「世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」在原業平
(もしも世の中に桜がなかったら、いつ咲くか、いつ散るかなどと心配事はなくて
春を過ごす人のこころはのどかでしょうに)
桜ではないがこのように感じることがいくつかある
今回、意識的に距離をおいてみたのが新城市議会の12月定例会で
これなどは歌の桜と同じで、気になりだすと怒りを覚えることが多くて精神衛生上よろしくない
(だから距離をおいてみたし、それ以外の理由としては市議会に関心のない普通の人のように
細かな情報無しでいられたら、どのような気持ちでいられるのか実感したかったので)
だが気になることはやはり存在した
その一つが「山崎市議に三回目の辞職勧告可決」
これは新聞に掲載された
しかし、どれだけの新城市民が気づいただろうか
そして記事を読んだ人はなんと感じただろうか?
山崎市議は数年前、自分が実質的に中心となって行った活動交付金の事業において
支払い実態のない領収書を業者から受け取り、それを元に市から交付金の支払いを受けた
(だいぶ後に業者には支払った)
この事実から、彼は政治倫理審査会にかけられて、時間をかけて議論された後
議会から「辞職勧告」の議決を受けてしまった(1回目)
ただこの団体の事業報告書等を見ると、支払い実態のない領収書だけでなく
奇妙に思われるところはまだいくつか存在した
2回目は、市民に丁寧な説明等を行うべしとされた議会からの要請に対し
彼は1回か2回、地元で説明をしただけで他には何もしなかったので
それでは不十分で反省の様子が見られないとのことで再度辞職勧告が議決された
3回目の今回も2回目と同様で、具体的な行動が見られないので
議員の間では市議会の姿勢さえも疑われるようになっているので
仕方なく辞職勧告決議を提案したのだそうだ
そしてそれが可決した
ただこのあたりになると、少しばかり原則論から離れたところの力
(議員間の感情的な行き違いとか力関係とか)が働いて、少しばかり好ましくない
と思う人が出てきても不思議ではない
これなどは新聞記事になったからいいものの、記事にはならなかった重要な議決があった
結果的に恥ずかしい内容の議決だが、それは「議会運営委員会村田委員長の不信任案」だ
残念ながら、最近の新城市議会のゴタゴタの大きな原因の一つに「議会運営委員会」の進め方にある
(議会関係者ではなく素人が傍聴していても思う)
議会運営委員会は名前の如く、議会を円滑に運営するための段取等を決める組織だが
現在の国会でも見られるように国会の開催や参考人招致等の決め事はここで仕切っており
数の力で正論と思われることが通りにくくなっているのと同じで
新城市議会でも奇妙な運営がなされている
例えば、あまり好ましくないことだが議員提出のある議員に対する政治倫理審査会開催の要請に対し
議長はその段取りを議会運営委員会の諮問した
ところがその議会運営委員会は立場以上の判断を行い「政治倫理審査会」を開催する必要はない
との間接的な結論を出した
最近の例では年に一度開かれる事になっている議会報告会が
例年なら10箇所、5日間かけて行われるのだが、今年度は4箇所一日で行うとの案が
議会運営委員会と広報広聴委員会で提案されたのだ
表向きはコロナ禍での議会報告会は慎重に行うのが良いとの理由だが
行政は同様な報告会意見交換会は例年度通り10箇所で行うことになっている
市議会だけがたった1日、しかも人口の多い地区の会場ではなくどちらかと言えば
参加者も少ないと予想される地区での開催が提案されたのだ
だが、これをコロナ禍のせいとするには素直にとれない理由がある
というのは、仮に多くの会場で議会報告会が開催されたならば、会場で取り上げられ
問題となり荒れるかもしれない状態が予想されたからだ
それは裁判沙汰にもなった政務活動費の問題で、議会運営委員会のメンバーには
その裁判の当事者が多いのだ(議会運営委員会の村田委員長も当事者)
結局のところ制度としての組織は、真っ当に機能しているか!
が問題になるのだが、決定に至る手段としては多数決があり
その多数決の権利を持っている個人個人にその資格が真の存在するか
と考えると、外から見てるだけでもストレスが貯まる状況になる
そこで精神状態が芳しく無くなるから、あえて今回はタッチしないようにしたのだが
市議会に関心のない方々はこのようなストレスは(何も知らないので)感じないと思われる
それで良いのか良くないかはさておき
国会も市議会も、知ってる人と知らない人の差は大きい
見ている人が必ずしも自分と同じように感じるとは思わないが
少なくとも見てるのと見ていないのでは大きな違いは存在すると思う
いろんな考えを持つ人の集まりとしての組織は、
自発的に良くなるべく行動をしうるものだろうか?
最近の国会や市議会を見ていると考え込んでしまう
でも面倒くさても、偏見によるものだとしても気づいた人の定期的なチェックは
やはり必要かな、、と思ったりする
(あと何らかの方法での広報も)