熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

時事雑感:アメリカの迷走に思う

2025年03月04日 | 政治・経済・社会
   トランプ・ゼレンスキー両大統領の激しい口論が衆目の注視するところとなり、国際情勢が一気に不透明感を増した。
   昨日、日経の朝刊「春秋」で、
   ”よくぞ言った。・・・大国風をふかせて恫喝する相手に、じっと耐えつつ一歩も引かないゼレンスキー大統領の姿に胸のすく思いがした。” ”助けてやっているのだから礼を言え。小国の客人を見下して隠そうともしない。”と報じた。
   ”祖国を背負うゼレンスキー氏の言葉には、重みがある。多大な犠牲を払って侵略者と戦ってきたのだ。後に禍根を残すうわべだけの合意など出来るはずがない。”とも述べている。
   私もそう思うし、世界中の殆どの良識派の考え方もそうであろうと思う。
   ワシントン・ポストは社説で、トランプ大統領のゼレンスキー大統領に対する振る舞いは、映画「ゴッドファーザー」の主人公でマフィアのボスである「ドン・コルレオーネのようだった」と批判した。 と言うから、アメリカにも良識があるのである。
   アメリカの凋落の兆しを思わせるような、アメリカの迷走ぶりが世界を震撼させた。

   トランプ大統領の頭から欠落しているのは、ロシアが、国際法など国際秩序を無視して独立国家のウクライナに一方的に軍事侵攻して、破壊と殺戮を重ねて蹂躙し続けているという考えられないような極悪非道の国際犯罪を侵していると言う認識であり、更に、ウクライナが、アメリカが建国以来国是として確立して育み続けてきた自由民主主義を死守するために矢面に立って必死になってロシアに対峙している厳粛なる事実の理解が皆無だと言うことである。
   この本源的な事件の根幹、この価値判断さえできる良識人であれば、ウクライナのレアアースを人質に取って、交換に軍事援助を継続するという姑息極まりない取引をしてMAGAを押し通そうとした筈はないし、決裂で成果をアピールすべきセレモニーが吹っ飛んでしまい、会談でメンツをつぶされたとして、ウクライナへの援助を中断するというガキの喧嘩にも等しき愚策に及ぶ筈もなかった。

   アメリカは、既に、前世紀の後半から、経済力や国力の低下によって、国際的な覇権的地位を喪失して、世界の警察官としての役割を放棄して、パクス・アメリカーナの時代が、過ぎ去ってしまっている。
   その上に、今回のトランプ・ゼレンスキー会談決裂が、さらに追い打ちをかけて、為政者の姿や対応の稚拙さが、アメリカが、もはや、世界のリーダーでも世界平和の導き手でもなく、その器にも値しないことを、白日の下に晒してしまったのである。

   さて、アメリカの変節によって、同盟国であろうと何であろうと、アメリカを信じて付き合えなくなった。
   すべて、アメリカに頼れない、アメリカ抜きで考えよ、自力で生きて行けと言うことである。
   MAGAと同じで、MJGA、すなわち、日本第一で、日本は自分自身で自分の国の安全と平和を守らなければならなくなった。
   「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」ただけでは、 国家の存続さえ危うい。当然だが、現実である。
   どうするか、それが問題である。
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英国ロイヤル・オペラ ヴェルディ:歌劇《オテロ》1992年 ショルティ80歳 

2025年03月02日 | クラシック音楽・オペラ
    シェイクスピアの四大悲劇 の最高傑作「オセロー」を、ヴェルディが73歳の時に書き上げた後期オペラ歌劇《オテロ》。1992年10月、ショルティ80歳の誕生日を記念して催された特別公演で、ドミンゴ、テ・カナワ、レイフェルカスという最高のキャストによる極め付き公演のDVDを取得して観た。
   丁度この時にロンドンに住んでいて、私自身、この舞台を、ロイヤル・オペラ・ハウスで、実際に鑑賞したので、特別な思い入れがある。
   大変な人気で、ロイヤル・オペラの定期会員権保持者の特権を活用して不可能に近かったチケットを取得した。確か、280ポンドで、日本円で6万円でかなり高かったが、当時は、パバロッティでもそうであった。BBCで放映されたのだが、チャールズ・ダイアナ両殿下のご臨席舞台であり、深刻なシェイクスピアの悲劇でありながら、会場の熱気は凄くて、それに、聴衆も久しぶりのお祭り気分で華やいでいた。 

指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ 
演出:エリシャ・モシンスキー
 出演:プラシド・ドミンゴ(オテロ)/キリ・テ・カナワ(デズデーモナ)/セルゲイ・レイフェルカス(ヤーゴ)/ロビン・レガーテ(カッシオ)/ロデリック・アール(モンターノ)/ラモン・レメディオス(ロデリーゴ)/クレア・ポウエル(エミーリア)他
演奏:コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団、合唱団  







   ヴェニスの軍人キプロスの指揮官オセローは、相思相愛のデズデモーナと結婚。オセローが、キャシオーを副官にしたので、旗手イアーゴーは恨んで復讐を策する。キャシオーがデズデモーナと密通していると、オセローに讒言して、嘘の真実味を増幅するために、オセローがデズデモーナに贈ったハンカチを盗み、キャシオーに持たせてオセローを煽る。イアーゴーの作り話を完全に信じ切ったオセローは、デズデモーナの不実に茫然自失嫉妬に苦しみ怒り狂う。イアーゴーにキャシオーを殺すように命じ、自らは必死に哀願するデズデモーナを寝室で絞殺。しかし、イアーゴーの妻のエミリアが、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白して悪事が露見、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃げる。オセローはデズデモーナに最後の接吻をして自害して果てる。
   性根邪悪の極悪人イアーゴーの巧みな讒言作り話に、徹底的に煽られ翻弄されて、どんどん正気を失って崩れて行くオセローは哀れだが、本来この戯曲のタイトルが、「イアーゴー」であったというのも分かるような気がする。

   ショルティの神業に近いバトンに鼓舞されて、ドミンゴのオテロとキリ・テ・カナワのデズデーモナの緊迫した愛憎劇が観客を魅了し続けて、憎々しさの際立つ レイフェルカスのヤーゴが、悲劇を煽って2人を奈落に突き落とす。
   死を前にして切々と歌うキリ・テ・カナワのデズデーモナの「柳の歌」の素晴らしさに息をのむ。
   当時、ロイヤル・オペラやMETで、ドミンゴやキリ・テ・カナワを聴いていて、このブログにも書いているので、蛇足は避けるが、とにかく、歴史に残る凄いオペラの世界であった。


   「オテロ」の観劇経験は、リカルド・ムーティ指揮のミラノ・スカラ座の「オテロ」の舞台を日本で二回観た記憶があり、印象深いのは、2005年のロンドン旅でのロイヤル・オペラのルネ・フレミングのデズデモーナの「オテロ」だが、ほかにも結構見ている。
   残念だったのは、1993年のケンウッドのロイヤル・オペラの野外公演 の「オテロ」で、大雨で、憧れのリッチャレッリのデズデモーナの「柳の歌」を聴きそびれたこと。

   さて、指揮者のショルティであるが、この年、ロンドン交響楽団も、ショルティの傘寿の記念公演を催して、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番を演奏 した。
   また、ショルティは、ロンドンでも、創立150周年を迎えたウィーン・フィル記念公演を指揮して、メンデルスゾーン「イタリア交響曲」とショスタコーヴィッチ交響曲第5番を演奏し、アンコールに「こうもり序曲」を鑑賞、
   最初にショルティを聴いたのは、ウィーン・フィルを指揮した1970年代の京都文化会館での演奏会なのだが、ロンドンを筆頭に8年間ヨーロッパに居たので、ショルティのコンサートには結構出かけていて、このブログでも度々取り上げている。ハイティンクと共に一番聴いた指揮者かもしれない。
   

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病院の待ち時間の長さどうにかならないのか

2025年02月28日 | 経営・ビジネス
   今日、定期検診のために、病院に行った。循環器科である。
   30代の後半に高血圧だと診断されたので、半世紀の付き合いの持病であるが、薬を飲み続けているだけで、特に、いままで、大変だったことは一度もない。
   大手術を2回受けているが、別な病気である。
   「80歳の壁」の和田秀樹先生に言わせれば、病院に行くことも薬を飲むことも必要はないと言う事であろうが、歳をとっても、やはり、気になって、病院通いを続けている。

   ところで、過去の病気のフォローや新しい病気の治療なども含めて、歯科などは別にして、大病院に平均月に1回は通い続けている。
   いつも悩むのは、待ち時間の長さである。

   今日の予約時間は、午前11時であった。
   血液検査と心電図検査があったので、1時間前、すなわち、9時45分に病院について検査を受けた。幸い、週末なのか月末なのか理由は分からないが、結果に時間がかかる血圧検査は空いていてすぐに終わった。
   今日は、早く終わりそうだと期待して待った。
   しかし、先生に呼ばれて、診察を受けたのは、12時30分、予定の1時間半後であった。
   会計処理に時間がかかるので、院内にあるドトールコーヒーショップで軽食を取り、薬の処方箋を持って調剤薬局に、
   これが、また時間を取って、結局、タクシーで自宅にたどり着いたのは、午後2時半、
   今日は、往復行帰りはタクシーを使ったが、従来のように、バスとシャトルバスを乗り継いで通うと、更に2時間加わるので、1日仕事である。

   解せないのは、先生のオーバータイムの処理がどうなっているのかだが、毎日、既定の時間内に、積み残しなく、当日来院した患者すべてを診療し終えていているのであるから、それを、うまく配分して、予定を決めればよいのである。
   ほとんど死ぬ心配のない患者たちが来院していて、何時間待たされようと一向に文句を言わない健気な顧客であるから、有難く待たせても喜んでくれていると思っているのであろうか。
   色々内部事情やカラクリがあっての病院の戦術なりやり方なのであろうが、東京の大病院も、ほぼ同様であった。

   政府も、高額療養費制度を改定して、負担上限額引き上げ方針で自己負担増を策しているが、この程度の些細な改良を病院に指導できなくて、何の医療改革かと、戯言も言いたくなってくる。
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今年もe-Taxをやってみた

2025年02月26日 | 生活随想・趣味
   現役を引退してから、何故か、ずっと確定申告を続けている。
   最近では、企業年金がなくなって、公的年金の収入だけになって、400万円以下のラインなので、申告しなくても良いのだが、医療費控除や生命保険控除などがあるので続けている。僅かだが、毎年少しだけ所得税が還付されている。
   少数株主だが、まだ特定口座を持っているので、少しずつ配当が入っていて、これは、源泉徴収処理をしている。所得税率が高いので、総合課税にすれば、多少税金が還付されるかもしれないが、場合によっては、社会保険料や地方税のラインが上がる可能性もあると言われたので、考えないことにしている。

   さて、e-Taxは、パソコンで、カードリーダーでマイナンバーカードを読み取って本人認証して行っている。
   今回は、10年以上使っているカードリーダーがダウンして前に進まなくなったので、新しいカードリーダーに代えてやってみたら、動き始めた。

   しかし、最後まで終わって送信したのだが、収入の欄などは空白で、納税額のゼロは良いのだが、いつもの申告内容確認票の表示とは全く違う。
   どうも、スタートの段階で、公的年金の記入を怠って進めてしまったようで、間違いに気づいた。
   誤って確定申告をした場合、訂正はどうするのか、インターネットを叩いて調べてみたら、
   期間内なら訂正可能で、再度一から申告すれば良くて、送信された最後の申告が有効とされて採用されると言うことであった。

   夜遅かったが、気になったので、パソコンを叩いた。今度は慎重に見落とさず注意しながら、確認申請書を作成して、前段階の申告内容確認票コピーをチェックして、様式が従来と同様なので、送信した。
   e-Taxの良いところは、24時間対応で、何時でも操作処理可能だと言うことである。
   マイページを開いて、送信結果を確認したら、確認申請の受領記録があり、その内容が申告内容確認票と全く同じなので、完了したことが分かった。

   翌朝、確認のために、鎌倉税務署に電話して、この顛末を説明して聞いてみたら、前述の処理方法で間違いないと言う事であったので、ひとまず安心した。
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速読法を学ばずに読書人生70年

2025年02月24日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   小学生の低学年から、本屋に一人で出かけて好きな本を買って読んでいたほどの読書愛好家であるから、もう70年以上の年季が入っている。
   従って、読破した本は数千冊に及んでいて、いわば、読書が趣味というよりも、人生そのものであったような気がしている。

   さて、それで少し後悔しているのは、いわゆる、速読法をマスターせずに、普通に読んでいたので、実際の読書量が、少なかったのではないかと言うことである。
   音読という訳ではないので、飛ばし読みしたり、斜め読みしたり、適当に読んでいたので、何の問題もなかったので意識はしなかったし、十二分に読書に勤しんできたので、慰めはしている。

   私の場合、本の種類やシチュエーションによっても違ってくるのだが、これまで長い人生において、やはり、意識して多く読んできたのは、専攻の経済学や経営学と言った専門書であったので、結構難しいことへの挑戦もあって、じっくりと対峙しなければならなかった。早く読めればよいということではなく、読みながら、考え推敲する時間が必要だったのである。
   そして、趣味の歴史書や美術書など文化芸術関係の本の場合には、あらゆる背景やシチュエーションを脳裏に展開しながら、空想の世界であったので、読書にも間が必要であった。

   良く分からないが、著者が書く速度もそんななものであろうし、丁度、音読程度の速度で、考え空想しながら読んでゆくのが、一番馴染むような気がして、特に意識せずに、それを続けてきた。
   私には、無意識ながら、頭が本の内容に即応するような速さで、適当にアジャストしながら、読んでいたということであろうと思っている。

   もう、読書人生も、それ程残っていないので、このまま、速読法を気にせずに、じっくりと、積読の本の山を切り崩すことにしようと、
   プラトンの「国家」のページを開いている。
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わが庭:紅梅千鳥が咲きだした

2025年02月19日 | わが庭の歳時記
   わが庭には、梅の木が3本植わっていて、最後に千鳥が咲きだした。 
   濃ピンクの一重の華やかな花で、樹勢が強くてどんどん枝を広げて存在感を示している。
   白梅は満開で、強風に煽られて散り始めている。
   関西に居た時には、月ヶ瀬や北野天満宮など、京都や奈良の名所に観梅に訪れていたが、関東にも素晴らしい名所があり、結構訪問している筈なのに、特に記憶に残っていないのが不思議である。
   
   


   今日は急に寒くなった感じだが、風がないので、庭の陽だまりに行くと、ほっと温かい。
   ぼつぼつ椿の季節が近づいてきたのであろう、千葉のにわで育った実生苗をこの鎌倉の庭に移植したのだが、ようやく咲き始めている。
   当然雑種なので親木の面影が殆ど残っていない場合が多いので、追跡不可能なのだが、何となく、新鮮な趣があったりして、結構気に入っている。
   

    タマアメリカーナやタマグリッターズが咲き続けている。


   今年は、夏ミカンが豊作で、綺麗な実をつけたので、マーマレードを作った。
   毎度同じの国分さんのイギリス風レシぺを参考にして我流で作っているのだが、これが、結構美味で、毎朝、スコーンのお供として朝食に愛用していて重宝している。
   夏ミカン大玉3個で1㎏、レモン1個、砂糖700g、水2ℓ
   準備から完成まで、ほぼ2時間半
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(2)

2025年02月17日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   さて、斎藤准教授の人新世の資本論で説く究極の「脱成長コミュニズム」について考えてみたい。
   「脱成長コミュニズム 」 とは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」経済であり、平等な人間と自然の物質代謝を行うので、経済成長をしない共同体社会の安定性が持続可能な脱成長型経済の「コミュニズム」なのである。

   この「脱成長コミュニズム」の柱となるのは、次の諸点。
   まず、「価値」ではなく「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却すること 。
   次に、労働時間の短縮、必要のないものを作ったり、意味のない仕事をやめる。
   第3に、画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。
   第4に、生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。ワーカーズ・コープによる「社会連帯経済」を促進する。
   第5に、使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。

   「脱成長コミュニズム」は、資本主義の人工的希少性に対する対抗策で、「コモン」の復権により成長を不要とするが、「反緊縮」の豊潤な経済「ラディカルな潤沢さ」の復活を目指す。
   マルクスは、「自由の国」、すなわち、生存のために絶対的に必要ではなくても人間らしい活動を行うために求められる領域、例えば、芸術、文化、友情や愛情、そしてスポーツなどを拡大することを求めていた。
   無限の経済成長を断念し、万人の持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、「脱成長コミュニズム」と言う未来を作り出す。と説く。

   具体的な「脱成長コミュニズム」像が示されていないので、私なりの解釈だが、 
   自然や人材を浪費収奪して環境を破壊するなど人類社会を窮地に追い込む利益追求第一の資本主義の成長発展を止めて、経済成長を断念して、
   人間社会の安寧と幸せを増大させてゆくために、成長はしないが、経済の深化、質の向上を目指して、脱成長の「ラディカルで潤沢な」経済を追求すると言う事であろうか。
   GDP増大と言った従来の経済成長は求めないが、循環型の定常型経済であるから、経済の質を向上させて更に価値ある経済を構築すべきであるから、イノベーションは当然必要であり、反緊縮ではなく、新次元の「人新世の発展」が希求される。

   この「脱成長コミュニズム」論については、特に異論はなく出来れば理想的かもしれないが、例えば、「国家規模は勿論地球規模で、生産手段を自律的・水平的に共同管理する「(市民)営化」する」など一つをとっても実現は殆ど不可能であり、現実性に乏しいと思う。
   それに、ここでは、議論は避けるが、従来の資本主義からの脱却、成長志向の経済学の否定など不可能であり、軌道修正によって、経済社会の改革を目指すべきであろう。
   脱経済成長も悪くはないなあと思ったのは、日本の失われた30年。GDPは500兆円台を超えられずに、成長には見放された経済ではあったが、この間、国民生活の質や水準は随分上がった。

   さて、環境破壊対策などに対して、「グリーン・ニューディール」が議論されている。
   再生可能エネルギーや電気自動車など普及させるための大型財政出動や公共投資を行う新たな緑のケインズ主義、「気候ケインズ主義」だが、経済成長と環境負荷の「デカップリング」が難しく、それに、資本主義であるから脱成長にはならない。と准教授は否定する。
   人類の未来について多くの楽観論が出ているが、その多くは、最近では、ICTに依拠した「認知資本主義」に至るまで、科学技術の進歩、イノベーションに期待している。マルサスの亡霊も潰えたし、とにかく、科学技術の発展によって、これまで人類はすべての難局を乗り切って来たという自信と神頼みである。
   さて、永遠に人類社会が続いてゆくのか、それとも、茹でガエル状態で墓穴を掘るのか、
   終末時計、1秒進み 地球滅亡まで「残り89秒」 
   「最も危険な瞬間」が、そこまで近づいてきている。

   いずれにしろ、示唆に富んだ問題意識を喚起させてくれる本である。
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ジョセフ・ヘンリック (著)WEIRD(ウィアード)「現代人」の奇妙な心理 上

2025年02月15日 | 政治・経済・社会
   欧米人に典型的なWEIRD 以下の頭文字を綴ったもの
   ((W:Western(西洋の)/ E:Educated(教育水準の高い)/ I: Industrialized(工業化された)/R:Rich(裕福な)/ D:Democratic(民主主義の)))
   この普通ではない( Weird奇妙な)と著者が特定するWEIRDの心理を、経済的繁栄、民主制、個人主義の起源 を追求しながら浮き彫りにしてゆく、上下巻合わせて900ページに及ぶ大冊ながら、興味深い本である。

   さて、本筋からちょっと離れるが、私が、まず興味深かったのは、キリスト教会が行ってきた信者たちへの教化と権力集中の歴史である。
   歴史的にWEIRDの心理を形成してゆく過程において、宗教、この場合は、キリスト教の影響が大きく影響していることは自明の理であるが、その展開が興味深いのである。
   16世紀にレオ10世が財政難を切り抜けるために、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書贖宥状(免罪符)などその鬩ぎあいの典型だが、マルティン・ルターが『95ヶ条の論題』で 批判して宗教革命が起こった。 

   まず、キリスト教会が大成功を収めるに至った最大の要因は、婚姻や家族に関する禁止、指示命令、優先事項を定めた極端な政策パッケージにある。と言う指摘。
   キリスト教の聖典には(あったとしても)希薄な根拠しかないにも拘わらず、これらの政策は次第に儀式の覆いに包まれてゆき、説得,陶片追放、超自然罰の脅威、世俗的処罰といったあの手この手を組み合わせて、可能な限りあらゆる地域に普及していった。この教会の婚姻・家族政策は、緊密な親族ベース制度や部族的忠誠心を切り崩すことによって、個人を徐々に自らの氏族や家の責任、義務、恩恵から引き剥がし、その結果、人々が教会に身を捧げる機会が増え、教会自身の拡大を促進した。
   教会は、一夫多妻婚、取り決めによる結婚、血族間や姻族間でのあらゆる婚姻を禁ずることによって、社会技術でもあり、家父長権限の源泉でもあった婚姻の効力を劇的に削いだ。近親婚禁止のむいとこ婚禁止に至っては婚姻相手が居なくなるなど、この婚姻をめぐる禁忌事項や処罰が、国王や君主に至るまで情け容赦なく繰返されて、破門や財や資産が収奪され、最終的にヨーロッパ諸部族を消滅させた。と言う。
   
   また、興味深いのは、富める者は、教会を通じてその富を貧民に施すことによって、本当に天国へ行けるという説を広めて、それによって教会の金庫室を創設した。慈善の教えに加えて、相続権や所有権の変更を加えることで、教会の成長拡大が促され、その懐も潤った。慈善寄付の広まりは、高額の贈与がもたらす説得力によって、新たな信者を引き付けるとともに、既存の信者の信仰心を深める働きもし、同時に、こうした遺贈によって、激流のごとく収入が、教会に流れ込んできた。

   教会は、死や相続や来世を利用して、その財力を増して権威を築き続けてきた。と言うのである。
   
   何も、キリスト教に限った話ではなかろうが、教会と世俗社会との鬩ぎあいのような感じがして興味深かった。

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ホンダ・日産 統合破談に思う

2025年02月14日 | 経営・ビジネス
   13日、ホンダと日産自動車が、経営統合に向けた協議を打ち切り、昨年12月に締結した基本合意書を撤回すると正式に発表した。
   実現すればトヨタ自動車、独フォルクスワーゲンに次ぐ世界3位の自動車グループが誕生していた国内大手の再編劇はあっけなく幕を閉じた。

   統合話を聞いて最初に思ったことは、歴史も伝統も全く違った2社の統合話であるので、まず、コーポレートカルチュアを統一して一体とした経営体を確立できるのかどうかに疑問を感じた。
   できるはずがないので、統合するのなら、まず、ゆるい連邦方式の当初の持ち株会社形式で統合して、徐々に一体化して行かざるを得ないであろうと思っていた。

   案の定、浮上してきたのは、日産の子会社化案。
   当然である。
   対等な統合を求める日産と規模で勝るホンダの溝が埋まらず、統合の方式などの条件で折り合えなかった。 と言うのだが、
   13日の記者会見で、日産の内田誠社長は「自主性が守れるのか確信が持てなかった。子会社では日産の強みを出すのは難しい」と話したと日経が報じた。
   日本の自動車業界で最も権威のある歴史と伝統を築き上げて多くの金字塔を打ち立てて来た日産であるから、プライドの高さも良く分かる。
   しかし、こんな姿勢で統合に実を上げられる筈がなく、この期に及んで何をか況やである。

   私は、日産には、特別な思い入れがあり、泡沫に過ぎないが長い間の株主であり、ゴーンの時代には、株主総会にも行って懇親会も楽しんでいた。
   それに、1980年代後半から90年代初めまで、建設会社のヨーロッパ現地法人の社長をしていたので、日産の欧州本社や配送センターなどの工事を受注施工するなど随分お世話になった。
   当時、欧州本社ビルは大型の鉄骨ビルであったのだが、下請けのオランダトップの建設会社でさえ、鉄骨建築施工経験がなかった。大丈夫かと聞いたら、オランダは造船大国であり、鉄骨建造物に熟練しており、ビルなど横のものを立てれば良いのだから心配ない。と信じられないような会話を交わした思い出がある。素晴らしいビルが立ち上がったのは勿論である。
   当時の日産は、成功を謳歌してヨーロッパで快進撃、
   光り輝いていた。
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ビゼー:歌劇≪カルメン≫ウィーン国立歌劇場1978年

2025年02月12日 | クラシック音楽・オペラ
   ビゼー:歌劇≪カルメン≫ウィーン国立歌劇場1978年 をDVDで観た。
   指揮 :カルロス・クライバー 
      ウィーン国立歌劇場管弦楽団,
        ウィーン国立歌劇場合唱団,ウィーン少年合唱団
      ウィーン国立歌劇場バレエ団 
   演出:フランコ・ゼッフィレッリ
   ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ, 
   カルメン:エレーナ・オブラスツォワ, 
   エス・カミーリョ:ユーリ・マズロク 
   と言うこれ以上望み得ないほどの夢のような凄い布陣である。
   殆ど半世紀前の1978年の舞台ながら、画像は少し鮮明さには欠けるが、ブルーレイで鮮やかにカルメンの世界を現出して楽しませてくれた。
   とにかく、クライバーもドミンゴも若くて颯爽としている。

   さて、結構、これまでに、カルメンの舞台を観ている筈なのだが、
   強烈に印象に残っているのは、ロンドンのロイヤルオペラで観たアグネス・バルツァのカルメンと大病前のホセ・カレーラスのドン・ホセの舞台。
   カルメンが最初に登場する場面。バルツァが、舞台の左手からメス豹のように野性的で精悍な姿で二階の回廊に躍り出る劇的なシーン、ハバネラを歌う。
   それに、自由奔放かって気ままなジプシー女を一途に愛して、運命に翻弄されながら 必死になってカルメンをかき口説くカレーラス、
   もう一つ忘れられないカルメンの思い出は、フィラデルフィアでの、ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのマリア・カラスの最後のフェアウエル・コンサート、
   最後に、マリア・カラスは、カルメンの第4幕の幕切れ直前のホセと諍いナイフで殺される劇的なシーンを、あの精悍で美しい凍りつくような表情で歌いきった艶姿。 

   ところで、このクライバー版の「カルメン」、実に素晴らしい舞台である。
   まず、ゼッフィレッリの演出・舞台・衣装であるから、定番のイタリア舞台ほどの擬古的華麗さはないが、微に入り細に入り実に入念な演出のために非常に美しくて細部に至るまでナラティブで、随所にちりばめられたフラメンコなども感興をそそり、ムンムンとしたスペインムードに引き込まれてゆく。
   カルメンのロシアのメゾ・ソプラノ:オブラスツォワは、全く聴いたことがなかったので新鮮な印象だが、1977年12月に、スカラ座200周年のシーズンのオープニング公演『ドン・カルロ』で、アバドの指揮の下、エボリ公女を演じたというから、このテレビ用プロダクション「カルメン」は、欧米への登場初期の偉業だったのであろう。バルツァのような突っ張った女ではなく女性を感じさせる個性的な骨太の演技と風貌で、目の表情が豊かで、歌唱演技ともに気負いなくエキゾチックなジプシー女を表出していて興味深い。
   ドミンゴのホセは、カレーラスのイメージとは違うが、随分若くて重厚感が増す前の初々しい舞台であったので、まさに打って付のホセと言う感じで、とにかく、絶好調の素晴らしい歌唱が感動的。第一幕のカルメンとドン・ホセの長い二重唱 「花の歌」の後の熱狂した観客の怒号のような激しいカーテンコールが鳴りやまない。
   エス・カミーリョのユーリ・マズロクは、ロシアの名バリトンで、ボリショイ劇場を中心に活躍し、1970年代は「エフゲニ・オネーギン」の歌唱で一世を風靡 したという。なかなか板についた伊達男の闘牛士で、同じロシア人の オブラスツォワとは相性が良かったのであろう。
   私は、ずっと昔に、マドリードとメキシコ・シティで、闘牛を見ているので、第4幕を見ながら熱狂ぶりを思い出して懐かしくなった。




   指揮のクライバーは、カラヤンやバーンスタインなど殆ど聴いているのだが、唯一舞台で聴いたことのない往年の名指揮者で憧れであった。
   若々しくて紳士然とした踊るような美しい指揮姿が印象的で、カルメンの登場時の躍り上がる迫力は満点であり、緩急自在のメリハリの利いた流麗な指揮スタイルは見ているだけでも楽しい。
   とにかく、極め付きの映像芸術!
   クライバーあっての感動的な「カルメン」である。


   

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PS:ジョセフ・ナイ「グローバリゼーションに未来はあるのか?Does Globalization Have a Future?」

2025年02月10日 | 政治・経済・社会時事評論
   プロジェクトシンジケートのジョセフ・ナイ教授の論文「グローバリゼーションに未来はあるのか?Does Globalization Have a Future?」
   グローバリゼーション」というと、一般的には長距離貿易や移住のイメージが思い浮かぶが、この概念には健康、気候、その他の国際的相互依存も含まれている。皮肉なことに、反グローバリストのアメリカは、トランプ政権下で、このグローバリゼーションの有益な形態を制限し、有害な形態を増幅することになるかもしれない。と言うのである。

   グローバリゼーションとは、単に大陸間の距離における相互依存を指す。ヨーロッパ諸国間の貿易は地域的な相互依存を反映しているが、ヨーロッパと米国または中国との貿易はグローバリゼーションを反映している。トランプ米大統領は、国内産業と雇用の喪失の原因であるとして、中国に関税を課すことで、世界的な相互依存の経済的側面を減らそうとしている。
   経済学者は、その損失のどれだけが世界貿易によって引き起こされたかを議論していて、いくつかの研究では、外国との競争により何百万もの雇用が失われたことが判明しているが、それが唯一の原因ではない。多くの経済学者は、より重要な要因は自動化であると主張している。こうした変化は全体的な生産性を高める可能性があるが、経済的な痛みも引き起こすため、ポピュリストのリーダーたちは機械よりも外国人を責めやすいと考えている。

   彼らは移民も責める。移民は長期的には経済に良いかもしれないが、短期的には破壊的な変化の原因として描かれやすい。アフリカからの人間の移住はグローバリゼーションの最初の例で、米国や他の多くの国も同じ基本的な現象の結果で、これらの国が建設されるにつれて、以前の移民は新参者の経済的負担と文化的非適合性についてしばしば不満を述べた。そのパターンは今日も続いている。
   移民が急速に増加すると、政治的な反応が予想される。近年のほぼすべての民主主義国で、移民は現政権に異議を唱えようとするポピュリストにとって頼りになる攻撃問題となっている。これは、2016年と2024年のトランプの当選の重要な要因であった。これが、ほぼすべての民主主義国におけるポピュリストが、グローバリゼーションの拡大とスピードの加速の所為にして自国のほとんどの問題を貿易と移民が原因だとして反発している理由である。貿易と移民は確かに冷戦終結後に加速した。政治的変化と通信技術の向上により経済の開放性が高まり、資本、商品、人の国境を越えた流れのコストが低下したためだが、現在、ポピュリストの影響力が高まっているため、関税と国境管理によりこれらの流れが抑制される可能性がある。

   しかし、経済のグローバリゼーションの逆転は、以前にも起こっている。 19 世紀は貿易と移住の急激な増加が特徴だったが、第一次世界大戦の勃発とともに急停止した。世界総生産に占める貿易の割合は、1970 年近くまで 1914 年の水準に回復しなかったのである。
   現在、一部の米国の政治家が中国との完全な分離を主張しているが、再びそうなる可能性はあるであろうか。安全保障上の懸念から二国間貿易は減少するかもしれないが、年間 5,000 億ドル以上の価値がある関係を放棄するコストを考えると、分離は起こりそうにはない。しかし、「起こりそうにない」ことは「不可能」と同じではなく、たとえば、台湾をめぐる戦争は、米中貿易を急停止させる可能性がある。
   いずれにせよ、グローバリゼーションの将来を理解するには、経済の枠を超えて考える必要があり、軍事、環境、社会、健康など、地球規模の相互依存には他にも多くの種類がある。戦争は直接関わる者にとって常に壊滅的なものであるが、COVID-19パンデミックによって亡くなったアメリカ人の数は、アメリカのすべての戦争で亡くなったアメリカ人の数よりも多いことを忘れてはならない。

   同様に、科学者たちは、今世紀後半には地球の氷床が溶け、沿岸都市が水没し、気候変動が莫大なコストをもたらすと予測している。短期的にも、気候変動はハリケーンや山火事の頻度と激しさを増している。皮肉なことに、私たちは利益をもたらすタイプのグローバリゼーションを制限しつつ、コストしかかからないタイプのグローバリゼーションに対処できていないのかもしれない。第2次トランプ政権の最初の動きの1つは、米国をパリ協定と世界保健機関から脱退させることだった。
   では、グローバリゼーションの未来はどうなるのか? 人間が移動可能で、通信および輸送技術を備えている限り、長距離の相互依存関係は現実であり続けるであろう。結局のところ、経済のグローバリゼーションは何世紀にもわたって続いており、そのルーツはシルクロードのような古代の貿易ルートにまで遡る(中国は現在、これを地球規模の「一帯一路」インフラ投資プログラムのスローガンとして採用している)。
   15 世紀には、海洋輸送の革新により大航海時代が到来し、その後、今日の国境を形作るヨーロッパの植民地化の時代が続いてきた。19 世紀と 20 世紀には、蒸気船と電信によりそのプロセスが加速し、産業化により農業経済が変革した。現在、情報革命によりサービス指向の経済が変革している。

   インターネットの普及は今世紀の初めに始まり、今では世界中の何十億もの人々が、半世紀前なら大きな建物 1 棟分を占めていたコンピューターをポケットに入れて持ち歩いている。AI が進歩するにつれ、グローバル コミュニケーションの範囲、速度、量は飛躍的に増大する。
   世界大戦により経済のグローバル化は逆転し、保護主義政策によりそのペースが遅くなり、国際機関は現在進行中の多くの変化に追いついて来れなかった。しかし、テクノロジーがある限り、グローバル化は続くであろう。ただし、有益なものではないかも知れない。

   以上がナイ教授の論旨の概要だが、かなり控え目の論調である。
   ポピュリスト旋風の台頭で、貿易と移民に対する反グローバリスト運動が勢いを増し、その延長線上で、結果的に、トランプが当選した。と言う事であろうか。
   トランプの「MAGA」、アメリカファーストなどは、反グローバリズムの典型であろうが、保護貿易主義を取りながら、世界中から積極的に投資だけは呼び込んで、国内産業を強化しようとしている。しかし、国際間の投資も国際貿易も一体であり、国際経済の裏表であるから、一方だけ有効に機能するはずがないので、いずれ破綻する。
   保護貿易は、途上国が、揺籃状態の自国企業を発展段階まで保護する常套手段ではあったが、現代のアメリカのように、疲弊して競争力をなくした賞味期限切れの企業を、関税や保護政策を策して再生を図るなど不可能であり愚の骨頂である。
   反グローバリゼーションは、自由貿易の退潮を招いて国際経済を縮小させるのみならず、国際的な自由貿易からの離脱は、アメリカのイノベーション能力を棄損するなど国際競争力を弱体化させるのは必定であり、結局、アメリカの黄昏を早めるだけであろう。
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斎藤 幸平 (著)ゼロからの『資本論』(1)

2025年02月09日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   『人新世の「資本論」』を読んで、興味を持ち、毛嫌いしてそっぽを向いていたマルクスの「資本論」を、斎藤准教授の新解説で勉強してみようと手にした。
   新・マルクス=エンゲルス全集(MEGA)の編集経験を踏まえて、“資本主義後”のユートピアの構想者としてマルクスを描き出す。最新の解説書にして究極の『資本論』入門書!と言う本である。

   ケインズは、資本主義が発展してゆけば、やがて労働時間は短くなる。21世紀最大の課題は、労働時間や労働環境ではなく、増えすぎた余暇をどうやりすごすかだ、と予言した。
   たしかに、資本主義の発展に伴い技術革新が進み、世界の総GDPは急カーブで上昇し、世界は様変わりして、今や、ロボット開発やAI研究が進みChatGPT (チャットGPT) の時代になったが、
   しかし、現実は労働時間が減るどころか、過労死さえ常態化しており、世界の労働環境は悪化を辿っている。
   資本は価値の増殖運動であり、イノベーションを展開して生産性をアップして剰余価値を追求するのが資本主義である。また、このイノベーションは、労働者に対する「支配」の強化によって効率的に働かせるための「働かせ方改革」として作用しているので、ケインズの予想が当たる筈がない。と言う。

   生産性が上がれば上がるほど、労働者はラクになるどころか、資本に「包摂」されて自律性を失い資本の奴隷となる、とマルクスは指摘しているという。
   ここで、斎藤准教授は、「新陳代謝」論を展開。
   本来、人間の労働は、「構想」と「実行」、すなわち、作品を構想する精神的労働と作品を制作する肉体的労働が統一されたものであったが、資本家は、資本主義の下で生産が高まると、両者を分離して構想力を削ぎ労働者は「実行」のみを担うこととし、同時にギルドを解体するなどして、労働者の主体性を奪って単純労働しか出来ないようにした。
   20世紀初頭の「科学的管理法」のテイラー主義などその最たるもので、分業化された流れ作業を細分化して、各工程の動作や手順、所要時間を分析して標準作業時間を確定して、作業の無駄を徹底的に省いたというから、労働者は単なるスペアパーツに成り下がったと言えよう。
   よく考えてみれば、現代の労働者や高級知的職種・専門職と言えども、利益増殖至上主義の資本主義の現代版テイラーシステムの歯車に組み込まれて、それが生き甲斐だと思って必死になって働いている働きバチに過ぎないのではなかろうか。

   さて、今回は労働の問題について論じただけだが、利潤追求、富の増殖を求めて驀進する資本主義が素晴らしいものだと、殆ど疑いもなく信じていたが、これほど、労働者を非人間化して人格を奪い、かつ、内外共に経済格差を深刻化させ、地球温暖化や経済の外部性を軽視して宇宙船地球号を窮地に追い込んでいる。

   この本を読んでいて、マルクス経済学はともかく、私が学び続けてきた経済学や経営学、特に、経済成長発展論や経営戦略論、イノベーション論など資本主義促進ドライバーは、人間をどんどん窮地に追い込むための学問ではなかったのであろうか、
   とフッと不安が過ったのは事実である。
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納富 信留 (著):プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解

2025年02月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   東大のテンミニッツTV講義録の納富 信留教授の「プラトンが語る正義と国家 不朽の名著・『ポリテイア(国家)』読解」
   プラトンの大部の「国家」を読まずに、手っ取り早く、解説書を読むことにした。 

   政治劣化、宗教紛争、多様化しすぎた価値観・・・混迷の時代に読むべき「史上最大の問題作」自分が変わる驚愕の書。ハーバード、MITなど全米トップ10大学の「必読書第1位」と言うのが、このプラトンの『ポリテイア(国家)』。
   この本の主題は、「正義とは何か?」
   「正義はそれ自体として行うに値する、素晴らしいことである。それは結果が伴っても伴わなくても素晴らしいことだ。」「私たちは、正義がそれ自体として魂それ自体にとっても、もっとも善いものであると言う事を見出した。魂は正しい物事を為すべきだ、そう分かったのだ。」とソクラテスは説いた。
   この本の本当のテーマは、「魂(プシューケー)」で、ポリスにおける正義・不正をみることで、類比的に、人の魂を」考察していると納富教授は言う。

   ところで、私自身が、このプラトンの「国家」で知っていたことは、ただ一つ、「哲人政治」である。
   哲学者が訓練を積んで国を支配する。あるいは政治家が真正に哲学をする。「その2つのどちらかが成り立たない限り、人間にとって不幸は終わらない。」と言う理論である。
   実際に哲人政治をするためには、初等教育から高等教育に至る哲学者教育を全部経た人たちで、最後に残った信頼できる人に政治を任せなくてはいけないと言うのである。

   ところで、この哲人政治論が、20世紀には全体主義のシンボルとなって、ナチズムや軍国主義の人たちが「自分たちは哲学者だ」と語って政権を握り、プラトンの趣旨をまったく損ねるような政治を行った悲しい歴史がある。
   哲人政治の「理想的なポリス」が、人間の「欲望」限定的には「金銭欲」、そして、「分断(スタシス)」「内乱」によって、「優秀者支配制」から「僭主制」へと堕落崩壊してゆく過程を5段階に分けて分析している。
   最後の「民主制」と「僭主制」については、現代に通じる貴重な示唆を与えてくれているので、プラトンの「国家」を読んでから考えてみたい。

   さて、今日、石破首相とトランプ大統領の首脳会談が行われる。
   哲人政治を考えると、非常に興味深い。 
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平安な日常生活がどれ程有難いか

2025年02月05日 | わが庭の歳時記
   私は、寒いけれど、天気の良い日には庭に出てひと時を過ごす。
   咲いている花木や訪れてくるメジロやシジュウカラと対話をするのである。
   時には、シベリアから来たジョウビタキが、木々をはしごする。

   紅梅に遅れて、白梅も咲き始めた。
   綺麗な花がびっしりと咲いているので、今年は梅も豊作かもしれない。
   


   日本スイセンも咲いている。
   ヤツデも蕾を開き始めた。
   まだ、椿はタマグリッターズだけだが、タマアメリカーナやタマカメリーナなどのタマ兄弟が色づいてきている。
   





   さて、私は、江の島にほど近い鎌倉の片田舎で、明るい陽光を楽しみながら平安なひと時を過ごしているが、日本の各地では、異常な厳寒で大雪のために大変だというニュースが、連日テレビのトップで、報道されている。
   先の大地震以降、幸い、被害から遠ざかっているので、助かっているのだが、つくづく、平安な日々の幸せをかみしめている。

   中東やウクライナの紛争、アフリカやミャンマーの内戦、アフガニスタンや多くの独裁専制国家での抑圧された人々の苦しみ、そして、飢餓状態にある貧困国家の人々、
   いや、そんな目に見える状態だけではなく、我々の身近にも、色々な不幸や運命の悪戯、ボタンの掛け違いや心の迷い等々、自分には責任のない色々な原因が悪さをして悩み苦しんでいる人々が沢山いる。
   その不幸を思うと、自分自身、必ずしも問題なく万々歳とは言えない身ではあるので、中くらいの幸せだと思うけれど、平々凡々だが85歳の平安な老いの生活も、まあまあと言う感じで過ごせているのが無性に有難く嬉しい。

   この鹿児島紅梅、
   オリジンは鹿児島であり、何かの縁で、わが鎌倉の庭に咲いている。
   春の息吹が胎動し始めると、毎年、無心にきれいな花を咲かせて喜ばせてくれる。
   しかし、ガザやウクライナの路傍の花を思うと、胸が痛む。

   運命は、どうしようもないものなのであろうか、それとも、自分で変えられるものなのであろうか、この歳になって考え込んでいる。
   


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バルセロナの市民参加型の市政

2025年02月03日 | 政治・経済・社会
   先日、斎藤 幸平 (著)人新世の「資本論」のブックレビューで、「脱成長コミュニズム」 への道程で、バルセロナでの脱成長社会を目指す「経済モデルの変革」、すなわち、資本主義の終わりのない利潤競争と過剰消費が気候変動の元凶だと糾弾して気候非常事態宣言を発して、国家が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体「フィアレス・シティ」の先陣を切った最先端のモデルケースであると紹介した。
   市民参加型の「脱成長コミュニズム」である。

   これに呼応したような記事が、日経日曜版に、掲載された。
   「人に優しいスマートシティー、バルセロナが問う未来の街 NIKKEI The STYLE」である。

   住民がオンラインで政策決定に参加する仕組み「デシディム」。提案を書き込めば市の担当者から実現可能性などの返信が必ず来る。書き込みを見た別の住民が「いいね」を付けたり、「こういう方法もあるのでは」などとオンライン上で議論したり。全人口170万人のバルセロナで約15万人が利用する。 
   使い方も日々進化していて、20年からは4年に1度、3千万ユーロ(約50億円)の使い道をデシディム上の投票で決める「参加型予算」も始まった。公園の改修や街の緑化など、住民の書き込んだ要望を投票で絞り込む。
   デシディム以外にも住民が街づくりに参加するためのオンラインシステムが増えた。例えば「イリス」は「通りのごみ箱があふれている」など、その場で写真を撮って市にクレームを投稿できる。
   底流に流れるのは「街を良くしよう」との気風。今日のこのバルセロナの気風は、フランコ独裁政権末期のムーブメントが淵源である。1975年まで続いたフランコ政権下でバルセロナは冷遇され、信号や学校などインフラが不足していて、集会の自由も制限されていたが、祭りの準備などと見せかけて住民集会を開いて話し合い、結束して少しずつ街を良くしていった。
   テクノロジーの発達によってデシディムなどの仕組みが整い、昔より誰もが簡単に政策に意見を言えるようになり、議事録など情報にもアクセスしやすくなった。バルセロナに根付いた住民参加の文化がテクノロジーによってさらに進化した。のである。

   バルセロナを訪れたのは、もう、3~40年も前のことで、ガウディの建築物やフラメンコ、市場の賑わい、オペラ鑑賞くらいしか覚えていないが、エキゾチックな素晴らしい多くの観光資源に恵まれたスペインでも、特異な観光地市であった。
   このカタルーニァ地方は、言葉も違うし独立意識の強いところで、スペインと一線を画した政治文化文明、
   どこまで、集権意識の強いマドリード政府に抗し得るのか、興味のあるところである。

(追記)口絵写真は、ウィキペディアから借用。
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