熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

プラトン (著), 山本 巍 (翻訳)「饗宴: 訳と詳解」

2024年10月31日 | 書評(ブックレビュー)・読書
ソクラテスを中心に七人がエロスへの賛美を競った物語――この作品だけが、特定個人との対話でないのはなぜか。過去の語りが二重化されているのはどうしてか。そこに書かれなかった未知を読み解く。ギリシア語のテクストに徹底的に分け入り、正確な訳と詳細な註で、古典の新たな魅力を甦らせる一冊。 

   以上の能書きの山本 巍東大教授のこの本、
   翻訳は比較的易しくて親しめるのだが、倍以上もボリュームのある「詳解」が難しい。
   大判の418ページで、価格も7150円であるから、いわば、学術書である。
   いつもの読書癖で解説を読みたいと思って探したのだが、出てきたのは、この本と朴 一功 教授の「饗宴,パイドン」の京大版。
   先に読んだ納富教授の「プラトン哲学の旅 エロースとは何か」で、「詳細を検討しながら読みたい方には、この山本本が最良の導き手となる」とのことなので、まず、読んでみたのである。
   プラトンは勿論ギリシャ哲学にも疎いながら、なぜ、記録などを何も残さなかったソクラテスの哲学を、プラトンは、現存する著作の大半をソクラテスを主要な語り手とする対話篇という形式で残したのか不思議に思っていた。しかし、この「饗宴」は、プラトンの著作であり、プラトンの哲学だと気づいたのである。

   さて、山本教授の高邁な詳解の理解には、何回も熟読する必要があるのだが、これまで、どんなに素晴らしい本でも読み返した経験が殆どないので無理であり、興味を感じたアリストパネスの人間の起源について後半のディオティマ説を踏まえて触れてみたい。

   原始人間が二つに分断されて、片割れとの結合を希って分裂から合一なった男女が「永遠の陶酔」の内で無為に死んでいくことを哀れんだゼウスは、人間が大地に生むために背中にあった生殖器を前に移し、互いの中に、つまり男によって女の中に生むようにさせた。生殖を男女の関係に置き、存在論的性とは違う、生殖に直結する性が初めて登場した。
   人間の性を、生と死、死と創出が取り囲んでいる。個体としての自分は死んで、新しい生命の未来を生み出すという活動に振り向けられた。死すべき人間が、自己の中に自己を超える未来を胎蔵して妊娠し不死性を獲得する。死すべきものが永遠不滅性に参与する。のである。
   

   「饗宴」は、エロースの哲学であるから、エロースの道を正しく進む必要がある。この世の美しいものから始めて、更なる美を目標に昇ることで、階段のようにして、一つの肉体から二つの肉体へ(兄弟的類似性)、二つの肉体からすべての美しい肉体へ(一義性)、と進み、
   そして、美しい肉体から美しい振る舞いへ(こころの美)、さらに、美しい振る舞いから美しい学習へ(知識の美)へ進んで行く。
   最後に、その学習から〈あの美〉そのものの学習にほかならないかの学習に到達する。終極において、〈美しい〉それ自体を知る。ことになるという。

   哲学の世界と言うか、良く分からないが、納富教授の説明を再説すると、
   美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考える。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさ、精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
    次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行き、このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うのである。

   面白いと思ったのは、死生観の違いで、古代ギリシャでは、死すべき人間が愛の交歓によって不死性を得るという考え方で、中国など不老不死を願って皇帝たちが神仙術に明け暮れていたし、ファラオが永遠の生命を願ってピラミッドを作るなど、そのバリエーションが面白い。
   エロースへの希求はともかく、我々凡人は、いつかは死ぬ運命であるから、出来るだけ美しくて素晴らしいベターハーフを見つけて、善き子孫を残せと言うことであろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総選挙の投票に行ったのだが

2024年10月29日 | 政治・経済・社会
   総選挙の投票に、夕方遅く行った。近くの小学校なので楽である。
   海外生活の14年間を除いて、大学生の頃からであるから、ほぼ、60年間、投票に出かけたことになる。

   今回の選挙は、予想通り、自公が半数割れに終わった。
   政権の不安定は否めないが、日本の政治には必須だと思うカウンターベイリング・パワーが機能することとなったので、喜んでいる。
   野党が結束すれば、今後は、自公の法案も葬り去ることができるし、内閣不信任決議案を可決すれば、内閣は、10日以内に衆議院を解散するか、総辞職しなければならなくなり、チェック機能が働く。
   
   今回の選挙結果については、いろいろ言われてはいるが、止めを刺したのは、終盤に飛び出た2000万円問題で、あれだけ裏金問題で窮地に立ったにも拘らず、全く反省の色無き国民を無礼(なめ)切った所業で、自民党の悪政ここに極まれりであった。
   安定政権に胡坐をかいた自民党政治の独善独断横暴は、極に達しており、国民の反発は必然であった。
   私自身は、自民党の失政の最たるものは、日本の成長発展にブレーキを掛けた失われた30年を惹起した致命的な政治だと思っている。

   さて、日本の政治だが、野党第一党の立憲民主党が、かなりリベラルかつ穏健な民主勢力であり、維新や国民民主党など強力な野党ももっと保守的で自民党に近く、共産党を除いて、極端な反自公民政治を推し進めるとは思えないほど安定している。
   日本は、幸か不幸か、政治の二極化が極に達したアメリカや右派勢力の台頭で分断著しいEUなどのような修復不可能な混乱状態ではないところが救いだと言えようか。

   今後、政局がどう動くか分からないが、立憲民主党が利害の入り組んだ野党勢力を束ねきれると思えないので、自公民が、是々非々主義で、他の野党と連携しながら政権を維持してゆくような気がしている。
   石破降ろしが囁かれているが、看板を架け替えても同じで、穏健で良識派の石破総理の方が無難であろうと思う。

   さて、私は、今回、地方区は立憲民主党、比例代表は社民党に投票した。
   私の考え方は、自民党に近いと思っているが、政治にはカウンターベイリング・パワーが必要なので、野党に投票している。
   社民党については、大学生の頃から、社会党に投票し続けて60年、長い歴史で紆余曲折があるのだが、政策には多少異議があるけれど、いわば、カウンターベイリング志向の影響もあって、今や昔の面影もなく泡沫政党になってしまったが、機会があれば、投票し続けている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PS:イアン・ブレマー「気候安全保障と地政学 Climate Security and Geopolitics」

2024年10月27日 | 政治・経済・社会時事評論
   プロジェクトシンジケートのイアン・ブレマーの「気候安全保障と地政学 Climate Security and Geopolitics」

   気候変動に対処するための多国間の取り組みは、地政学的な対立の深化や世界経済の断片化の明らかな傾向によって十分には機能していないが、政府がネットゼロ排出の追求を放棄したわけではなく、むしろ、そのプロセスはより競争的になり、より複雑になっている。と言う。
   最近では『危機の力: 3 つの脅威と私たちの対応が世界を変える』の著者として、超大国の対立、地政学的な再編、新たなゼロサム セキュリティの懸念の時代に国際協力と脱炭素化を追求することの複雑さについて論じている。PSの問いかけに対して、ブレマーは、現下のClimate Security and Geopoliticsについて次のように論じた。

   まず、中国のEV攻勢に対して論じ始めて、いかなる状況になろうとも、気候変動に関する米国と中国の協力は可能であるだけでなく、不可欠である。この協力は歴史的に世界の政策期待を設定し、パリ気候協定、COP26(グラスゴー)、COP28などのマイルストーンの基盤を築いてきた。米国の選挙の結果は重要だが、民主党政権下では、特に適切な気候特使がいれば、強力な気候協力が継続される可能性がある。と言う。
   しかし、気候問題を米中緊張から切り離すのは困難であり、中国当局は、気候協力には「全体的に安定した関係」が必要だと強調している。

   ここで興味深いのは、
   気候変動に対して特に脆弱な南半球の低所得国と中所得国は、どこからでも資金、技術、その他の形態の支援を受ける用意がある。中国がますます魅力的な選択肢として現れているという指摘で、
   今年は、大規模な地政学的紛争、インフレ圧力、そして極めて重要な選挙が同時に起こるため、米国とその同盟国は新興市場との気候パートナーシップを優先順位の低いものと見なして、EU の最優先事項はウクライナであり、米国はガザ紛争に忙殺されている。気候変動どころではないと言うことである。

   さて、2070年までにネットゼロを目標にしているインドだが、石炭から脱却できず、資金不足、送電網の不安定さ、最小限の貯蔵ソリューション、新興技術への依存により、2030年までに非化石燃料発電容量500ギガワット、2005年レベルから炭素強度を45%削減するという目標を達成できないだろう。しかし、インドは2030年までにクリーンエネルギーのサプライチェーンを構築すると予想されており(後発者の優位性を活用し)、これはエネルギー転換の加速に役立つはずだ。と言う。

   トランプ政権となればどうなるか、
   トランプは明らかに気候政策の支持者ではなく、共和党の全面的な支持があればIRA支出を大幅に削減し、これらの削減は経済に波及するであろう。しかし、IRAの削減の可能性にもかかわらず、米国は依然として積極的な産業政策を追求し、経済貿易パートナーに挑戦する。トランプ政権は石油とガスを優先するが、その影響は限られている。
   国際面では、トランプの復帰は大きな問題となるであろう。米国が国連の気候変動会議から完全に撤退することが予想され、COP30での進展が妨げられ、発展途上国への資金が大幅に削減される可能性がある。これにより、2025年までにすべての政府による新しい気候変動公約が弱まり、最終的に世界の気温が現在予測されているよりも高くなる可能性がある。と言う。

   EUについては、欧州議会選挙で極右政党の躍進で、2020年のEUグリーンディールに基づく欧州の野望は縮小され、一時的にピークを迎えているので、EUは既存の規制の実施に主に重点を置くことになる。鍵となるのは、企業持続可能性報告指令で、この指令は来年から企業に情報開示の強化を義務付け、フランスはすでに不遵守に対して厳しい罰則を課している。
   同様に、EU森林破壊規制は今年12月に発効し、世界中の国々がすでに準備を進めていて、合法か違法かを問わず、調達に何らかの森林破壊が関与している場合、7つの主要商品はEU市場から締め出される。
   一方、最近採択されたEUの代表的な生物多様性法である自然再生法は、加盟国に対し、保全と再生の取り組みを強化するための行動計画を作成し、目標を設定することを義務付けている。これらの政策の施行は「移行リスク」につながる。持続可能性関連の規制を遵守しない多国籍企業や政府は、法的措置に直面することになる。
   
   多国間機関は今後も課題に直面するが、ますます分断化が進む世界では依然として不可欠であり、その価値は、パリ協定が国、企業、コミュニティに与えた影響に見られるように、世界的な合意に達し、協調行動を推進することにある。
   これらのプラットフォームは、その使命を果たすために改革が必要であるが、こうした交渉に対する期待は往々にして高すぎて、失敗に終わるので、国際フォーラムは、世界が現状を評価し、必要な軌道修正を決定するのに役立つ年次総括演習として捉えるべきである。

   EUの炭素国境調整メカニズムや森林伐採規制などの単独の取り組みは、反発に直面しており、非多国間アプローチの方が必ずしも効果的ではないことを示している。これは、多国間システムを放棄するのではなく、新しい構造を作ったり既存の構造を全面的に見直したりして、改善する必要があることを浮き彫りにしている。そうすることが、最終的にはすべての人の利益になる。と言う。

   以上、何となく、中途半端なブレマーの論評だが、依然として前進しないClimate Securityについての微妙な見解が面白い。

   さて、今回の日本の総選挙では、次元の低い裏金の話ばかりで、地球温暖化、環境問題は、全く話題にもならなかった。
   我々が寄って立つ宇宙船地球号が、危機に瀕して、人類の生存如何が問われているにも拘わらずである。
   平和ボケの政治の劣化が恐ろしい。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貴重な蔵書を殆ど処分した

2024年10月25日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最近、蔵書を殆ど処分した。
   これまで、欧米を含めて大阪東京など、10回以上転居を続けていて、その都度、蔵書を処理しなければならなかったので、その数は膨大である。
   今回は、もう傘寿の半ばを超えて人生が見えてきたので、60年の人生を支えてきてくれた最後に残った貴重な本なのだが、300冊ほどを手元に残して、全て、大手の古書買取専門店に送った。段ボール箱で60個強、
   倉庫に詰め込んでいた本と書斎や部屋の本棚や足元びっしりの積読本などである。

   部屋の本は多少吟味したが、倉庫の中の本など、自分にとっては選び抜いて守り続けてきた貴重な本なのだが、未練が残るので、一切チェックせずにそのまま箱に詰めさせた。

   
   さて、何故、蔵書を処分するのかだが、家族のうち誰もが私の本に関心がないし孫も幼いので引き継げないこと、
   知人友人にコンタクトするのも厄介だし、
   過日、encyclopedia americana 全巻を市のごみ回収置き場に出したが、どんなに貴重な本でも、関心のない人には、ただのゴミにしか過ぎないのである。

   もう一つ、何故、古書買取専門店に送ったかと言うことだが、
   これまで、公共図書館や卒業した学校にコンタクトして引き取りを照会したが、古本などいらないとケンモホロロの対応であった。私一人が読んだ本なので新本に近いしその多くは未読本であり、それに、充実度は、シェイクスピア関連本だけとっても、イギリスやアメリカなどで買った本を含めて100冊以上もあって、並みの図書館や大型書店などにも引けを取らないほど充実しているのだが、そんなものは無視して厄介もの扱い。
   古書専門店ならリユースであるから、何がしか人様の役に立つ可能性があると考えたからである。

   この蔵書処分だが、私にとっては掛け替えのない大切な財産だったが、不思議にも、それ程後悔はしていない。
   先に、体力がついて行けなくなったのを感じて、あれほど憧れていたフィラデルフィアとニューヨークへのセンチメンタルジャーニーを諦めたら海外旅行に関心がなくなったという心境と同じ変化であろうか。
   人生の黄昏を感じ始めると、不思議に執着がなくなって、淡々としてくる。

   ところで、今月も本を5冊も買ってしまった。
   机に向かって本と対峙していないと落ち着かない、悲しいサガと言うべきか、読書中毒は治りそうにもない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貝塚茂樹著「論語」 "政治は信頼が第一”

2024年10月23日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   貝塚 茂樹 教授の「論語」を読んだ。
   1964年出版の論語の抄訳解説本だが、非常に面白い。
   先日、吉川幸次郎教授の「論語について」を読んでいるので、ほぼ、基礎知識もついて理解も進んできていて、益々論語に入れ込んでいる。

   今回は、総選挙直前なので、このトピックスに関係する孔子や貝塚教授の見解を取り上げてみたい。

   まず、「道之以政」の、法律に頼り違反者を刑罰で取り締まる法治主義に対する徳治主義の主張、
   この当時の独裁政治撲滅運動のために、孔子は国外に逃亡して10有余年流浪の旅を続けざるを得なかったのだが、儒教が漢帝国の国学となって勝利した。この徳治主義の政治哲学は、現実の法治主義の政府に一つの理想をあたえることによって、独特の儒教国家を生み出し、二千年にわたって、中国を支配することになった。と言う。

   次に興味深いのは、「子貢問政」の政策論。
   子貢に政治の秘訣は何かと問われて、孔子は、「食を足し、兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」と回答した。三つを全部やるのは難しいので、その内どれを捨てるかと聞かれた孔子は、まず、武器を捨て、次は、食料を捨てればよい。食料を捨てれば死ぬかもしれないが、昔から死は人間の免れえぬものであり、やむを得なければ度外視してよく、政治にとって信頼しうると言うことが一番大事で、これを失えば国の政治は成り立たない。と答えた。
   貝塚教授は、経済より人民の信頼が優先するというのは、子貢の予想に反したと言っており、また、これは現代の政治に対する一つの批判をあたえるものだと言える。と述べている。
   人民が死んでしまえば、信頼も何もないのだが、それ程、政治に対する国民の信頼が重要であると言うことで、
   現下の日本の政治のお粗末さを考えれば、慙愧に耐えない。

   もう一つは、「君子周而不比」。
   君子は、心から仲の良い友とはなるが、徒党派閥は組まない。小人は、徒党は組むが、心から本当の友にはならない。と言うこと。
   一般には中国では、政党とは小人が比して周せず、利権を中心として集まった悪人どもと観念されている。政党などは君子のともがらのたずさわるも汚らわしいものだというのが通念で、政党には派閥がつきものだと言うことは、中国人はとっくにしっていたのだ。と貝塚教授は言う。

   さて、前述の二件、
   自民党は、国民の信頼を踏みにじり、利権塗れの派閥闘争に没頭してきた、
   自民党が、寄って立つこの土台が地響きを立てて崩れ去り、新しい再生を目指し始めたのだが、さて、どうであろうか。
   2500年前の孔子に教えられるのが悲しいのか、60年前の貝塚先生の指摘が悲しいのか、
   民主主義だ法治国家だ唱えているわりには、日本の政治は、いつまでたってもお粗末である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「読書難民」の孤独と言うのだが

2024年10月22日 | 経営・ビジネス
   昨日の日経朝刊が、”「読書難民」の孤独 1日1店消える書店、30年後7割減も  1億人の未来図”を掲載した。
   デジタル化の進展などでECで本を購入するのは当たり前となり、電子書籍の市場は8年で4倍に拡大しており、図書館も増加傾向にある一方、書店が1店もない「書店ゼロ」自治体は約28%に達 していて、このペースが続いた場合、人口が1億人を切る50年代には約3000店まで落ち込む可能性がある。
   書店が減っている背景には品ぞろえが画一化し、地元ニーズに応えられなかった面もあるとして、その危機的な状況に対処するために、住民との絆を強める地域密着の姿勢で生き残りをめざす書店の試みなどを紹介している。
 
    文化庁調査では69%が「読書量が減った」と回答 してり、23年度では、1か月に本を読む冊数で、1冊も読まない人が62.1%も居て、全く読まないか1~2冊しか読まない人の総数は90%をはるかに超えている。本の質には触れていないので、質の高い本の読者は、学者や学生など限られていて、一般人の読書はお粗末極まりないのであろう。

   しかし、興味深いのは、「読書量が減った理由」で、近くに本屋や図書館がないというのは6%であって、スマホなど情報機器で時間がとられるが43.6%で、仕事や勉強が忙しいや視力など健康上の理由が夫々30%以上で、ほかに、テレビの方が魅力的だとか読書の必要を感じないとか魅力的な本が減っているとかが上位に挙げられていて、書店の減少の影響は少ない。
   尤も、身近に本屋がなければ、本に接する機会がてきめんになくなるので、影響は深刻であることには間違いない。

   活字離れや書店の退潮など本に関することについては、このブログで随分書いてきたので、今回は蛇足は避ける。
   最近では、体力的に遠出が無理になってきたので、書店に出かけることは殆どなく、書籍との交流はネットショッピングとなっている。
   世界中歩いていても、時間があれば、どこかの書店に潜り込んで、何時間も沈没していたし、東京や大阪などの大書店をはしごしたり、神田神保町に通い詰めたことなど、暇さえあれば、書店に入りびたっていたのを思うと、今昔の感である。
   私にとっては、小学生のころから本浸りであり、読書そのものが私の生活そのものであり、人生そのものであったから、この新聞記事とは殆ど縁がない。

   さて、私の考えだが、地方の文化発信基地を期待するのなら、本屋を公営にして、図書館や市役所や公民館などの公営施設に併設すればよい。
   少なくとも、書店が1店もない「書店ゼロ」自治体約28%には、効果があり、その他書店のある自治体では、経営委託なども含めて既存の書店との共存共栄など協業の綿密な調整などが必要だが、書店産業も、公共財の色彩を帯び始めており、私企業の公営化を考えるべき時期に来ていると思う。
   尤も、書店の衰退は、政治経済社会の潮流の変化で、急速な需要の減退を受けての現象であり、産業構造の蹉跌でも経営の失敗でもない。
   したがって、書店産業には、歴史と伝統に培われてきた文化財的な貴重な経営のノウハウなどの遺産が蓄積されているので、この文化を維持するのは当然であり、従来の公営化とは違ったキメの細かいかつ積極的な民活が必要であることは言うまでもない。

   最近は、移動しなくなったので分からないが、現役時代に監査役として出張で全国を回っていたので、地方の商店街のこじんんまりした本屋さんを見つけると、必ず立ち寄って本を手に取っていた。
   その後、地方都市の疲弊で、シャッター通りが続出したので、その多くが消えてしまったのであろうが、地方を歩きながら、しみじみと味わったその地方独特の田舎の文化の香りを思い出しながら、寂しさに耐えている。
   このような文化こそ大切にすべきなのである。
   しかし、後戻りはできない。
   時代にマッチした現代的な書店復活の道を編み出さなければならない。
   
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビの技術革新の凄さを感じるのだが

2024年10月20日 | イノベーションと経営
   手元にテレビが欲しいと思って、小型テレビ24インチをAmazonで検索した。商品数が少ないので、価格コムに切り替えると、2万円弱からその前後の中国製から3万円台の日本製まで、無数に出てきた。
   別に偏見はないのだが、やはり、買うなら日本製を選びたい。
   安いに越したことはないし、最新の24年版に拘ると、出てきた最適なのは、山善のテレビであった。アンテナ接続用の分配器、分波器とケーブルをしめて2万3千円、Amazonで買った。
   BS4Kはないが、外付けのハードディスクをつければ録画もできるので、これで十分である。
   
   私が注目したのは、テレビの技術革新というか、品質の向上と価格の下落などを総合した経済の発展である。
   定かではないが、半世紀少し前くらいにカラーテレビを買った記憶があるのだが、その品質等の差は今昔の感である。
   例えば、価格だが、当時1台20万円していたとすると、価格は10分の1に下がり、それ以上に、途轍もない質の向上を考慮すれば、GDPには換算されない経済の成長発展は、大変なものである。

   しかし、この価格の下落は、GDPベースでは、その分マイナス成長となっており、さらに、いくら、製品が驚異的な品質の向上を果たしても、GDPに加算されないので、むしろ、技術革新による経済成長が、経済統計上ネガティブに働いている。
   そう考えないと、一人当たりのGDPの成長が足踏みしているにも拘らず、日本人の生活環境が少しずつ良くなっていることの説明がつかない。
   いずれにしろ、技術革新による経済進歩が、物理的な成長から取り残された成熟経済の日本においては、必ずしもGDP成長に貢献するとは限らないパラドックス、
   発展と言えるのかどうか。

   科学技術の進歩による人類の未来については楽観主義者なので、成長論者であるが、経済の質の向上による人々の幸福感は、非常に重要だと思う。
   日本が、今、観光立国としてインバウンド隆盛で世界の人々を魅了するのも、日本が築き上げてきた豊かな歴史と文化伝統のなせる業である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古書をどうして探して買うか

2024年10月18日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   私は、最近、これまでの新刊の経済学や経営学の本を読むことから少し離れて、何となく、古典に興味を持ち始めた。
   少し前に、ダンテの「神曲」やゲーテの「ファウスト」やその関連本を読み始めてからで、最近では、プラトンや孔子の「論語」などに移っている。


   古典と言っても、結構、どんどん、翻訳本や解説本など新しい本が出版されているのだが、これまでの経験からは、出版年代には関係なく、風雪に耐えた古書に良い本があることに気付いている。
   若くて元気な時は、神田神保町の古書店街を渉猟して歩いたが、その楽しみも体力的に無理になって、最近では、もっぱら、インターネット検索に頼って本を探している。


   一番、検索に重宝しているのは、Amazonである。
   例えば、冒頭の検索欄に「論語」と打ち込めば、沢山の論語関係本が芋ずる式に表示される。適当に目星をつけて、個々の本の詳細を確認して選べばよい。
   古書は、すべて、マーケットプレイスの出品なので、状態を、「ほぼ新品」「非常に良い」、時には「良い」から選べばよく、経年など物理的な痛みは仕方がなく、かなり良い古書が手に入る。


   ほかに利用しているのは、bookoffのオンライン。
   これも、検索すれば芋ずる式に古書が表示され、ここは、Bookoff直営なので、もう少し便利である。
   本の状態は表示されないが、かなり良質な本が送られてくる。


   もう一つ重宝しているのは、「日本の古本屋」。
   これは、まさに従来の古書店の集合で、骨董本を含めて膨大な古書が探せる。
   個々の本や書店情報などが詳しいので、電話をすれば、詳細が掴めて便利である。


   さて、値段だが、普通は何十年も経た古書なので、二束三文の筈なのだが、本によっては、それ程でもなく、それなりの価値を保っているのが面白い。

   その後買った論語関係の本は、
   宮崎市定の論語 現代語訳 岩波現代文庫  
   貝塚 茂樹の論語 (講談社現代新書 13) 新書
   何のことはない、60年も前、宮崎先生は授業を受けたし貝塚先生は講演を聴くなど当時の京大教授の古書だったのである。
   懐かしいというより、先の吉川幸次郎教授もそうだが、当時の京大の凄さを感じて感動している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川幸次郎「論語について」(2)

2024年10月16日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   吉川幸次郎の1か月にわたるNHKのラジオ講演であるから、非常に懇切丁寧な語り口で、何となく深遠な論語の世界に入り込めた感じがして感激している。
   論語を読もうと思って、物語として読むと銘打った比較的新しい翻訳の山田史生の「全訳論語」を読み始めたのだが、面白いけれど現在っぽくてナラティブが多過ぎて違和感を感じたので積読になっている。やはり、吉川教授のように、時代感覚を損なわずに、壮大な中国文化の歴史と文化を彷彿とさせる重厚な論語解釈の方が、嬉しい。

   さて、論語の言葉だとは知っていたが、記憶に強く残っているのは、
   「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」流れ行くものはこの水のごとくであろうか、昼も夜も一刻も停止することなく流れて行く、という一節。
   方丈記の冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」のオリジナル版だといえようか。

   この言葉には二様の解釈があって、宋の朱子は、人間の進歩というものは、この川の水のように一刻の休みもない、それが宇宙の本来の姿である。と解釈して、「学ぶ者の時時に省察して 毫髪も間り断ゆること無きを欲するなり」しばらくの間もなまけてはいけない、
   川の水の流れを進歩の原理、つまり人間が天から与えられた使命に応じて努力すべき、その方向の原理として川の水をさしていた、と言う。

   もう一方の悲観的な説は、「逝」という字を、進むではなくて、過ぎ行くものとして読む。過ぎ行くものはこのように時々刻々として休みなく過ぎて行き、我々は死に、歴史は過ぎ去ってゆく。論語の古い注釈は、どちらかと言えば、この方の説だったという。

   ところで、吉川先生は、悲観、楽観、両方の意味を含めていると読む。時間は確かにものを時々刻々と過去に移す滅亡の原理ではあるが、同時にまた、時間があればこそ人間の生命はあり、進歩がある。すべては移り行いて過去となるが、同時にまた進歩も極まりがない、そういう風な感覚が同時に孔子の頭の中を流れていたという風に考えてこの言葉を読んでいるという。

   かく人間への楽観を中心として、人間の可能性を強く信じるとともに、そこには、人間の力ではどうすることもできないものも人間を見舞うことがある、そうした嘆きに対しても孔子は鈍感ではなかった。
   人知を超えた超自然の存在を認めていたのであろう、「天」という言葉で触れているが、天についても死についても殆ど語っていないのが興味深い。

   さて、この「逝くものは斯くの如きかな、昼夜を舎かず」は念頭にはあったが、殆ど深い考えはなくて、どちらかと言えば、運命肯定論者で、眼前に遭遇する運命に、無我夢中で大鉈を振るいながら生き抜いてきたような気がしている。

   先日、プラトンの「饗宴」のところで、生命について、死にゆくべき人間は死んでゆくが、「生む」ことによって生命を維持し続けると書いたが、死生観の違いというか、その差が面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人であることの幸せを感じる

2024年10月14日 | 生活随想・趣味
   歳をとると、朝目を覚ました時に、爽やかな思いで起床できると、つくづく幸せだと思う。
   毎朝、コーヒーを煎れて、クレッテッドクリームとブルーベリージャムをつけたスコーンを、窓越しに鎌倉山の緑を眺めながら頂く、その繰り返しなのだが、今日も無事に好きなことをしながら過ごせるという安心感が何よりなのである。

   最近、戦火が拡大して、地球上が危機的な状態に陥っているが、つくづく、日本人であることの幸せを感じている。

   一言では表現できないような、起承転結の激しい人生を繰り返しながら、80余歳まで、どうにか平穏無事に生き抜いてきたことが、奇跡だと思うことがある。
   考えれば考えるほど、幸せだと思えるのは、平和で豊かな民主主義国の日本で生まれて日本人として生きたこと、その運命に尽きると考えている。
   足掛け14年海外で生活して、その倍くらいの年月を海外と関わりながら暮らしてきており、世界中をかなり知っているので、特にそう思う。
   戦争に明け暮れて明日をも知れない生活に翻弄されている国もあれば、生活苦に追い詰められた最貧国もあり、表現の自由を奪われた専制国家もあれば、教育の自由を圧殺された国があるなど、この同じ地球上に、信じられないような不幸に泣き続ける同胞が沢山住んでいる。
   ウクライナロシア戦争、ガザイスラエル戦争、アフリカの民族戦争、毎日テレビでその想像を絶する惨状を見聞きして苦痛を禁じ得ない。

   尤も、昭和15年生まれなので、悲惨な第二次世界大戦の戦火を浴び、貧困の極致とも言うべき貧しくて辛い戦後を生き抜いてきたという記憶は残っているが、
   幸いにも私の場合、復興期に最高峰の大学教育を受け、その後、アメリカでの大学院教育や欧米生活での高度な知的環境に触発されたので、学ぶべきは学んだという思いがあり、それだけに、強力な知的武装を授けてくれた民主国家日本人としての立ち位置の有難さを身に染みて感じている。
   切った張ったの激烈なビジネス戦争にも臆することなく、Japan as No.1の日の丸を背負って、世界を歩いてこれたのである。

   さて、悲しいかな、日本経済は、失われた30年の停滞で、昔日の面影もなく沈潜し、先進国でも後塵を拝するような状態で、日本も普通の国になってしまった。
   しかし、まだ、豊かで安定した経済を維持し、安心安全な平和国家としての民主主義国家体制は盤石でビクともしていない。

   総選挙が終わっても、多少浮沈はあっても、自民党政治はそのままで、その後も期待できないと思うが、このまま、低空飛行で日本流の文明社会を引き摺って行きそうな気がしている。安定志向の日本の宿命かもしれないと思う。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉川幸次郎「論語について」(1)

2024年10月13日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   もう60年ほど前のNHKラジオ放送や講演会録を集めた吉川幸次郎の「論語」に関する解説集だが、初心者にも分かり易い語り口なので嬉しい。
   丁度その頃、京大教授で講義をされていたはずで、経済学部の学生であったので、隣の文学部の教室に潜り込んで聴講すればよかったのに、と今になって思って後悔している。アメリカの時には、学際は普通で、自由に他学部の授業も取れたが、日本ではまだ厳格であった。
   別に経済学を専攻したことには後悔しているわけではないが、歳をとった今、文学部で学んでいた方が良かったかなあと思っている。

   さて、論語に関するレビューに入る前に、この本を読んでいて非常に興味を感じた論点に触れておきたい。
   それは、聖書と論語の思想対比である。
   吉川先生は、丁度その頃ベトナム戦争の時であったので、アメリカと中国を対比している。

   孔子が何よりも尊重したのは人間自体であったので、人間自体の可能性を信じた論語読者と人間も信じるがより多く神を信じる聖書読者の世界観の違いが顕著で戦争に影を落とした。
   中国人に言わせると、共産主義者のみならず他の主義者も、西洋人は今でも迷信に取りつかれている、キリスト教という迷信に取りつかれている、その点であれは文明人ではない、野蛮人である。西洋人というものはキリスト教みたいなものを信じているという点で、西洋文明に対して反感ないし軽蔑を持っている。それに対してアメリカの人たちにとっては、中国風の人道主義というものが人間の可能性に何よりも信頼を置く教えであることは、これまた非常に知られていない。というのである。

    今大陸中国とアメリカの間に深い対立があるが、これは二つの世界観の対立で、これらを話し合うこともなかったし、その違いをお互いに理解もしていなかった。戦争をする前に、そういう思想の話し合いをすることが必要ではないかと吉川先生は述べている。

   中国人の考え方について、教えられた感じで、西欧が強調する人権問題の視点がどうなのか、考えてしまった。
   現在の骨肉を争う熾烈な戦争は、キリスト教やユダヤ教やイスラム教など一神教地域の戦争で、人類を窮地に追い込んでいる。
   どうも、我々の考え方は、西洋の思想や情報知識にバイアスがかかっていて、時に、バランス感覚を欠く場合があるようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダロン・アセモグル :技術革新と不平等の1000年史

2024年10月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   原著の本題は、権力と進歩: 技術と繁栄をめぐる千年にわたる闘い
   (Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle Over Technology and Prosperity)
   アセモグルの新著で、これまで、「国家はなぜ衰退するのか——権力・繁栄・貧困の起源 」と「自由の命運——国家、社会、そして狭い回廊 」を読んでレビューもしているが、非常に啓発される素晴らしい経済学者である。
   
   過去1千年の人類の技術革新の歴史とその社会への影響を分析して、技術革新における楽観的と悲観的との悲喜こもごのの展開を詳述している。そして、技術革新が、成長発展を齎すと同時に不平等を生み出し続けてきたが、技術革新の成果を人類の幸せのためにどう役立てるか、それは「経済的、社会的、政治的な選択」次第だとして、未来の道標を模索する。

   技術革新の社会への影響については、二つの見方がある。技術革新楽観論と技術革新悲観論である。
   技術革新楽観論は、技術革新を進め、それを経済活動に広めることによって、その成果は、おのずと社会全体に均霑する。本書では「生産性バンドワゴン」と称して展開していて面白い。
   ネガティブな側面として、農法の改良は飛躍的な増産を実現したが農民には殆ど益しなかったとか、産業革命による工場制度の導入で生産性がアップし労働時間は延びたにもかかわらず、労働者の収入は約100年間上がらなかったとか、農法改良、産業革命などの技術革新によって成長発展を遂げたたにも拘らず、労働者には恩恵が及ばなかった。という。
   技術革新による「進歩」のはずが、逆に社会的不平等を増大させてきたという人類史上のパラドックスをどう解決するか、という問題である。

   さて、過去はともかく、現下のデジタル革命やAIによる技術革新はどうであろうか。
   技術革新の進展は驚異的で、デジタル技術と AI による仕事の変革は、我々の世界観を根本的に変えてしまった。
   ところが、世界中で、デジタル技術と人工知能は、過度の自動化、膨大なデータ収集、侵入的な監視、偽情報の拡散などによって、監視社会の強化、人権の侵害や民主主義を弱体化させるなどネガティブな側面を産む。
   しかし、我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第によって、この技術の進路を改変し、それを制御できる方法を見出し得る。として、
   テクノロジーの方向転換として、デジタル技術を作り直す、対抗勢力を再び作る、方向転換への施策を行う等々その方法を提言している。
   最先端の技術の進歩は、人類に力を与えるツールになる可能性が高いが、ただし、すべての主要な決定が、少数の傲慢な技術リーダーに、そして、経済格差を益々助長する権力者や支配階級の手に委ねられてはならない、ということであろう。

   要するに、技術革新が、人類を破滅に導くのも不平等を拡大するのも、「我々が行う経済的、社会的、政治的な選択次第」であって、その対策は、我々人間の英知にかかっていると言うことである。
   正論ではあろうが、我々人間の選択が正しく行われるのかどうか、それが問題である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会資本・主義にパラダイムシフト?

2024年10月08日 | 政治・経済・社会
   東洋経済onlinew読んでいて、小幡 績 慶応大教授の「石破政権の誕生は「日本経済正常化」の第一段階だ」の記事に出会った。

   19世紀の「産業資本・主義」から20世紀の「金融資本・主義」そして、22世紀の「社会資本・主義」へ向けて、21世紀は移行期(混乱期)にあり、イシバノミクスは、「社会資本・主義」へのパラダイムシフトの時期に遭遇する、と言う。
   「社会資本・主義」というワードは「小幡造語」で、「社会資本」の主義、という意味であり、社会資本が社会・経済においてもっとも重要となる世界がやってくる、ということだ。と言うのである。

   小幡説をさらに説明すると、
   この「社会資本」とは、宇沢弘文氏のいう「社会的共通資本」をも含むが、もっと広く、かつ価値観的にニュートラルであり、1990年代に少し流行した”Social Capital”という概念のほうが近い。  つまり、経済発展は、需要の拡大によるものでもなく、供給サイドの生産力の拡大だけではダメで、社会という基盤がしっかりすることで初めて、真の地に足のついた経済発展が始まる、ということである。そのためには、需要政策でも生産性向上政策でもなく、何よりも健全な社会という土台を作り直す、という「経済」政策である。なぜなら、社会という土台がしっかりすれば、経済は長期的には持続的に自然と発展していくからである。  
   この社会資本が充実している国ほど経済成長する、という実証分析が流行しており、現実の経済政策に関して言えば、すべての人々が安心して暮らせる社会、これこそ、「社会資本」である。そして、これを支えるための法制度そして政策、それが「社会資本・主義」政策である。 
   イシバノミクスは、以下のように体系化できる潜在的可能性がある。  この「社会資本」の確立、修復、安定を政策の目標とする。国家を地政学リスクから守ることで、安心して経済活動に専念できる。災害から国土を守ることによって、安心して生活ができる。安定した消費、生産活動ができる。インフレという価格変動リスクから生活者、中小生産者を守る。健全な消費、生産活動につながる。将来のリスク、不安、不確実性も減るから、設備投資、人的投資もできるようになる。そのためには、社会不安が減り、将来の見通しへの不安が減ることが必要である。 
   これは、石破氏が生み出したものではなく、社会の動きが高まっていることによるものであり、石破政権で実現しなくても、パラダイムシフトは、今後21世紀前半のどこかでは起きることになるだろう 。

   しかし、社会が「社会資本・主義」に変わることへマグマが溜まっていたところに、「石破政権誕生」という偶発的な事件が、これに点火したことは事実であって、石破政権誕生という2024年は、分水嶺となる可能性があり、パラダイムシフトであって、経済は明るいと言うことであろうか。

   ところで、日本株式市場、日本経済、日本社会は、転換点を迎え、新しい発展段階に入るだろう。この事実には、私以外、誰もまだ気づいていない。石破氏本人でさえわかっていないだろう。 というのだが、
   金子 勇 教授が、昨年6月に、「社会資本主義 人口変容と脱炭素の科学」出版して、
   「新しい資本主義」を「社会資本主義」と命名した本邦初の「経済社会学」。「社会的共通資本」と治山治水を優先し、国民が持つ「社会関係資本」を豊かにし、一人一人の「人間文化資本」を育てる。これら三資本の融合を理念とし、「人口変容」と「脱炭素」を論じつつ、経済社会システムの「適応能力上昇」を維持して、世代間協力と社会移動が可能な開放型社会づくりを創造する。として、「社会資本主義」時代の到来を説いている。 
     マルクス、ウェーバー、パーソンズ、高田保馬の核心を融合した経済社会学による「新しい資本主義」論 だというから、違うのかもしれないが、読んでいないので、何とも言えない。

   さて、問題は、「社会資本・主義」が、「社会資本」の確立、修復、安定を政策の目標として健全な社会という土台を作り直す、と言うことだが、非常に漠然とした概念であって、経済政策の柱となり得るのかと言うことである。
   健全な社会の土台を作るというのは、住み良い安心安全や社会を作ると言ったような理想社会を実現するのと殆ど同義語であって、経済政策としては当然の目標である。
   また、公共財よりは狭い概念であろうが、経済学における社会資本は、企業・個人の双方の経済活動が円滑に進められるために作られる基盤のことのようだが、この社会資本の充実は、デマンドサイド、サプライサイド両面の経済政策の結果であって、並立する経済現象でもない。

   また、ダロン・アセモグルの「社会全体の豊かさをもたらす「正しい」技術革新のためには、政治による正しい方向付けが必要だ」との主張を同義だとして、政府は、「正しい」方向へ社会を導くことにより経済の自律的な発展を促す。  そして、これは、経済至上主義、市場至上主義、金融至上主義と、どんどん倒錯してきた世の中を、社会至上主義(「社会主義」よりも本当の意味での「社会」主義)という正しい姿に戻す、つまり、これまた、膨張しすぎた近代資本主義社会の「正常化」、すなわち、政治・金融市場・経済の「正常化」へのパラダイムシフト  だという。
   政治が「正しい」方向へ社会を導く政府主導の福利厚生経済が良いのか、民主導の市場原理主義の経済が良いのか、振り子運動の一環であって、その振り子が、社会価値重視に移るという議論のような気がしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石破内閣の経済成長戦略は

2024年10月05日 | 政治・経済・社会
  石破内閣の経済対策について、石破首相は4日、秋に取りまとめる経済対策の策定に着手するよう閣僚に指示した 。経済対策は、物価高に対応して低所得者世帯向けに給付金を配るほか、自治体向けの交付金を大幅に拡充する方向だ。 と言う。

   関心のある経済問題だけに集中して、
   「石破首相「成長戦略を継承」 貯蓄から投資へ、流れ加速」を論じたい。

   「岸田政権で進めてきた成長戦略を着実に引き継いでいく」「資産運用立国の政策を発展させる」と言う前政権の経済政策を継承する考えを表明しており、「賃金が上がり消費が増え、人手不足対策を含む設備投資の拡大により更なる賃金上昇につながる好循環をつくる」と訴えている。
   GDPの半分を占める個人消費の回復を重視するとも唱えていて、消費を後押しするため食料品やエネルギー価格の上昇に対応する経済対策を打ち、物価高の影響を受けやすい低所得者に給付金を支給すると表明した。国民の将来不安を緩和するために医療、年金、社会保障の見直しに着手するとも語った。

   
   首相が提示した成長戦略は、
   「従来のコストカット型経済から高付加価値創出型経済へ転換し、投資大国日本を実現していく」と打ち出し、自動車や半導体、農業などを挙げて「輸出企業が外から稼ぎ、生産性を向上させるための投資を促進していく」。
   地方創生が「日本経済の起爆剤」だとも掲げた。最低賃金を現行目標の30年代半ばから20年代に前倒しして平均1500円へ引き上げる方針も提示し、成長分野への労働移転を促すためのリスキリングを説く。
   エネルギー政策を巡っては政府が24年度中に中長期戦略となる次期エネルギー基本計画を策定する。前政権は生成AIやデータセンターでの電力需要の増加をにらみ、安全性が確認できた原発を最大限活用する方針を示した。
   

   一方、施政方針演説での経済政策は、
   「経済対策を早急に策定し実現に取り組む」と表明した。
   経済対策は「物価高の克服」「日本経済・地方経済の成長」「国民の安心・安全の確保」を柱とする。物価高の影響を受ける低所得者世帯への支援や中堅・中小企業の賃上げ環境の整備、国土強靱化などを進める。
   物価上昇を上回る賃上げを定着させ、国民が生活が豊かになったと実感してもらう必要があると言及した。生産性の向上などにより、最低賃金を2020年代に全国平均1500円にする目標を掲げる。

   言っていることは、整合性はともかく、間違ってはおらず、必要な経済政策であるが、どうするのか、能書きだけで中身がない。
   根本的な問題は、持続的な消費回復や賃上げの実現には有効かつ実際的な成長戦略が欠かせない 、すなわち、持続的な実質賃金の上昇を維持するためにはそれ以上の経済成長が必要だと言うことで、全ての元となるのはテクノロジーの進歩など経営革新によって生産性(特に全要素生産性)を向上させて経済成長を持続することであって、その原資を十分に確保出来なければ、賃上げも出来ないし国民生活も豊かにならない。
   リスキリングなどの人への投資の強化や事業者のデジタル環境整備などと言った末梢的な生産性向上策を、施政方針演説で打つようでは、先が思いやられる。根本は、後述するように経営革新と産業構造の抜本的改革である。

   生産性の向上と言っても、単純ではなく、アセモグルの「生産性バンドワゴン」によると、
   生産性の向上が生み出した余剰が経済の他部門に振り向けられ、テクノロジーの進歩によって大きな改善が進み、新製品、新産業を誘発してそこにおける新たな労働需要を生み、と言った波及効果があってはじめて賃金が上昇して、生産性の向上が労働者に及ぶことが可能になるのである。
   一にも二にも、シュンペーターの説く創造的破壊を生み出し爆発させる土壌の醸成であり、
   この好循環の実現である。

   アベノミクスでは、成長戦略は、第三の柱として「民間投資を喚起する成長戦略(成長産業や雇用の創出を目指し、各種規制緩和を行い、投資を誘引すること )」と明記されていたのだが、不発に終わってしまったので、鳴かず飛ばずで成長から取り残されて、失われた20年が30年になり、先進国でも最低の水準に落ち込んでしまった。
   しかし、石破内閣は、良く分からない岸田内閣の新しい経済に、つけ刃の施策をくっ付けて継承するということで、さらに、成長戦略がぼやけてしまって、期待はできない。

   日本経済が低迷しているのはなぜか、
   少子高齢化による人口減もその一因だが、最大の要因は、日本企業の没落退潮で、国際競争力の著しい低下のみならず、ゾンビ化して存続そのものが危なくなってきており、産業構造とその基盤がどんどん弱体化して、それが全経済に伝播蔓延していることである。
   極論すると、歴史と伝統のある大企業の殆どは、成長発展から無縁の馬齢を重ねただけの停滞状態であり、その岩盤体制が日本経済を支配し圧迫していて、その風土環境が、日本の政治経済社会を仕切っているから、
   最先端科学やテクノロジーを追求し駆使して、イノベイティブで斬新な経営環境や新規企業が生まれて活躍する余地など醸成し得ないし、最先端を行く優秀な外資も呼び込めない。

   唯一の生きる道は、岩盤組織の旧態依然たる既存企業に起死回生の再建を迫り、出来なければ退場を強いて、産業構造を新陳代謝して根本的に改革することである。

   尤も、成熟化して制度疲労してしまった日本そのものに問題がある。
   看板をかけ替えるだけで何の変化も進歩もない自民党政治に安住している限り、これ以上良くなることは望み得ないが、カウンターベイリングパワーである筈の野党に何の魅力も実力もなく、改革革新の道が途絶えてしまっているのが悲しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

納富 信留 著「プラトン哲学への旅: エロースとは何者か」(2)

2024年10月03日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   最後のソクラテスのエロース論だが、
   原書では、マンティネイア(Mantineia)のディオティマという女性に聴いた話ということで、ソクラテスとディオティマの問答を再現した形で展開されているようだが、この本では、「饗宴」に入り込んだ筆者が彼女から秘儀を聴く。

   難しいのだが、とりあえず、納富先生の説明を要約すると、次のとおり、
   エロースは、美しくも善くもなく、また醜くも悪くもない、死すべき者と不死なる者の間にいるもので、神ではなく神霊(ダイモーン)である。エロースは人間と神々の間に介在し、通訳・伝達・結合を担う数多くのダイモーンの一つである。
   エロースは、父ポロスと母ペニヤの間に生まれ、アプロディテのお供となった。
   エロースは、母から貧しさと欠乏を受け継ぎ、柔和で美しいという状態からほど遠く、硬直して乾いた裸足の放浪者である。父譲りの才能を発揮し、また美しい者・善い者を追い求める策士であり、勇敢で大胆で向こう見ずのところがあり、手強い狩人であり、常に策をめぐらし、知見の追求に熱心であり、生涯を通じて愛知者であるフィロソフォスであり、同時に比類なき魔術師・薬剤師・ソフィストである。
   エロースは死なき者でも滅ぶべき者でもなく、花咲き・生き・死にを繰り返す。しかし取得したものは絶えず溢れ出て消え失せるので、困窮することもなければ富裕になることもなく、智慧と無知の中間にい続ける。

   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求し、そうしたエロースを熱心に追求し、熾烈な努力を示す者が進む道・採る行動は、肉体でも魂でも、調和した美しいものの中に、子供を産むことである。
   人間は肉体にも魂にも胚種を持っていて、一定の年頃になると生産することを欲求し、美しい者に対して強烈な昂奮を感じて求める。
   そうした出産の営みは、死すべきもの滅ぶべきものにとっては、滅びざるもの、永遠なるもの、不滅なるものとなるのであるから、愛の目的は不死である。エロースが、善きものが常に自分自身のものになることを求めている以上、善きものと共に不死を欲するのは必然である。
   死すべき本性は、永遠に存在し不死であることを、できる限り求めることであり、しかし、それは、生むという方法によってのみ可能で、古いものに代わって新しい別なものをつねに残していく新陳代謝であるからである。

   人間は、魂においても身ごもっており何かを生み出そうとする。芸術という生産は、已むに已まれぬ要求によって生み続けている。
   肉体の交わりが生み落とす子供にもまして、魂が生み出したものが重要である。徳ある生き方を送る人、芸術や学術を創造する人、法律を制定して国家の礎を築く人等々、彼らが生み出した子供たちは、人々に不滅の記憶を残し、永久の名声と幸福をを齎すと感じており、自分が生きた証であり、魂の生産である。

   さて、美の追求において、最初は美しい肉体を愛するが、
   その次には、魂における美こそ尊いものだという、心霊上の美を肉体上の美よりも価値の高いものだと考えるようになる。美しさとは、見た目の綺麗さをはるかに超えて、内面の、あるいは、行動や生き方のすばらしさである筈である。精神的な美であり、その経験によって芸術や文学を生み出し、共に生きていく論理につながる。
   次に感知すべきは、知識の美しさである。真理を探究し、学問に従事し研究してゆくと、純粋にそれを知りたいと思って学び、楽しいと感じる瞬間が訪れる。
   美しい様々な事柄から美しいもろもろの知識へ進み、美の全体を見渡す一つの知識という場所に立つ。これを観照して、その中で多くの美しく壮大な言語と思想とを、惜しみない知への愛において生み出してゆく。そこで力を得て成長し、まさにこのような美の中に一つの知識を見だすまで進んで行く。

   美とは、常に美しくあり、美しくなることも、なくなることもない。まさにそれ自体単一の相として常にある、そういった美であり、これが美のイデアと呼ばれる。この永遠、「常にある」とは、ずっと続くという意味ではなく、時間そのものを超えると言うことである。
   美を愛し求めるという道程は、実はこの終極に至るための道程であった。この美そのものを対象とするこの学びへたどり着き、最後に、まさに美であるところのものそれ自体を認識すること、美そのものを観照する時に、人間にとってその生が生きるに値するものとなる。というのである。

   このエロースへの道程の極致に近づく時、滅することも増すことも減ることもない真の美そのものを観得し、不死の境涯を体得して、人生に生き甲斐を感じる。と言うことであろうか。

   さて、ダイーモンのエロースが、何故、愛の象徴になったのかよく分からないが、
   人間は、美しきもの善きものを愛し永久に所有することを愛求して、調和した美しいものの中に、子供を産む。死すものである運命を甘受して、出産によって永遠の生命を維持しようとする。ということは良く分かる。
   肉体の愛による出産は、低次元の愛だと言うことであるが、愛し合う二人にとっては、最高の希求である。
   私など、高邁なソクラテスのエロース論はともかく、ファウストのように若返って、憧れのマドンナに再会して、このソクラテスのエロースの話を語り合えばどれだけ楽しいか、たわいない戯言を考えている。
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする