パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

大相撲を生で見たことのある人は

2021年10月21日 10時18分24秒 | 徒然なるままに

大相撲を生で見たことのある人は、みんな同じ印象をもつようだ
テレビではやたらと長く感じる仕切りが
生の現場ではあっけないくらい進んでいくものだと

野球でも似たようなことがあって
テレビでは牽制球などのために鬱陶しく感じる時間が
生で見るとスイスイと進められていくように感じたりする

サッカーではコーナーキックは生の場で得点の匂いをすごく感じるが
テレビではあまり入りそうな気がしない

同じ場面でも生と画像を通しては随分印象が違うということだ

話は飛ぶが、動物園に行って久しぶりにキリンを見た時
「キリンの首は長い!」と当たり前の事実に改めてびっくりしたことがあった
また久しく海を見ていなかった時は「海は水でいっぱいだ」と思ったりした

自分は行ったことはないがピラミッドを見た人は
「でかい!」と改めて実感するらしい

実際にその場を体験するということは、無意識に体全体で何かを感じて取れているのかもしれない

最近、人はあまりにもバーチャルな経験で、全てわかった気になっているのではないか!
と思うことが多い
実体験とか実際にそこに行って見るということは
「百聞は一見に如かず」の諺の通りで、想像以上の情報を得られると思う

ということで、生の体験は大事ということ
何かに驚くという感覚がまだ自分に残っているうちに
行きたいところ、読みたい本、聞きたい音楽は、、
幸いなことにまだある










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選挙で顔を売る方法

2021年10月20日 16時41分50秒 | あれこれ考えること

「公示と告示」似たような言葉だが何が違うか?
これを今朝のテレビ番組で解説していた
公示は天皇の関わる行事で現実的には衆議院・参議院選挙の時に使われ
告示はそれ以外の選挙で使われる言葉らしい

「押印と捺印」これもなんとなく使っているが
押印は自署でなされた上にハンコを押す時に使われ
自署以外の署名に押すハンコが捺印ということらしい

似たような紛らわしいものに「告訴と告発」がある
これらは改めて聞いてみれば納得できるが、何と面倒くさいことを、、
ついつい思ってしまう

さて衆議院選挙が公示され、選挙モードになっている
投票はまだインターネットではできないが、インターネットでは
知名度アップに躍起になっている人々がいる

最近、自分が閲覧するウェブページにやたらと自分の選挙区の人物の顔が出て来たことがあった
それは特定のページではなく、自分の見るものいろいろに現れてくる
技術的にはこれは可能な方法で、IPアドレスなどから地域が限定できて
無駄のない広告ができる
そう言えば、前の参議院選挙でも、やはり地元の候補者の顔が異様に現れてきたのだった

インターネットは無駄がない広告かもしれないが、
一体どのくらいお金を投じているか少し気になった
インターネットを利用するという若い感覚があるかどうかではなく
そのお金を調達できるか否かで、この差はできてしまうそうな気がする
こうしたお金が一番ありそうなのは、、、、政党交付金を一番もらっているところ
新聞広告は回数制限があるが、こうしたネット広告はお金があるもの勝ちになってはいないだろうか
そこには多少の制限が必要な気もする
おまけに、例の党は、ネガティブキャンペーンに通じるDappi騒動では
党の関係者が絡んでいそうとの噂もある

あまりにも無駄のない効果的なネットでの顔の売り込み
それは一歩間違うと、デマも広報のうちとか、デマも表現の自由、、とも言いそうだ
(それはやったもん勝ちとなってしまいそう)

ただ現実のところ、立候補者の人柄は良く知らないし
政策はそれぞれ良いことを言うからどちらが良いか判断ができない、、
という人が少なくないのではないか
ならば、すこし考え方を変えて個人の選択ではなく、
制度として政治が緊張感をもって機能するためには、
どういう人を選んだほうが現実的かと考えるもの悪くないかもしれない
つまり、なんとなく無意識に感じている与野党が伯仲したほうが良いとする選択もありうる

しかし、それにしても一時期、彼の顔は良く出てきたな、、
(それでも、直近は見ないから何か法的な決まりがあるのだろうか)



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予告編と007

2021年10月19日 09時28分23秒 | 徒然なるままに

一昨日の日曜日、久しぶりに映画に出かけた
巣ごもり生活を続けていて、滅多に遠出しないが
やっとのこと豊橋まで足を伸ばした
途中で無人販売で柿を購入、5個入りで200円
これを知ったらまともには買えない

映画は「007」か「燃えよ剣」か迷ったが
気分的にお気楽な前者にした
土方歳三については司馬遼太郎の描く人物像より
史実から想像される人物像のほうが個人的には好みで
バラガキとか最後の武士的な一本調子のイメージより
もう少し違ったところに価値観を見出した人物のような気がしている
ということで、「燃えよ剣」は絶対に見に行くが
心のコンディションを整えてからにする

映画が始める前には予告編がある
これが自分にとっては案外苦痛だ
でも我慢するしかない
だが予告編を見て、なんでこんなに破壊的なシーンばかりが多いのだろう
と頭に浮かんだ
善と悪、その対立でヒーロー・ヒロインが立ち上がって世界のために戦う
そういったシチュエーションが多いようだが、物語の上とは言え
その悪を創造する知恵は、どこか人の中に潜む良からぬ者の存在を感じてしまう

この暴力的な、ただし映画的には見ごたえのあるとされそうなシーンは
007でもふんだんに展開された
確かに長い時間を飽きさせずに見させる技術や展開はすごい
でも途中から慣れてしまうと、またか、、とか少しばかり食傷気味になる

エンタメ作品は、ケチを付けるより無条件に楽しんだほうが得なのはわかるが、
年齢を重ねるとそうばかりは言っていられない
途中で出てきた辻褄の合わない話の展開は、それがクリアされていないから
いつまで経ってもモヤモヤが残ったままで不漫が残る

今回がこの手の作品を観る最後かな、、、
不意にそう思った
スパイ映画はこうした派手なエンタメよりは、フリーマントルの
チャーリー・マフィンを主人公とした湿度の高い内面的なもののほうが
面白そうに感じてしまう
恐怖は暴力的な力より、静かに潜入するなにかのほうが怖い
だが現代は、派手な映画的効果のほうが優先されて、じわじわ迫るタイプのものは
まどろっこしいと思われるかもしれない

以前も007の映画を始めとするアクション映画で
敵側の人間が無条件に撃たれていくのを見て、彼らにも家族があるのに
心の痛みも感じずに話が進められていくことに抵抗感を覚えたことがあったが
(そう思うことは楽しむためには邪魔になる)
今回も、「その他多数」で処理されてしまう悪人たちのことが気になった

敵側にも家族がある
彼らは仕事としてその職についただけで、当事者にとって邪魔者とされる存在とされ
迷惑(とばっちり)を被ったのが、忠臣蔵の吉良上野介を守った人たちや上杉家の武士

忠臣蔵は個人的には好きな話ではないが、少しだけ例外的な部分があって
それは大石内蔵助が討ち入りで目的を果たした時に、上野介を守るために
傷を負った家来や上杉の助っ人に、見舞いのお金を支払ったという話だ
この人は大きな出来事をなしうる、人間的にできた人だったと感じざるを得ない
(他にも瑤泉院からもらったお金についてその使用明細を残していたものすごい)

映画の予告編も内容も、無意識に時代を反映しているかもない
対立が明確化され、それを結局は力でねじ伏せる形でクリアしていく
そういう形があまりにも多いのは、、、その影響力を想像すると少し心配





 

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新たに購入した3冊

2021年10月18日 09時35分00秒 | 

昔「本屋さんに行くとトイレ(大の方)に行きたくなる!」と、妹が言った
どうやらこれは妹に限ったことではなく、同じような経験をしている人が多いようで
なぜそうなるのか?を真面目に検証していたテレビ番組があったような記憶がある
例のごとく、肝心なところは覚えていない
本の匂いだったか、何らかの条件反射だったか、、、何だったかな

昨日、久しぶりにまずまずの規模の書店にでかけた
本の購入はいつもは手軽なアマゾンで済ませているが、やはりリアルな店舗は良い
ネットではアルゴリズムで無駄のないおすすめを提供してくれるのは良いが
書店では思いがけない発見もある

書店では、結構長い時間時間つぶしができる
特にベストでラーではなく、てへんてこな分野の自分好みのコーナーは
その一つ一つが、どんな内容なのだろうと想像を働かすことになって
思いの外時間が経ってしまっていることは珍しくない
女性のウインドウショッピングの感覚に近いのかもしれない

昨日は安息の場、書店に長居はしなかった
後に控えている映画の時間のため、短い時間でちゃちゃっと済ませた
車の中で探すべき本を決めていた
図書館にはなかった「Yの悲劇」(エラリー・クイーン)がそれで
急に読み直したくなった
忘れているから今読んでも楽しめると思う

その棚の近くで、有名な「1984」(ジョージ・オーウェル)が目に入った
前々から名前だけは知っているこの本、急に「読むなら今でしょ」とお買い上げ

時間に追われながらフラフラしてると、次に目に入ったのは
「フランス革命についての省察」(エドマンド・バーク)
保守の代表的な人物で、お隣の国で起きたフランス革命を
全肯定的には捉えておらず、その当時の雰囲気を臨場感のある
レポートのような内容らしい

ということでお買い上げは


しかし、買ったは良いが、ちょっと困ったことになった
それは図書館から借りてきた本が読みかけなことだ
歴史本の「摂政と関白」(天皇の歴史)と「蜩ノ記」(葉室麟)が
片方は読みかけ、もう片方は読み始めてもいない

自分は同時進行で複数の本を読めるタイプではなく
一冊終えたら次に移る(そうでないと悔しくて)
「摂政と関白」は人名が多く出すぎて、今の自分の頭では消化できないので
スラスラとは読み進められない
読み終えられないのは悔しい、、だが購入したものは早く読みたい

やはり、自分のお金を出して手に入れたほうが読む必然性は高いので
図書館から借りた本は屈辱的だが途中で諦め、、となりそうな雰囲気

ということで、読書の秋の準備はできた、、というところ

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買収価格が高すぎる他の地区の事件

2021年10月16日 10時11分44秒 | 養鶏所騒動

世の中には似たような事件・出来事が起こる
それはあまりにも多いので、偶然の出来事というよりは
人が介在するために起きてしまうある種の必然性のようにも思えてくる

先日、ある人からの情報提供があった(NHKのニュース)
それは「奈良市の新しい火葬場用地の買収価格が高すぎる」
と市民が訴えた裁判が、訴えた側の主張が認められ
市長と地権者に高すぎた分を弁済するようにとする判決が
事実上決定したというものだ

少しでも市政に関心のある新城市民なら、このニュースで連想するのは
新城市が旧養鶏場跡地を、通常想定される価格の8倍で購入したのは
新城市に損害を与えているのではないか、、
として市民から行政訴訟が起きていることだ

奈良市の場合は鑑定評価額の3倍の価格で購入しているが
実態は産業廃棄物の撤去も必要で評価額を下回る価値しかないと
市民は訴えている

新城市ではそもそもの不動産鑑定評価する際の参考とする地区が
新城市が1箇所、豊川市が3箇所で、違和感を感じさせるものであり
この物件の購入に関しては価格はもちろんのこと、やり方(買収の財源)
決定プロセス(異様に急いでいる)などの奇妙と思われることが幾つもあった

奈良市の市民代表の声として
「今回の奈良市の用地買収は2重にも3重にもちょっとおかしい
 やり方もプロセスもおかしいし、価格決定もおかしい、、、」
と述べている

気になるのは、両市とも本来の価格より高い価格で購入している事実より
やり方・プロセスがおかしいと感じている点だ
一見段取りを正当に踏んでいるように思えても
よくよくチェックしてみると、例外が異様に多いというのが新城市の実態だ

そんなに高い金額で購入して、誰が得しているのか?
誰しもが想像たくましく思い浮かべることだが
行政訴訟はシステムとしてその点には踏み込まないらしい
(それは別の機関の仕事らしい)

それししても、何か良からぬことをする時は、いつでもどこでも同じように進めていくようだ
その意味では歴史上の出来事、他市の出来事を知っておくことは必要な事かもしれない
(それを知っているべきなのは誰か、、、という問題になるが)


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立候補予定者と同様に結果が気になる人たち

2021年10月15日 09時20分31秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

今月末に行われる新城市の市長選絡みの話

現時点(10月15日8時半)における
新城市長選挙立候補者 公開政策討論会のYoutubeの再生回数は
10月2日 1375回
10月7日 663回
10月14日 247回 となっている
最初の回が多いのは、2日ほど後に中日新聞で報道されたからと思われる

ちなみにリアルタイムの視聴者の最大数は
10月2日 63人
10月7日 46人
10月14日 39人
回を追うごとに減っている
ただ関心を持ち続けている人が、最低でも30人以上いるということは
多いのか少ないのか、、どちらなんだろう

この討論会はケーブルテレビでも放送されているので実数は
もう少し多いと思われるが、それでも圧倒的に多いのは見聞きしない人たちだ
政策討論会が抽象的な話に終始し、わかりにくいことがあるとしても
なんとかわかろうとしてほしい!と個人的には思う

回数を重ねるうちに減っているのは一回見れば「わかったつもり」
になれたからかもしれない
だが本当に面白い(?)のは3回通して見続けることだ
なぜなら討論会に慣れてきた候補者の性格が垣間見えるからだ
(慣れによる油断で)
例えば、討論会は発言時間が制限されているが
その時間を過ぎても話し続ける人
なんとか収めようとする人
などは、規則を守る意識がありやなしやが見て取れる
実際のところ、時間オーバーの人は片方に多かった
(これ以外にも人柄を想像させる仕掛けがあった)

一回目の討論会を見た人が
片方は机に資料をたっぷりと準備していたが
もうひとりはそれほどではなかった、、と感想を漏らした
これなども内容以前に比較対象できる

不意にこの選挙の結果を、当人と同様に気にしている人たちのことを考えた
それは市の職員たちだ
親ガチャではないが、彼らは市長が誰になるかで自分たちの運命は変わるかもしれない
現実は行政の継続があるので大幅な変化はないかもしれないが
それでも徐々に〇〇カラーというのは出てくるもので、職員はどちらが合うタイプの人
合わないタイプかは気になるところだろう

地域活性化に必要な人物として「余所者、若者、馬鹿者」が挙げられる事が多い
この三者は突破力が強い
しかし、それだけにあくが強く使いづらい人物像が想像できる
(以前新城市に講演にきたスーパー公務員はそういうタイプだった)

こういう少し偏屈(と思われる)真面目な人物を
懐深く受け入れることができそうなのはどちらの候補なのだろう
と考えてみるのも面白いかもしれない

個人的な感想としては、一方は現状分析からの対処療法的な政策が多く
もう片方は現状分析からある仮定を設定し、それに意思をもって取り組みたい
としているようだ
だれも先のことはわからないが、どうせなら自分たちが切り開く未来のほうが
面白そうな気がする

それにしても、微妙な立場にいる職員は気になるだろうな
(彼らは議員時代の両人を知っているので本音を聞いてみたい)

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千羽鶴

2021年10月14日 09時58分32秒 | 

あの時の自分では、わかるはずないな!
と感じたのが図書館から借りてきて再読した川端康成の「千羽鶴」
最初に読んだのは高校時代か大学の時か、覚えていない

覚えていることといえば物語に出てきた「志野」という焼き物のことだけ
何かとても魅力的な焼きもらしいと頭に刻まれたが
題名の「千羽鶴」はどこから来ているか、さっぱり記憶になかった

それが女性の持参した風呂敷の柄だったことに驚くが
それ以上に驚いたのは、こんな話だったのかということ

およそ子どもではわからない変な物語で
浮気症の男の息子が、父の浮気相手の婦人とその娘、
それにもうひとりの胸に痣のある女性との微妙な関係を
今では何となく分かる微妙な雰囲気を醸し出している
(物語の印象は福永武彦の「海市」に似ているような気もする)

今ではわかるというのは、人の弱さ、醜さ、惰性に流されそうなところ
そして異性に振り回されてしまう可能性を実感として体験しているからだ
単なるフィクションではなく、思いの外リアリティがありそう今は思えたが
主人公の男の感じ方、生き方は不意に夏目漱石の「それから」の代助を連想した

久しぶりに読んでみると、俯瞰的に捉えて話を進めている作者の視点とか
文に隠れた性格のようなものを感じられた気がしたが、正直なところ
少しばかり作為的な、あるいは意地悪のようなところがあって、
川端康成はあまり相性が良い方ではないと思えた
(太宰治の文章に感じる意地悪さを思い出した)

借りた本の一緒に収められた「伊豆の踊り子」もこんな内容だったのかと驚いた
それは青春の一瞬の物語、エピソードというよりは、生身の男の
少しばかり作為的な行動の物語で、風景描写の素晴らしさは納得できても
心情は少し距離感を覚えてしまった

だが川端康成はノーベル賞をもらっている
そしてそれは、この少しばかり作為的な、もしかしたら意地悪っぽいところが見える
なにかのせいではないかとも思ったりする
毎年ノーベル賞候補の村上春樹も、決して相性のいい方ではないが
彼の作品はどちらかといえば、エンタメ的な要素が大きく
川端康成と比較すると毒がない(と思う)

ノーベル賞をもらう人物は、どこか重荷を背負っている人のような印象を持つ
ノーベル賞作家のオルハン・パムクの「雪」は最後の出来事のせいで再読したいとは思わないが
中身がギュッと詰まった重い作品なのは十分過ぎるほどわかる

話はそれたが、本は読むタイミングで随分感じ方が違ってくるということ
それにしても、「千羽鶴」があんな内容の本だったとは、、

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宿題は頭に浮かんだ絵を描くこと

2021年10月13日 10時49分54秒 | 子どもたちのこと

水曜日の朝は、ブラジルにいる子たちとの勉強タイム
(そんなに必死なものではないが)
これで約半年、よく続いているものと思う

先日、次回までにやっておくようにと!お姉ちゃんに宿題を出しておいた
彼女はFBのメッセージで聞いてきた
「宿題は矛盾という言葉をつかって文章を作ることでしたか?
 それとも絵を描くことでしたか?」
中学一年の国語の教科書に、矛盾という言葉の成り立ちと意味が紹介されていて
その勉強をしたので、それを使って文章を作るように!と言った記憶がある

でも彼女は絵がとてもうまいので、自発的にできる絵の方で良いよ
と答えておいたら、今朝、メッセージから画像が送られてきた

今どきの女の子らしいイラストが描かれていた(破れたジーンズを穿いていた)
課題としては何かを真似て描くのではなく、自分の頭に浮かんだものを描くようにしてもらったので
よくあるアニメっぽい雰囲気ではなく、オリジナルっぽい
「描くのにどんだけかかった?」
「一時間くらい」
「すごいな、勉強の一時間はしんどくても、これを描いてるときの一時間はすぐに過ぎてしまうね」
画面の向こうでうなずく
「この女の子の名前は?歳は?兄弟は?好きなものは?」
彼女の頭に浮かんだキャラクターの背景を聞いてみた
そこまでは考えていないので、「ええっと、、」と困った様子

そこで次の宿題は、この子の物語とか生活を作ってみて、、それを日本語で教えて
と伝えてみた
(日本語で考えて、何かを伝えるというのは、聞かれたことに答えるより難しい)
こういう宿題は、やらなくてはならない、、という気分のものではないので
楽しんでやっていけると思う
彼女には「芸は身を助ける」という言葉を、この機会に伝えた

弟くんは、日本語が身につかないうちに日本から離れてしまったし
今は日本語と接する時間がないので、日本語を忘れている
でも、話し始めて少しすると日本語の記憶は少し呼び戻されて
なんとか会話ができそうになる(彼は必死に日本語で伝えようとする)

今、自分が救われるのは、彼らがこの時間をイヤイヤやっていないことだ
終わる時はいつも楽しそうに屈託なくあいさつをしてくれる

人と人の繋がりは、本当に偶然だと思う
願わくば彼らにとって自分との繋がりが有意義なものであると良いのだが






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若い時に、もっとやっておけばよかったもの

2021年10月12日 16時49分05秒 | 徒然なるままに

若い時に、もっとやっておけばよかった!と思うのが登山だ
秋の涸沢の紅葉を新聞記事で見ると、心はまるで羽ばたくように
その場所に移動する
だが、その場所から錦繍を楽しんでいるのではない
心はむしろ、そこに行くまでの道のりを楽しんでいる
眼鏡から、帽子から汗が滴り落ちて、呼吸がハアハアとずっと続く
何故か頭の中は小屋についたらビールを飲むぞ!
とそんなことばかり考えている
そんな余裕のない長い時間が懐かしいと感じている
今も覚えているのがダケカンバ、、と何度も言いながら登っていた時のことだ
この少しつらいような時間は、余裕がない分、自分自身と向かい合える気がしている
(遅くなって登山を始めた自分は、慣れた山屋のように余裕をもって登ることはできなかった)
自分と向かい合う時間は、今思うと好きな時間だった
そしてそれはもしかしたら頂上での景色とか達成感よりも好きだったように思う

紅葉を見に行っても、その中を歩いていると意外にそのすごい風景は実感しない
上から見て初めて歩いてきた場所が、素晴らしいものだったと気づく

今は残念ながらYoutubeで見るしかできない
穂高、槍ヶ岳、蝶ヶ岳、常念岳、燕岳、白馬岳、爺ヶ岳、
夏と秋の一時期しか行けなかった山、
Youtubeを見るたびにもっと行っておけばよかったと思う

その気になれば今でも山にトライできるかといえば
今の腰の状態からするとそれは夢物語だ

少し苦労をして歩いた先には、自分の足で来た人にしかわからない純粋な世界がある
間違いなくその世界はあるのだが、そこには行けない、、ということが
とても残念に思えて仕方ない

やれる時にやっておかないと、あとでは追いつかないことはあるものだ
登山の他にもいろいろありそうだが、
それはあえて思い出さないようにするのも、今を生きるコツかも知れない


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「言ってることではなくて、やってることがその人の正体」

2021年10月11日 15時55分28秒 | 徒然なるままに

お寺さんには、人生訓的な文言が書かれていることがある
あるSNSで、こんな文言が書かれた写真がアップされた

「言ってることではなくて、やってることがその人の正体」
なるほど、まさにその通り

この投稿者は岸田さんを想定して皮肉を込めたようだが
今月末に選挙を間近に迎える地元の市議会議員立候補者にも当てはまる

今回は地元の市長選も市議会議員選も無投票にならずに済むらしいが
現職が数人いる市議会議員の立候補予定者の中には
「彼らが何をしたか」をじっくり教えたい人物がいる

何をしたかは、何をしなかったか、、と同意語だ
しなかった方では、彼は一般質問を4年のうちに4回しか行わなかった
(16回あるうちで)
した方では、政務活動費の返却につながる疑念を持たせる行為や
結局は表に出ずに済んだが、パワハラ的な行為(女性議員に対する)で
褒められたものではない

彼は選挙目前なので広報誌を折り込んでいるが、
その内容は議員としての活動報告ではなくて、単なる行政報告のようだ
(そこに不安を感じない感覚が恐ろしい)

この人物の他にも、常識的には考えられない人物が再度立候補をしそう
と予想されている
彼の起こした不祥事も、選挙が済めば(当選してしまえば)禊は済んだ、、
と平然と言い切ってしまいそうなタイプだ

以前、市長リコール騒動の時「新城市はピンチなのですか?」
と聞いたテレビタレントさんがいたが
今もピンチは続いているかもしれない

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