パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

大事なのは実態!

2020年12月18日 08時58分43秒 | あれこれ考えること

いつものことながら本質と関係ないことで気になったこと

先日の中日新聞の朝刊に夫婦別姓に関する記事が掲載されていて
最高裁判所の判決文が紹介されていた
「夫の氏を称することが妻の意思に基づくものだとしても、
 意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用している」

真っ先に感じたのは
一見手順に沿った手続きとかそれに基づく結果が導かれていたとしても
実態はその過程自体が形式に過ぎないという例が頻繁に存在するのではないかという点

人はどんな屁理屈をも考えつく
屁理屈は単なる可能性としては存在する
しかし、ここからが肝心だが常識を照らしたチェックを行えば、それは単に可能性に過ぎず
いちいち取り上げて真面目に考える必要なことはないと思われる

可能性としては存在するが、現実社会ではありえない状況を取り上げて
そのことを過度に議論をすることは議論自体があらぬ方向に進んでしまう可能性がある
そこで、その議論を仕切る人が「その考えは現実的ではない(現実にはありえない)」
の一言でそれ以上の可能性としての考えを考慮することを避けてしまえば議論は進んでいく

制度と実態
いろんな制度があるとしても、現実という視点、その背景の解釈をシビアに反映していないものは
単なる空論に終わってしまうのでないか
(つまり法解釈優先ではなく、生活する人としての実態を考えたものでないと
   真に有用なものでは無いのではないか)

市議会議員や国会議員のいろんな言い訳は、可能性としてそれらはありうるが
「そんなのは常識的に言い訳にならない」
の一言で済まされるのが多いような気がしてしまう
それはドラマ半沢直樹の最後の回で
「そんなのは国会議員の間で通用するかもしれないが世間じゃ通用しない」
のセリフに通じる

話は飛んで、最近気になるのはメディアの報道のこと
公平平等とか両論併記の報道というのは、ある意味、常識的な判断という知恵を最初から放棄した
責任逃れの姿勢のように思えてしまう
「そんなのは扱う価値なし」と判断してしまえば良いものを
ダラダラとさも公平中立のように伝える
それは良いことなんだろうか?

コメント
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