何故すっかり忘れてしまっていたのだろう
そのもの自体は強烈に覚えているのに
それをどこで見たのかはすっかり忘れていた
蓄音機のスピーカーのような形(法螺貝のような形)をした補聴器
そこにはそれがいくつも並んでいて
彼の音を聴こうとするすさまじい執念みたいなものが感じられた
彼とは、今年生誕250年を迎えたベートーヴェンだ
先日NHKの特番で尾高忠明氏がボンのベートーヴェンの生まれた家に
訪れた映像を見て急に思い出した
ボンのあの家で見たのだった
1976年、大して見るもののない小都市ボンを訪れたのは
ベートーヴェンの生まれた家を見るためだった
そして、そこで見たこれらの補聴器は、耳が聞こえなくなったベートーヴェンの無念さと
なんとしても音を聞こうとする執念が感じられて、悲しい思いをしたのだった
でもすっかり忘れていた
忘れちゃいけないことを忘れていた
あの年、ウィーンの中央墓地でベートーヴェンのお墓の前に立った時は
理由もなく熱いものが頬を伝わったのに、、
記憶は何故か覚えておくべきかたちで覚えていない
まるで夢のように勝手な印象としてのみ残る
そして心のなかに潜んだそれが、ある時ふっと蘇ってくる
思い出してはいけないこと、無理して思い出さなかったこと
そうした記憶もある
でもそれそろそれらを開放してあげても良いのかもしれない
記憶
年配者には振り返る時間が許されているとしたのはヘッセだった
振り返ると(記憶は美化されるので)人は優しい気持ちになれるかもしれない
昔子どもだった大人は、子ども時代を思い出すのはきっと悪くない
(特に政治家は)