歌があったり、ソロ演奏だったり、作曲された時代がバラバラだとか
そうしたものがその時の自分の気分で好き勝手に並べられる

昨日のうちに今日聴こうと決めていた音楽を聴いた
それ以外にも耳慣らしがあったので、今日のプログラムは
スメタナ作曲 「モルダウ」  フルトヴェングラー指揮 ウィーンフィル
ベートーヴェン作曲「弦楽四重奏曲7番」 第三楽章 ゲヴァントハウス弦楽四重奏団
ベートーヴェン作曲「ミサ・ソレムニス」アニュス・デイ クレンペラー指揮 ニューフィルハーモニー管弦楽団
ベートーヴェン作曲「ピアノソナタ32番」ピアノ バックハウス

モルダウとフルトヴェングラーの組み合わせは意外な感じもするが
冒頭のフルートの掛け合いから別世界に誘う
普通の演奏よりは遅い
だが遅くすればあのニュアンスが誰にでも生まれるかと言えばそうではない
何かが確かに違うのだ
音の意味合い、、フルート同士の対話、、聴手に語りかける音色
そしてこのあとあの有名な旋律が弦で奏された時、憧れが胸いっぱいに広がるこの感じ
これは彼の演奏でしか感じられない
聴く度に何が違うだろうと思ってしまう

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲7番は、ラズモフスキー一番とも呼ばれるが
第三楽章が考えるアダージョでとてもこころが落ち着く
アダージョの作曲家はブルックナーが有名だが、ベートーヴェンも負けていない
沈潜した思考は、ブルックナーの自然の中の音とは少し違う

ミサ・ソレムニスのアニュス・デイは、初めて聴いた時は涙が出て止まらなかった
人生の最後の最後においてベートーヴェンが「憐れみ給え」とか「平和を」と
心から訴える音楽は、移行部のヴァイオリンのフレーズのところでこらえきれなくなった
冒頭のバリトンの深い音楽に、徐々にソプラノ等のソロの歌手が加わって
それぞれが絡み合うさまは「美しい」としか言いようがない(自分にとっては)

最後のピアノ・ソナタはベートーヴェンの全作品の中でも好きなものの一つ
特に第2楽章の変奏曲は信じられない別世界の音楽だ
ハ長調で肩の力を抜いて奏される旋律はとても美しい
美しいと言っても感傷的とか聴きやすいというのではない
それは何度も検討され、無駄なところは削りとられた、純度の高い旋律だ
ただこの旋律を美しいと感じるには、聴く方の経験が(人生体験が)必要だ(と思う)
渋い音楽というのでもない、、ただ時間を経たものにしかわからない音楽のようだ
好きな曲だけにこの音楽のレコードやCDは何人かのピアニストのものを持っている
その中でバリバリと坦々と弾ききってしまうバックハウスが、全体をガチッと把握した上で
演奏されているようで、名人芸と言うよりも、その把握の仕方に参ってしまっている
バックハウスはピアニストのコンクールでバルトークを破って一等賞になった人物で
なるほど、バルトークなみの音楽家だといつも実感する


 

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年の終わりに聴く音楽

2020年12月31日 09時08分27秒 | 音楽

昨晩は、あれこれ言われながらも大掃除も済んで、炬燵に入ってのんびりモードとなりたかったのだが
相変わらず夜のテレビは面白くないものが全局オンパレード
そこで逃げ出して、(大掃除のおかげで)少しだけスッキリした部屋でレコードを聴くことにした

年も迫ってくると聴く音楽に神経質になる
年の始めに聴く音楽を慎重に選ぶのと同様に、大トリも縁起担ぎであれこれ考えてしまう
だが今年は何と言っても生誕250年のベートーヴェン
そこで、怖くて聴けないフルトヴェングラーの指揮する第九をメインに引っ張り出した
(怖くて聴けないのは、初めて聴いた時の感動や印象が薄れてしまわないかと思うため)

いきなり第九に行くのは聴く方のコンディションも整っていないので
コンサートのプログラムのように最初は協奏曲を聴くことにした

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲だ
フルトヴェングラーとメニーイン、ベルリン・フィルの組み合わせのこのレコード
よくわからないが好きだ
同じ曲の同じ指揮者、他の演奏家の組み合わせのレコードもあるがこの演奏が心地よい
曲自体がとても充実した作品のように聴こえてくる
(同様に感じるのにピアノ協奏曲5番の皇帝、フルトヴェングラーとフィッシャーの組み合わせがある)
第三楽章に2回ほど出てくる、転調して切ないフレーズところは昨晩寝床に入っても
頭の中で何度も繰り返された

いよいよ第九


もう少し録音状態の良いレコードもあったが、昨日は敢えてこの有名なジャケットのこれを選んだ
聴き終えた後は、やはり「すげー!」と声が出た
音楽を聴くという行為は、向こうからやってくる情報を味わうのではなくて
こちらも参加している行為のように思えてしまう
フルトヴェングラーの演奏は読書の時の感じに似ているのかもしれない
本を集中して読んでいる時は明らかにその世界を体験している
書き手の考えていること体験が、読み手自身の体験とまで感じられるような、、

怖くて聴けないこのレコードは、最初の印象が壊れてしまうのが怖いためだが
考えようによっては自分の変化も知ることができる
録音媒体として残っているものを時間が経って聴き直す
変わっているのは聴き手の時間経過だけだから、
聴いた時の感じ方の変化は自身の変化ということになる
(しかし、あの場面の音楽表現はこうだったという記憶は
 どうしても拭い去ることはできず、ついつい比較ということになってしまう)

何か巨大なものを感じるとか、大きな体験をした、、という印象が残る
そしてこれが生で聴けたなら、どれだけ貴重な体験になっただろう、、とも思える
音楽記号としてのフェルマータは音を伸ばす印だが、その伸ばす時間は人によって違う
このバイロイトの演奏はこのフェルマータがいつまでも続くのではないか
合唱の息が続くのだろうか、、と不安になるほどの永遠の時間のよう
そして静寂
ピアニッシモで聴こえるか聴こえないくらいの音量でトルコ風の音楽が始まる
この効果の壮絶なこと
それはフルトヴェングラー個人のアイデアであったとしても
そう演奏するのが必然のように思えてしまう

やっぱり「すげーな!」と今回も感じられたのにはホッとしたが
第九を味わう人間は自分らの世代から現役の若い人たちに移っている
彼らはこのような全体的にドカンと何かが残る演奏よりは、
もっとスッキリした合奏能力とか楽器の分離の良い演奏を好むかもしれない
(それはそれで楽しみかたの一つだが)

ということで、大事なこのレコードはまだまだ同じように感じたり
刺激を受けることができるのが確認できたのでホッとした

さて今日の大晦日
相変わらず見るべきテレビはなさそうなので、本当の大トリに聴く音楽は
これにしようと決めている
やはりベートヴェンのミサ・ソレムニスからのアニュス・デイ
(クレンペラー指揮、ニュー・フィルハーモニー管弦楽団)
そして最後のピアノソナタ32番
(いろいろ持っているが多分バックハウスの演奏)

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