ステレオタイプ的に「若者は純粋で正義感がある」
とするのは幻想かもしれないと悲観的に思えてしまうこの頃
昔のことを言い出すと嫌われるが、自分らの若い時は
思い込みの激しい青い正義感に燃えた連中が世の中を変えようとした
その方法や根本的なところは問題が無かったとは言えないにしても熱量は確かにあった
そしてそれは三島由紀夫の「諸君の熱情は信じる」との言葉につながる
ところが今はどうなんだろう
若者は自由とか平等を学んできたはずなのに、それが脅かされつつあるなかでも
まるで無反応に、まるで自分とはかけ離れた世界の出来事のように眺めているだけだ
巷にあふれる弱者、それは将来の自分かもしれないと想像することもできないかのようだ
今の若者を見てると、透明なアクリル板で仕切られた魚のエピソード(実験)を思い出す
水槽に小魚を餌とする大きな魚と小魚を入れておく
ただしそこは透明のアクリル板で仕切られている
最初のうちは大きな魚は小魚を食べようとする
しかしアクリル板があるのでいつまで経っても小魚を食べることができない
そんなことを続けていたが、大きな魚が小魚に接近できないことを学習したと思われた時
透明のアクリル板を取り払ってみる
すると大きな魚は今度は餌として食べられるのに、今までのように食べられない、、
と判断して(?)食べようとしないのだそうだ
いつの間にか飼いならされてしまっていて、それに気づかないだけでなく
それに対して反抗さえしようとしない状況は
ハンナ・アーレントは「全体主義の起源」(3)で、数では優るユダヤ人が
収容所を管理するドイツ人に反抗しなかった例をあげている
それは基本的な人間性さえ破壊されているとしている
収容所は劇的に明らかに人間性を破壊している
しかし、今の世なかは、そうした人間性の破壊は知らず知らず行われている
肝心なのは誰かが気づくこと
それも時間がたっぷりあって、間違いを犯してもやり直したり、それを経験として
知恵とする事のできる若い人が、、
教育の影響も大きいだろう
でも、困ったときとかピンチのときには誰かが出てくる(と思いたい)
正義のヒーローみたいに
一番の不安は、こうした活力・生命力が、そもそも若者から欠けつつあるのではないか
と思われること
今の若者は未来のたちに
「あの時、あなた達は何をした!」
と批判的に追求されないことを祈るしか無い
ところで、いま自分たち(おっさん、おばさん)は何をすべきか?