パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

水戸黄門と暴れん坊将軍

2020年12月27日 08時21分27秒 | あれこれ考えること

日本を訪れた外国人が、日本的なものとして見たいと思うものの一つに大相撲があるが
それよりはむしろテレビで時代劇を見たら興味を覚えるだろうなと時々思っていた
ちょんまげのヘアスタイルなど、それだけで異国情緒満載だ

時代劇の定番といえば、松下幸之助が生きている間はずっと放送するように!
と言い残したとされる「水戸黄門」がある
勧善懲悪の毎回おなじみの物語が続くが
「この紋所が目に入らぬか」のセリフで、「へへーっ」と
座り込んで頭を下げるあの有名なシーンをみた外国人の中には
あの印籠からなにか光線のようなものが出ていていて
その光の特別な力でそうさせているのかと思う人がいたそうだ
(ウルトラマンのスペシウム光線のように?)

日本人ならそうは思わない
先の副将軍の立場の偉い人が急に現れたので、頭を下げることになったのだが
それは彼の「人としての偉さ」に対して頭を下げているのではない
逆らうようなことをすれば、何か罰のような(実力組織としての)力が
我が身に及ぶことを恐れているのだと思う
つまりは我が身を守るためにひれ伏すのだ
ただ、人は物語としては勧善懲悪のストーリーで気持ちもスッキリするので
実力組織をバックにもった人たちに無条件に従っていることには気づかない

偉い人イコール逆らったら怖い人
それだけで従っているかもしれない状況だが
これは現在にも当てはまりそうで少しばかり不安になる
つまり現在平穏に暮らしている穏やかな人たちは、上の人たちが人格的に偉いからではなくて
「偉い立場」にいるから偉いと思っているだけなのだ

有名な時代劇の定番シーンに暴れん坊将軍のそれがある
ドラマのクライマックスで「この顔を忘れたか?」
と吉宗が悪人たちに問いかける
悪人たちは記憶をたどり、不意にそしてその人物が自分たちの組織の一番上の存在と気づく
そこで悪人たちは「へへーっ!」と一旦は地面に額づく
ここまでは水戸黄門のそれとそっくりだが、この先が違う
悪人は開き直るのだ
「これは上様ではない、狼藉者だ、構わぬ、切り捨ててしまえ!」
組織の上の人間と知っていながら抵抗する、、
(最後は成敗の一言で一件落着する)

この2つの例「水戸黄門」と「暴れん坊将軍」
そのどちらのほうが、より人間的か?を考えると(事の善悪を除くと)
暴れん坊将軍の悪人のほうが人間的のように思えてしまう
人が権威に対して抵抗するのは(開き直りを含めて)普通のことのようにさえ思える

ところが問題は現在、権威に対しての抵抗(政権に対する批判等)は
ごく自然なことと思われるのに、それはなされているか?という点だ
それは充分なされてはいないのではないか
摩擦とか少しばかりの諍いを避けて、ひたすら偉い人(?)を
偉い立場というだけで奉ってしまう

このような日本人の従順さとか権威に弱いのは、アジア人に見られる傾向の一つらしい
権威に従っている理由をこうして(偏屈な視点から)想像するだけで
その権威に無条件に従っていて良いのだろうか?と疑問に思ってしまう

どう考えても、現政権は批判に値する(別の理解の仕方はあるとしても)
それが、世論とならないのは、、、不思議で仕方ない
無条件に従順でいいのか、、、
現在の一人ひとりが根本的に考えたなら、どんな答えが出てくるのだろうか




コメント
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