熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

16・モーツアルト200(2)

2021年02月10日 | 欧米クラシック漫歩
   モーツアルト200は、ロンドンでもそれなりに、盛大に行われていた。
   私は、モーツアルトの命日の翌日の12月5日に、バービカン・ホールへ、ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団のモーツアルトのレクイエムを聴きに行った。早くからチケットはソールドアウトで、4日に追加公演が売り出されたがこれもすぐに売り切れて大変な前人気であった。
   ソプラノはジョーン・ロジャース、メゾソプラノはキャスリン・クールマン、テノールはジョン・マーク・エィンズレィ、バスはグイン・ホウエル、合唱はタリス室内合唱団で、非常に厳粛なムードの演奏であった。テイトが、タクトを静かに下ろして瞑目すると長い黙祷の沈黙が続く。そして、割れるような拍手。 
   このレクイエムの前に、モーツアルトのクラリネット協奏曲K622がテァ・キングのソロで演奏された。
   この作品は、殆ど亡くなる寸前に、それも病苦に悩み不幸のどん底で作曲された作品でありながら、最も天国の音楽を感じさせる素晴らしい曲で、神が、モーツアルトの姿を借りて作曲したとしか思えないほど美しい。
   私は、モーツアルトの協奏曲の中でも、この曲とフルートとハープのための協奏曲が好きで、キューガーデンの自宅とサビル・ロー通り近くの事務所までの行き帰りの車の中で、聞き続けていた。

   MOZART200では、ヨーロッパの主要都市で、一年中、モーツアルトの音楽のコンサートが開かれていた。
   ロンドンでは、先のイギリス室内管弦楽団のジェフリー・テイト指揮、内田光子ピアノのモーツアルトのピアノ協奏曲のコンサートの人気が高かった。しかし、実際の演奏会には、内田光子単独の指揮・ピアノの演奏会の場合が多かったように思う。
   私が出かけたのは、バービカン・ホールでの、ホルン協奏曲と内田光子の指揮・ピアノで、ピアノ協奏曲第15番と第19番であった。丁度、この第19番は、BBCでオンエアーされた直後に聴いたので、その美しさに感激した。
   ピアノ演奏の時には、あの能面のように美しい顔が百面相のように表情豊かに変化するのだが、指揮をするときには、やはり、日本女性を思わせる優しいアクションで、特に、手の動きが実に柔らかである。
   私が感激するのは、内田光子の素晴らしさは当然として、イギリス室内管弦楽団の質の高さとそのサウンドの美しさである。
   このバービカン・ホールで、ロンドン交響楽団をはじめとして随分色々なオーケストラを聴いてきたが、本当に美しいと思って聴いたのは、この楽団だけだったような気がしている。

   ロイヤル・オペラも、ロンドン交響楽団やフィルハーモニアなども、メンバー・チケットを持って通っていたので、それぞれがMOZART200のプログラムを組んでいたはずなので、出かけて行ったと思うのだが、メモが残って居ないので、ここには何も書けない。
   倉庫には、当時のパンフレットやプログラムなど残っているので、探せばよいのだが、到底無理なので、後日に書いてみたいと思う。
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15・モーツアルト200(1)

2021年02月08日 | 欧米クラシック漫歩
   1991年は、モーツアルト200と言うことで、世界各国でMOZART200の催しや演奏会などが行われて、音楽会はまさにモーツアルト一色であった。
   12月5日の命日には、各地で、モーツアルト未完のレクイエムが演奏され、BBC TVでは、この日の深夜にかけてセントポール寺院での演奏会が放映されて、アナウンサーが、丁度このレクイエムの演奏が終った時刻の200年前にモーツアルトが亡くなったと説明していた。
   同じくBBCが、この日、オーストリア放送協会の録画で、ウィーンのステファン教会でのモーツアルト追悼のミサとゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニーのレクイエムを放映した。まさに、モーツアルトは、この教会でミサを受けて、共同墓地に埋葬されたのである。

   ところで、この教会からウィーン国立歌劇場に向かう大通り、ショッピング街として最も有名な目抜き通りケルントナー通りに、モーツアルトが亡くなったと言われている場所がある。開発物件として市場に出ていて調査に行ったのだが、勿論、元の建物ではなく戦後の新築で、その少し前には、ステッフェル百貨店として賑わっていた場所で、解体前であったので、店が流行っていた頃には客に語りかけていたはずのモーツアルトのコンクリートの彫像が、空しく床の上に転がっていた。モーツアルトが、実際に亡くなったのは、この建物の裏通りに面した部分であったと言う。

   ケルントナー通りよりも、この裏通りの方が、何となく古いウィーンを感じさせ、建物の合間から、ステファン教会の屋根や尖塔が見える。この通りはレストランや酒場やナイトクラブなどが並んでいて、ショーウインドウや店の中には、所狭しと有名人の写真がディスプレィされていて、当然、パバロッティやドミンゴ、フレーニなどのスナップも混じっている。ミラノ・スカラ座の裏通りにあった楽器店の慎ましやかで品のあったヴェルディの写真などのディスプレィとのその落差が面白かったが、夜に繁華街として賑わう町並との差であろうか。
   このあたりの雰囲気は、何となく、映画の「アマデウス」の舞台を彷彿とさせるのだが、この映画が実際に撮影されたのはこのウィーンではなく、チェコのプラハである。共産主義体制で貧困状態のまま年月を経て、開発から見放されて戦前のまま維持されていたので、廃墟のようにくすんで寂れてはいたものの、随所に中世の都市景観が残っていて、痩せても枯れても、鯛は鯛、二重帝国ハプスブルグ王朝の首都プラハの面影は、そのまま残っていてモーツアルト映画の格好の舞台だったのである。私は、ベルリンの壁が崩壊した直後と、その後、大分経ってから復興なったヴェルディ・イヤーの年と、プラハを2度訪れているが、色々歩いた都市の中で、世界で最も美しい古都だと思っている。

   さて、このモーツアルトの住居から少しオペラハウスに向かったところに、ホテル・カイザーリン・エリザベートがあり、ワーグナーが定宿にしたと言う非常にシックなホテルで、1973年に家族と初めて泊まって以来、家族とウィーンに行くときには必ず泊まっていた。しかし、一人で行くときには、当然、夜はオペラなので、国立歌劇場の裏手のホテル ザッハー ウィーンに泊まっていた。

   ウィーン楽友協会横のクンストラー・ハウスでMOZART200展が開催されていた。仕事の合間だったので、長居は出来なかったが、大部分はパネルによる展示で、その場所の展示にマッチした音楽がスピーカーで流されていた。もう少し丹念に見て、資料なりパンフレットなり記録となりそうなものを取得しておくべきだったと後悔したが、後の祭りであった。
   この年、何度かウィーンに出張してきていたので、夜は、千載一遇のチャンスで、オペラ座に通った。ヴェルディの「ファルスタッフ」、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」、そして、モーツアルトはこれだけだったが「コシ・ファン・トゥッテ」。「ボリス・ゴドノフ」は、、まったく同様の演出の同じ舞台をロイヤル・オペラでも観たのだが、なぜか、ウィーンの方が印象に残っている。タイトルロールを歌ったロバート・ロイドが良かったのか、指揮のクラウディオ・アバードが良かったのか、オーケストラや劇場が素晴らしかったのか。
   いずれにしろ、モーツアルト200で、最も華やぐのは、フルサト・ウィーンであろう。

   ロンドンでのMOZART200は、次回に回したい。
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14・ロンドン交響楽団の「ドイツ・レクイエム」

2021年02月01日 | 欧米クラシック漫歩
   ロンドン交響楽団は、四年間、会員権を維持して、バービカン・ホールに通っていたので、色々な思い出がある。しかし、記録に残しているのは僅かで、メモの残っている「ドイツ・レクイエム」の時のコンサートについて書いてみたい。
   口絵写真は、ウィキペディアからの借用で、本拠地バービカンセンター・ホールのロンドン響で、ホールに隣接してRSCのシェイクスピア劇場が併設されていたので、ここには足繁く通った。

   1993年6月某日 この日の演奏会は、アンドレ・プレヴィン指揮・ピアノで、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番、そして、ブラームスのドイツ・レクイエムで、ソリストは、ソプラノ・シルビア・マクネール、バリトン・トーマス・アレン、コーラスはロンドン・シンフォニー・コーラス。
   この合唱団は、ロンドン響の定期で、ヘンデルのメサイア、マーラーの第3、ベートーヴェンの第9、ブリテンのウォー・レクイエム等結構聴く機会があったが、素晴らしいコーラスである。当時、この合唱団で、アバード指揮ベルリン・フィルのドイツ・レクイエムのCDが出ていて、車の通勤中などで聴いていたが、やはり、実演の迫力は何物にも代えがたい。

   マクネールは、前年、ロイヤル・オペラで、EC統合を記念して上演されたロッシーニの「ランスへの旅立ち」で、ギリシャの女神コリーナを歌ったのだが、その素晴らしい歌唱に魅了されてしまった。舞台中央の高みに設えられた小さな円形の神殿の奥のベールの影から、限りなく美しい女神の声が天国から聞こえてくる・・・丁度そんな感じであった。それに色白の美人で、白いギリシャのチュニクがぴったり合っていて容姿の美しさを際立たせていた。
   このオペラは、よく知らなかったので、ホテルの女主人を歌うモンセラ・カバリエを聴くつもりで行ったのだが、このマクネール以外にも役者が揃っていて、ヨーロッパ各国を代表する登場人物が、恋物語を織りなしながらコミカルに舞い歌う、まさにお祭り気分のカラフルな舞台で、鳴り物入りのEC統合を祝賀するうってつけのオペラであった。
   マクネールは、グラインドボーンで、ストラビンスキーの「道楽者のなりゆき」にアン役で出ていたが、奇天烈な登場人物の中にあって、一人だけ場違いに綺麗な人が出ているなあと思った記憶があるのだが、これが最初で、コベントガーデンでも何回か聴いており、CDも買った。
   この日のマクネールは、白く光り輝くイブニングドレスのようなしっとりとした衣装を身につけて、ヘアーはアップしてうなじを出すスタイルだが、プログラムの写真もそうなので、好きな髪型なのかも知れない。出だしは少し重かったが、天国の母が、ブラームスに優しく語りかけているような、そんな美しい声であった。ハイティンクが、ベルリン・フィルとのマーラーの交響曲のソリストにマクネールを起用したのが良く分かる。
   私の私見だが、これまで聴いたソプラノの中で、マクネールは、キャサリン・バトルに並んで、美しい声を持つ魅力的な歌手だと思っている。余談だが、バトルは、METと悶着を引き起こして、なぜ、素晴らしい将来を棒に振ってしまったのか、残念だが、マリア・カラスとは桁が違っていたと言うことであろうか。

   さて、トーマス・アレンは、英国の誇るバリトン。何回も、コベントガーデンで聴いているが、最初に彼を聴いたのは、半世紀も前になるが、東京のロイヤル・オペラ公演のモーツアルトの「魔笛」で、パパゲーノを歌っていた時。大柄で一寸馬力のあるパパゲーノで、上からパンやワインの入ったバスケットが下りてくるシーンで、アドリブで「オサシミ!」、と大きな声を出したので、観客が沸いていたのを覚えている。
   ロイヤル・オペラでは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵と「ドン・ジョバンニ」のタイトル・ロールを思い出す。アレンは、ハンサムで舞台姿がダンディで見栄えがして藝が上手いので見ていて楽しい。可愛いマリー・マクローリンを口説く好色な伯爵、キリ・テ・カナワに迫られてこそこそ逃げていくドン・ジョバンニと、それぞれ貴族の威厳を保ちながらの演技で、流石に、シェイクスピアの国の歌手だけあって、観客の目が厳しい所為もあるのであろう、藝が抜群に上手い。勿論藝だけではなく、歌唱もトップクラスなので、ミラノ、ウィーン、ミュンヘン、ザルツブルグ、METと引く手数多である。
   この日は、ホワイト・タイの正装で、全く直立不動の超真面目スタイルで歌っているので、オペラの舞台とは全く違う。幾分重々しくて太い声で歌う、レクイエム・モードである。これは、私だけの印象かも知れないのだが、このシーズン、ロイヤル・オペラで、サミュエル・レイミーの「ファウストの劫罰」と「アッチラ」を観たのだが、モーツアルト専科に近いアレンにも、このレイミーのような、あるいは、ルッジェロ・ライモンディのように、少しアクの強い性格的なレパートリーが欲しい。切々とドイツ・レクイエムを歌うトーマス・アレンの歌を聴きながら、そんなことを思った。当時、ロンドンに居たときに、BBCで、原作と同じ場所で同じ時間に「トスカ」が演じられて放映され、ドミンゴとマルフィターノと共に歌ったスカルピア男爵のライモンディの凄さに圧倒されたのだが、あの迫力が、アレンのドン・ジョバンニに少しでもあったらと思ったのである。

   アンドレ・プレヴィンは、多才多芸な音楽家で、ジャズピアノも良くし、ハリウッドの映画音楽などの作曲家で、クラシックの指揮のみならず室内楽の演奏も積極的。
   モーツアルトのピアノ協奏曲はお手の物としても「ドイツ・レクイエム」を、感動的に歌わせるなど流石である。勿論、世界中の名だたるオーケストラを客演しており、ピエール・モントゥーに指揮法を学び、ロンドン響の指揮者を長く務めており、当然のこと、オーケストラとも呼吸ピッタリで、終演後も、素晴らしいサウンドの余韻が覚めやらなかった。
   このアンドレ・プレヴィン、女優のミア・ファローやヴァイオリニストのアンネ=ゾフィー・ムターらと結婚したという映画音楽のような華麗な人生を送ってきている。
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13・アムステルダム・コンセルトヘボウの思い出(2)

2021年01月25日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、通算4年間ほど、定期コンサートに通い詰めたコンセルトヘボウだが、2年間通ったフィラデルフィア管弦楽団と同じように、お馴染みのオーケストラという感慨があって懐かしい。

   私が最初に聴いたコンセルトヘボウの演奏会は、アムステルダムに来た年にはチケットが取れなかったので、翌年のサマー・コンサートであった。
   どちらかと言えば、カラフルで明るいフィラ管とは違った重厚でどこか暗い感じのサウンドが印象的だったが、一番驚いたのは、演奏が終ると、観客が総立ちになってスタンディング・オベーションすることで、ハイティンク指揮のみならず、他の指揮者の時にもそうなので、オランダの観客の常だと言うことが分った。

   私が、シーズンメンバー・チケットを持って通っていた途中で、ハイティンクが、ロイヤルオペラへ転出してしまったので、イタリア人のリカルド・シャイーが、その後を継いだ。
   当時、カルロ・マリア・ジュリーニも健在であったし、クラウディオ・アバード、リカルド・ムーティ、ジュゼッペ・シノーポリと言ったイタリア人指揮者が人気を博しており、トスカニーニ以来の盛況であった。
   シャイー指揮で、チャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたのだが、特に異質感はなく、美しいサウンドで感動したのを覚えている。
   このオランダは、フィリップスの本拠地でもあり、シャイー指揮コンセルトヘボウでCDが発売されていたが、シャイーに変ってから、サウンドに明るさと輝きが出てきたと言われていたが、演奏の幅と多様性に豊かさが出てきたように感じた。
   尤も、オイゲン・ヨッフム、クラウス・ティーンシュテット、ニコラス・アンノンクルト、ウォルガンク・ザバリッシュなどのドイツ系の指揮者の客演指揮も多くて、やはり、このオーケストラは、ゲルマンで、ベートーヴェン、モーツアルト、ブラームス、シューマン、それに、ワーグナー、マーラー、ブルックナー、シュトラウスと言ったドイツ系のプログラムとなると実に感動的な演奏を聴かせてくれる。
   亡くなる少し前に、ヨッフムが、ブルックナーの交響曲第5番を演奏して感動したり、ザバリッシュのブラームスのピアノ協奏曲と交響曲の演奏会で、フィラデルフィアでの思い出が蘇ってきたり、倉庫に紛れてしまっている当時のプログラムを探し出して見れば、涙が零れるかも知れない。
   やはり、オーケストラも観客も一番熱狂するのは、ハイティンク指揮のコンサートで、私の一番印象に残っているのは、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」で、ソプラノのルチヤ・ポップしか覚えていないのだが、欧米で聴いた数少ない「合唱」であった。一連のマーラーが凄かったが、その後、伝統であったオランダ出身の指揮者が育っていない。

   ところで、今でも強烈な印象が残っていて忘れられないのは、1987年の冬に聴いたレナード・バーンスティン客演指揮のシューベルトの交響曲「未完成」とマーラーの交響曲第1番の演奏会であった。
   未完成の最初の出だしを聴いたときに、天国からのサウンドかと思うほど美しく、上手く表現できないが、素晴らしいベルベットのように艶やかで滑らかで、それに長い眠りから目覚めた高級ボルドーワインのような、芳醇なまろやかさをを感じる、今までに聴いたことのない途轍もなく美しいサウンドであった。休憩後のマーラーになると、一転して、どこか土の香りのする荒削りでメリハリの効いた起伏の激しい演奏になった。
   その数日後、再び、バーンスティンのシューベルト交響曲第8番とマーラーの「子供の角笛」を聴く機会を得たのだが、あの素晴らしい天国のサウンドは戻ってこなかった。
   バーンスティンとコンセルトヘボウでマーラーのCDが出ているが、比較的ユダヤ人の多いアムステラルダムで、ブルーノ・ワルターからマーラーを伝授されたバーンスティンが指揮すると特別のマーラーになるのかも知れない。バースティンが振っても、ハイティンクが振っても、コンセルトヘボウのマーラーは素晴らしく歌う。
   バーンスティンは、ニューヨーク・フィルとの公演を含めて何度か聴いているが、最後は、最晩年に、ロンドンで、ロンドン交響楽団を振ったコンサート形式の自作「キャンディード」であった。
   
   コンセルトヘボウの演奏会で何時も感じていたのは、フルサウンドで最高のボリュームでオーケストラが演奏するときでも、決して、違和感なく、何時も、豊かで深みのある温かいサウンドで包み込んでくれることで、特に、渋くてくすんだ燻し銀のようなオーケストラの音色は、私には、格別であった。
   これは、アムステルダムのコンサート・ホールが、世界一素晴らしいからと言うことだけではないことは、後年、ロンドンのアルバート・ホールでのプロムスのコンサートでも感じたので、私の実感であり、それ故に、アムステルダムの音楽ファンは、演奏後に、総立ちのスタンディング・オベーションをするのであろうと思っている。
   
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12・アムステルダム・コンセルトヘボウの思い出(1)

2021年01月18日 | 欧米クラシック漫歩
   私が、アムステルダム・コンセルトヘボウのシーズンメンバー・チケットを持ってコンサートに通っていたのは、1986年から1990年にかけてであって、当時のメモを元に思い出を書いてみたい。
   アムステルダムに赴任したのは、1985年の9月であったが、フィラデルフィア管弦楽団のチケット取得で書いたように、大げさに表現すれば、子孫末代までチケットが相続されて市場に出ることが殆どないので、極めて取得困難で、その年はコンサートに行けなかったのである。
   コンサートは、定期演奏会が主体であって、単発のコンサートや当日券の取得は、殆ど無理で、日本と違って、チケットもかなり安かったし、大指揮者の客演や高名なソリストの登場など目白押しだったので、行けても行けなくてもメンバーチケットを抑えておくのが、欧米でのクラシックなりオペラ鑑賞の定石なのである。
   当時、定期公演は、5シリーズほどあったのだが、幸いにも、相当前から申し込んでおいたので、キャンセルがあって、3シリーズの予約が出来たのである。そのうち、Cシリーズは、現代音楽で、他の2シリーズは、従来のクラシック・プログラムの組み合わせであった。
   勿論、座席の選択など不可能であったが、コンセルトヘボウのチケットは、全席同じ価格で、S席、A席で慣れている私にはショックだったが、ウィーンの楽友協会ホールと同様に、世界最高の音響効果を誇るホールで、何処で聴いて頂いても、最高のサウンドで楽しんで頂けます。と言うことなのである。
   客席のあっちこっちで、コンサートを聴いていて、確かに、音響については、それ程文句はなかったし、定期的に、このホールで指揮していた小林研一郎氏に伺ったら同意されていた。
   しかし、一度だけ、内田光子のピアノ指揮のイギリス室内管弦楽団のモーツアルトのピアノ協奏曲を、オーケストラ後ろの舞台後方の座席から聴いたときには、あの能面のように美しい顔が、モーツアルトに没頭して神懸かりのように表情を変える豊かな色彩に富んだ内田の演奏を、真正面から鑑賞出来たし、ピアノは美しかったが、如何せん、オーケストラは逆方向を向いていて、サウンドが飛んだような感じで違和感を覚えた。

   この大ホールは、ウィーンの楽友協会ホールと形態がよく似ていて、それ程大きくない長方形のホールで、短い辺の一方に舞台があって、田舎の学校の講堂のように平土間は傾斜がなく,やや下から舞台を見上げるようになる。正面舞台のオーケストラの後方の高みに大きなパイプ・オルガンがあり、その左右にかなり急な階段状の客席がある。客席の大部分は平土間だが、左右の壁面に1列客席があり、二階席は、それ程深くなく、正面に向かってコ型に配置されており、客席総計2037人。
   ウィーン楽友協会 大ホールのように豪華ではなく、天井の高いシンプルなホールで、装飾として壁面にずらりと沢山の音楽家の名前が彫り込まれているのが面白い。
   指揮者やソリストは、正面右側の高い上階に開口している右側のドアから、パイプオルガンとひな壇の客席の間にある長い急な階段を下りて来て舞台に登場するのだが、ピアニストのラローチャが、途中で転びかけたり、晩年のオイゲン・ユッフムなどは、一階の平土間から登場して舞台に上がっていた。

   さて、日本では、元旦の夜に放映されるウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」が有名だが、ヨーロッパでは、ユーロヴィジョンで、まず、コンセルトヘボウの「クリスマスコンサート」、続いて、大晦日のベルリン・フィルの「ジルベスターコンサート」が放映されて、元旦に、ウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」で終るのが恒例となっていて、楽しませてくれた。
   日本では、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの影になって存在感が薄いのだが、イギリスの音楽誌「グラモフォン」の評価で、両楽団を凌駕して1位に躍り出ることもあって、すごい楽団なのである。

   このオーケストラだが、1988年に、創立100周年を迎えたので、ベアトリクス女王より「ロイヤル」(Koninklijk)の称号を下賜され、「ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団」に改称された。
   私が、メンバーチケットを持って通っていた頃で、この創立100年を期に、ハイティンクは常任を退き、イタリア人のリッカルド・シャイーが跡を継いで、重厚で燻し銀のように渋かったサウンドが、一気に明るく輝き始めた。
   ハイティンクは、その前年から、ロンドンの「ロイヤル・オペラ・ハウス」の音楽監督に就任していたのだが、私もロンドンに移って、ロイヤルオペラのシーズンメンバー・チケットを買って通っていたので、コンセルトヘボウ、そして、ロイヤルオペラの黄金時代を、ハイティンクのタクト捌きで楽しんだと言えよう。

   コンサートの思いでは、次回に回したい。
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11.ペンシルベニア大学での名ソプラノ:シュワルツコップ

2021年01月11日 | 欧米クラシック漫歩
   我が母校ウォートン・スクールは、アイビーリーグの一つペンシルベニア大学に属する。
   この大学は、口絵写真のベンジャミン・フランクリンによって、1740年に設立された米国最古のユニバーシティ(総合大学)で、宗教とは一切関係のない唯一の大学でもある。

   さて、ここで二年間学んでいたのだが、大学の構内のホールや教室で、時折、コンサートが開かれることがあって、何度か鑑賞する機会があった。
   エリザベート・シュワツコップが、ジェフリー・パーソンのピアノ伴奏で、キャンパスの小さなホールで、ドイツ・リートのリサイタルを行った。
   日本に居た時に、一度、シュワルツコップの演奏会に行っていたので、二度目になる。
   小さなホールで、席も自由であったので、シュワルツコップが、ピアノの前に立って歌うと思って、一番前の列のやや右寄りに席を取ったので、シュワルツコップの息遣いを感じ、表情が良く分かった。
   カラヤン指揮の「バラの騎士」のマルシャリンの印象が強烈であったのだが、歳を取ったと雖も、やはり、気品に満ちて美しかった。
   日本の田舎の中学校の講堂のような、しかし、教室の平土間の小さなホールの中で、オペラでは輝くように華麗な舞台を演じていた大歌手が、静かに語りかけるように歌う・・・それに応えるように、控えめではあるが温かい拍手が続く・・・そんな心温まる演奏会であった。
   何曲かのアンコールがあった後、「もう オシマイ」と、駄々っ子を宥めるように微笑みながら、自分からピアノの蓋を閉めて舞台から去って行った。
   外は暗い静かな大学のキャンパス、星が美しく瞬いていたのを覚えている。

   ウィキペディアによると、
   シュヴァルツコップは1971年12月31日、ブリュッセルのモネ劇場で当たり役であるマルシャリン(第一幕のみ)で最後のオペラに出演した。以後、彼女はドイツ歌曲に専念し、1979年3月17日にチューリッヒで最後のリサイタルを行った。と言うことで、私の聴いたのは、1974年であるから、殆ど、最晩年であったのであろう。
   ヴィルヘルム・フルトヴェングラー 指揮:バイロイト祝祭管弦楽団 & 同合唱団のベートーヴェン : 交響曲第9番「合唱」のレコードで、ソプラノがシュワルツコップ、
このレコードと、シュワルツコップの歌う歌曲集を何度も聴いたのを思い出す。

   もう一つは、別のホールであったが、ボロディン弦楽四重奏団のベートーヴェンのカルテットのコンサートの思い出である。
   シーンと静まりかえった大学の構内の質素な教室での重厚なベートーヴェンは、何か、虚飾がすべて吹っ飛んでしまって、ビンビンと胸に迫ってきて感動を呼ぶ。
   大きなコンサート・ホールでしか聴いたことのない四重奏を、本来なら、室内楽としてサロンで楽しまれていたのであるが、まさに、そんな雰囲気で聴けるなどとは夢にも思っていなかったので、貴重な経験であった。

   その後、アムステルダムやロンドンで過ごして、結構、沢山のピアノやヴァイオリン・ソナタや室内楽を聴く機会を得たのだが、やはり、このシュワルツコップやボロディン弦楽四重奏団のような臨場感十分のリサイタルには遭遇できなかった。

   一つ残念であったのは、まだ、シェイクスピアへの関心が薄かったので、折角、キャンパスに、アンネンバーグ・シアターという立派な劇場があって、シェイクスピア戯曲などが演じられていたにも拘わらず、行かなかったことである。
   総合大学の良さで、大学の時には、経済学部でありながら、学内で催される湯川秀樹博士や桑原武夫教授などの講演会を聴いたり、人文科学研究所の発表会を聴講するなど、学際教育の機会に恵まれていたのと同様に、ペンシルベニア大学も世界に冠たる総合大学であるので、その気になれば、随分豊かなキャンパス生活を送れたのかも知れない。
   尤も、MBAを取得のために、昼夜脇目も振らずに勉強に追いまくられていたのであるから、夢の夢ではあった筈だが、今に思えば、無知というか無関心というか、折角、色々なところを歩いて貴重な経験をしていながら、随分、大切なチャンスを棒に振ってしまったと思うことが多い。

   下の写真は、ウィキペディアからの借用だが、カレッジ・ホールをバックにしたフランクリン像だが、コンサートの終演後、この広場を通って家路につくのだが、すぐ隣にウォートンスクールの当時の本拠地バーンス・ホールがあって、住んでいたハイライズ・アパートのグラジュエイト・タワーも近かった。
   ペンシルベニア大学は、病院は勿論、大きなアメリカンフットボールの競技場や巨大な博物館もあり、何ブロックにもわたる広大なキャンパスで、全く外部とオープンで街と混在していて、地下鉄の駅もあればホテルや教会もあり、他の由緒正しいアイビーリーグの古色蒼然とした大学とは違った世俗化した雰囲気である。
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10.アカデミー・オブ・ミュージックでのコンサートの思い出(その2)

2021年01月05日 | 欧米クラシック漫歩
   このアカデミー・オブ・ミュージックは、オペラ・ハウスなので、当然、オペラも上演される。
   常設のオペラ・カンパニーがあって、冬に、フィラデルフィア・オペラを開催していて、限られた期間、限られた演目のオペラが、数回ずつ上演される。
   こじんまりした劇場であるから、METのように大がかりな舞台は望めなかったが、本格的なオペラ公演で、タイトルは忘れてしまったが、ルチァノ・パバロッティとジョーン・サザーランドとマリリン・ホーンの出演したオペラやモーツアルトのオペラなど、何度か出かけて鑑賞した。この3人の登場するオペラのレコードが、当時、ベストセラーで何組か出ていたので、願ってもない舞台であったが、それぞれのオペラの舞台を観たのは、ずっと後のことで、パバロッティが一番多いのだが、ロイヤル・オペラハウスで、オッヘンバックのオペラ「ホフマン物語」の人形オランピアを歌ったジョーン・サザーランドのゼンマイ仕掛けの様な人形姿が懐かしい。
   フィラデルフィアのファンにとっても、オペラは、やはり、ニューヨークのMETであったのであろうと思うが、
   あの頃は、フィラデルフィアでは、どんな大スターのチケットでも、かなり安く手に入り、一級のオペラを楽しむことが出来たよき時代であった。

   フィラデルフィア管弦楽団以外のオーケストラのコンサートも結構あった。
   まず、小澤征爾指揮するボストン交響楽団の演奏会である。
   当時は、フィラデルフィアには、日本人のビジネスマンや役人など殆どいなかったのだけれど、ペンシルベニア大学などには、留学生や研究者たちがいたので、挙って出かけた。小澤は、我々アメリカ在留日本人の誇りであり、異国で頑張っているという極めて日本的な同胞意識が目覚めて、その雄姿に感動したかったのである。
   シューマンの交響曲だったと思うが、非常にダイナミックな演奏で、小澤のタクト捌きもキビキビしていて歯切れが良く、何時も聞き慣れているオーマンディのフィラデルフィア・サウンドと大分雰囲気が違った。
   激しい動きで、ボストン交響楽団を一つの楽器のように縦横無尽に歌わせている小澤の姿に、激しくこみ上げてくるものを感じた。
   聴衆のの拍手が長い間止まらなかったのを覚えている。

   興味深かった思い出は、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー)の演奏会である。
   ロシア(当時はソ連)のユダヤ人弾圧という国際政治の軋轢が、文化芸術に影を落とした現実を目にしたのである。
   1973年だったと思うが、当時ソ連から海外に移住しようとするユダヤ人が多く、ロシアが、科学者やエンジニアなど有能なユダヤ人の移住阻止のためにビザを発給しなかったので、世界中のユダヤ人が反旗を翻したのである。

   当日、アカデミー・オブ・ミュージックに行くと劇場の前が騒がしい。正面玄関にピケが張られて、沢山の人がプラカードを掲げて騒いでいる。
   入り口は閉鎖されていなかったので、中に入ったのだが、いやに客が少ない。
   楽団員がステージに入り始めても、客は増えそうにない。
   指揮者のゲンナジー・ニコライエヴィチ・ロジェストヴェンスキーが登場したときに、前列の席にいたので、何となく、後ろを振り向くと、上から下まで、右側半分はスイカを割ったように、一人も客席に人が入っていない。大入りでは当然なかったが、客は総て左側だけという全く奇妙な演奏会が始まった。
   ソ連のユダヤ人の出国制限に強く抗議したユダヤ系アメリカ人のボイコットなのであろうが、チャイコフスキーか何であったか忘れてしまったが、重苦しい雰囲気で聴いた沈痛な演奏会で会った。
   興行界など音楽分野は、ユダヤ系アメリカ人が抑えているとかで、あのヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ、戦後、ニューヨークに登場するのに随分待たなければならなかったという。

   さて、フィラデルフィア管弦楽団のコンサートで、非常に貴重だったのは、夏に、郊外のロビンフット・デルで催されている無料の野外コンサートである。
   少し前に、郵便で申し込んでおくと、チケットが郵送されてくる。
   2年いたので、10数回出掛けて行ったと思うのだが、日頃の本格的なプログラムをやや改編して、ライト・クラシックなどポピュラーな楽曲を交えたバラエティに富んだ音楽会で楽しかった。
   友人が車を持っていたので便乗して通っていたが、やはり、フィラデルフィア郊外の夜は寒い日もあって、毛布を持って出かけていた。
   オープンエアーのコンサートは、爽快でリラックスできるのが何よりも良い。
   
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9.アカデミー・オブ・ミュージックでのコンサートの思い出(その1)

2021年01月04日 | 欧米クラシック漫歩
   私の若かりし頃の欧米音楽行脚も、今年も、フィラデルフィアから始まるのだが、このミラノスカラ座を模したフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでのコンサート鑑賞は、厳しくて一瞬も手を抜けなかったウォートン・スクールでの学びの日々における、燭光とも言うべき至福の時間であった。
   フィラデルフィア管弦楽団の定期演奏会などが主体だったが、天下のコンサートホールであるから、世界中から、多くの著名な音楽家が来訪して、素晴らしい演奏を楽しませてくれていた。
   しかし、留学生の身であり資金は乏しく、限られた演奏会にしか行けなかったが、行ける時には無理をして出来るだけ良い席で聴くことにした。

   マリア・カラスが、ジュゼッペ・ディ・ステファーノを伴って、最後の世界コンサート・ツアーで、フィラデルフィアを訪れてきた。
   フィラデルフィア管弦楽団のメンバー・チケットの保有者に、カラスとのディナー付きチケットの案内状が来た。
   あの時には、たった100ドルの余裕がなくて、迷った挙句、25ドルのストール・サークルのチケットで満足せざるを得ず、今でも、残念に思っている。

   しかし、サークルの前列右端の席で、横からとはいえ、カラスとステファノとは、至近距離で、二人の姿と表情がよく観察できて、素晴らしい歌声が迫ってくる。
   コンサートと言え、オペラアリアの夕べであるから、結構、オペラの舞台を彷彿とさせる演技の入ったパーフォーマンスで、魅せてくれる。
   少し金属音的で張り詰めたカラスの声に甘いステファノの声・・・カルメンの最後のシーンのカラスの表情など鬼気迫る迫真の演技で、この時ほど、カラスの生の舞台を観たいと思ったことはない。
   アンコールの時に、先にカラスがステージに帰ってきたのに、ステファノはドアを閉めて出てこなかった。カラスは、「いじわる!」と言った表情で、ドアの方に向かって拳を作って叩くような仕草をしたのだが、何と色気があって瑞々しくて美しかったことか。歌だけではなく名優でもあったカラスの面目躍如の素晴らしいコンサートであった。

   この劇場では、別の機会に、カラスと覇を競ったレナータ・テバルディとフランコ・コレルリのジョイント・リサイタルを聴く機会があった。
   その頃、テバルディは引退気味だったが、コレルリは最盛期で、その前に、METでトーランドットのカラフで観ていたので感激で、歌のみならず実にスマートな舞台姿も抜群で、このテバルディのみならず、カラスさえ相棒に選び続けたと言うのが良く分かる。
   イタリア・オペラ最高峰のアリア・コンサートであるから、カラスとステファノのジョイントコンサート同様、楽しませて貰った。

   もう一つ、忘れられられなのが、寒い日の、フィッシャー・ディスカウのリサイタルで、ピアノ伴奏がイヨルク・ディムスのドイツ・リートの夕べである。
   極めて厳粛な演奏会で、直立不動のディスカウが、一語一語噛みしめながら、時には激しく、時には優しく語りかけるように端正に歌い続ける。席が前の方であったので、あのドイツ語独特の破裂音は勿論、ディスカウの静かな息遣いまで伝わってくる。それに、ディムスのピアノが限りなく美しい。終演後、楽屋に行ったのだが、人数制限で、私の前で打ち止めになった。

   実際のオペラやミュジーカルは、ニューヨークに出かけて、METやブロードウェイで観ていたのだが、これらのソリストのリサイタルは、非常に貴重な経験であった。
   その前に、シュワルツコップやジュゼッペ・ディ・ステファーノやマリオ・デル・モナコやハンス・ホッターなどのリサイタルを日本で聴いてはいたが、商業主義の大劇場での舞台で、しっくり来なかったが、しっとりとした美しい宮殿風のアカデミー・オブ・ミュージックでのコンサートは、感興十分であって楽しかった。
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8.フィラデルフィアのユージン・オーマンディ

2020年12月28日 | 欧米クラシック漫歩
   1972年から74年までの2年間、私は、フィラデルフィア管弦楽団のメンバーチケットを持っていて、丸2年間、本拠地のアカデミー・オブ・ミュージックに通って、フィラ管を聴き続けた。
   ウォートン・スクールへの留学の時で、人事部長に、お前は音楽会に通うのでヨーロッパへの留学はダメだと釘を刺されて、アメリカになったのだが、どうしてどうして、ニューヨークに出かけて、METでオペラを、ブロードウェイでミュージカルを観に出かけたし、
   それに、フィラデルフィアには、カーティス音楽院もある音楽の都で、小澤征爾とボストン響、マリア・カラス、フィシャー・ディスカウ、パバロッティは勿論、外来演奏家もひっきりなしで、随分、オペラやコンサートを楽しんできたのだが、MBAを取って帰ったのであるから、ご恩返しは出来たと思っている。

   フィラデルフィアに落ち着いて、真っ先に行ったのは、この口絵写真の米国独立宣言の地・インディペンデンス・ホールで、当時は、この自由の鐘は、正面ホールの真ん中に置かれていた。
   アメリカの歴史的な雰囲気をまず実感して、その足で、フィラデルフィア管弦楽団のチケットを手に入れたいと思って、アカデミー・オブ・ミュージックに向かった。
   幸いなことに、丁度、キャンセルのチケットが出たところで、それも、9月からの新シーズンのメンバーチケットであった。
   確か、AA111、オーケストラ・ストールの正面真ん中で、それも、前列の前から4~5列目で、ユージン・オーマンディの一挙手一投足が間近に見える席。
   オーケストラは、左右と前列の弦楽セションと、後方の管楽器や打楽器奏者が見える程度で視界は遮られているが、あのストコフスキーのサウンドで培われて、更にオーマンディによって磨きを掛けられた天国からの音のように華麗で美しいフィラデルフィア・サウンドが、凄い迫力で迫ってくる幸運に恵まれたのである。

   この劇場は、ミラノ・スカラ座を模して作られた米国最古の宝石箱のように美しい深紅のオペラ・ハウスで、この素晴らしい環境の中で、クラシック音楽を存分に楽しめたことは、大変幸せであった。
   ところで、客席数は、2000を切っていると思うのだが、フィラデルフィア管弦楽団のメンバー・チケットは、極端に言えば、先祖と言うべきか、祖父母から孫へと、家代々引き継がれて継承されているので、その新規取得は、至難の技であって、このことは、アムステルダムに移って、ロイヤル・コンセルトヘボウのチケット取得の時にも経験したのだが、オーケストラそのものが、市民の誇りであって文化文明の至宝なので、メンバーであることが、音楽を楽しむと同時にステイタスシンボルでもあるのであろう。
   この所為なのかどうかは分らないが、フィラデルフィア管弦楽団の観客の大半は、お年寄りなので驚いたのだが、この時は、私も若かったので、良く楽屋に出かけて、高名なソリストなどにレコードのジャケットにサインして貰っていたのだが、
   オーマンディと客との面会を見ていると、もう、全く隣近所の知り合いと同じ和気藹々の交歓で微笑ましい。オーマンディに取っても楽団員にとっても、この本拠地でのコンサートは、何も特別なことではなくて、極日常的な出来事で、お馴染みさんに日頃の研鑽を披露して楽しんで貰おうと言った雰囲気である。
   尤も、定期公演なので、オーマンディが振るのは半分くらいで、若き頃のリカルド・ムーティやウォルガンク・ザバリッシュなど著名な客演がメジロ押しであった。
   (次の写真は、1900年から2000年までの100年間、フィラデルフィア管弦楽団の本拠地であったアカデミー・オブ・ミュージックと、現在の本拠地「ヴェライゾン・ホール」のある建物)
   
   

   オーマンディについては、色々な思い出があるのだが、中国遠征から持ち帰ってきたピアノ協奏曲「黄河」を演奏したことがあった。
   この日、演奏会後に、楽屋に入って、友人が偶々カメラを持っていたので、オーマンディに一緒に写真を撮って貰えないか頼んだら、喜んで、ピアニストのエプスティンとその夫人(チェリストの岩崎洸 の義妹さん)を呼んで、写真におさまってくれた。
   今日の演奏はどうだったかと聞いたので、美しいメロディで楽しかったと応えたら、これは、中国のオリジナルと一寸違うのだがと説明して、次はこれこれを演奏するので是非来てくれと言って握手をして分かれた。
   大変な大曲を振った後でも、オーマンディは、何時もニコニコ顔の好々爺で、穏やかに静かにファンに対していたのを思い出す。控えめなアクションで、あのフィラデルフィア管弦楽団を、美しく時には激しく歌わせて、我々を感動させ続けていたのである。

   もう一つ、オーマンディが、アメリカ屈指のソプラノ・ビバリー・シルスをソリストに招いて、素晴らしいオペラのアリアの夕べを公演したことがあった。
   あまりにも感動的であったので、何故、オーマンディが、オペラを振らないのか不思議で仕方なかった。
   相当昔に、METで、シュトラウスの「こうもり」を指揮したことがあると聞いたので、フィラデルフィアに居た時には、結構、METへも行っていたので、一度、オーマンディに聞いてみようと思いながら、残念ながら、聞きそびれてしまった。

   私の2年間のフィラデルフィアの思い出は多々あるのだが、学び舎ウォートン・スクールでの厳しい学究生活と、楽しかったオーマンディのフィラデルフィア管弦楽団の「フィラデルフィア・サウンド」、「オーマンディ・トーン」と称される美しいサウンドに尽きるような気がしている。

   その後、ヨーロッパに移り住んで、ベルリンの壁の崩壊前後に、何度か、オーマンディの故郷ハンガリーの美しい都ブダペストのドナウ川の河畔に佇んで、思いを馳せた。
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7・ハンプトン・コートのホセ・カレーラス(その2)

2020年12月21日 | 欧米クラシック漫歩
   さて、三大テナーの一人で最も若い大歌手ホセ・カレーラスのリサイタルである。
   
   会場のベースコートには、かなりの数の客席のある仮設にしては立派な舞台と客席が設営されていて、オープンながら回りは王宮の建物に囲まれているので、テームズ側に面した緑豊かなロンドン郊外で、時々遠くを飛ぶ飛行機の爆音くらいで全く雑音がなく、ピュアーな空気の気持ちの良い雰囲気である。
   ところが、広い王宮に集ってピクニックを楽しみ、宮殿で王朝風の室内楽を楽しんでいる客にとっては、マイクで「お早くお席にお着きください」と伝えても馬耳東風。それに、王宮の建物の入り口がゲートで狭く一方向しかないので、開演が大分遅れてしまった。

   舞台は北に面していて、舞台の左手西側の王宮の正門側の建物から、ホセ・カレーラスが、ピアニストのロレンツォ・バヴァヒを伴って現われると盛大な拍手、  
   しかし、舞台まで王宮の横庭を横切るのであるから、結構距離があって、小さなカレラスが余計に小さく見える。
   屋外なので、ピアノ譜を譜面台にクリップで挟み付けてあるのだが、風が強くてペラペラ飛び始めたので、若い男が舞台に上がって、譜面代を抑えて、そのまま、ピアニストの右手に居を構えて助けた。

   カレーラスは、右手をピアノの蓋の端に掛けて、左手でゼスチャーを交えながら歌い始めた。
   これほどの大歌手でも、最初の曲は落ち着かず、少し声が上ずっている。精彩を欠いたカレーラスは、パバロッティのようにトランペットの如く極めて澄んだ美しいハイCを聴かせるわけではなく、ドミンゴのように甘く優しく時には激しく迸る情熱的な美しい声で歌うのではなく、ただのテノールではないかと言う感じになってしまう。
   尤も、コヴェントガーデンのロイヤル・オペラで、「カルメン」や「スティッフェリオ」などの舞台で、素晴らしいカレーラスを観て聴いているので、凄いテノールなのである。

   最初の曲は、スカルラッティの「ガンジス河からの太陽」。
   この日のプログラムは、17世紀から20世紀にかけての歌曲が中心で、ヴェルディは、数少ない歌曲から「乞食」と「乾杯」の2曲、他は、ボノンチーニ、ジョルダーニ、モノピウツリーナ、ファリア、トスティなどで、私には、初めて聞く歌曲ばかりであった。

   初めの頃は、カレーラスの舞台をじっと眺めて聴いていたが、途中から、プログラムの対訳を見ながら聴いた。
   感じとして分る程度では心許ないのだが、徐々に、カレーラスの調子が上がってきて、表現がドラマチックになってきた。
   あの実直一途の貴公子然としたスタイルが少しずつ崩れて、右手を時々ピアノから外して情感を込めてゼスチュア―を作り、張りのある美しい朗々とした歌声が帰ってきた。
   歌詞が、イタリア語やスペイン語のラテン系なので、ドイツ語のように気になる破裂音がなくてなめらかで美しく、こうなると三大テノールのカレーラスの本領である。
   最後のトスティの曲「私は死にたい」や「最後の歌」になると、絶好調で、胸に手を当てたり手を大きく広げて、激しく燃える思いを情感豊かに歌う。
   カレーラスの歌声は、美しいのみならず、実に真実味のあるしっかりとした凜々しい声で胸に響く。
   「最後の歌」は、ニーナというかっての恋人が嫁ぐ前の日に切々と歌う分かれの歌で、これは、パバロッティでもドミンゴでもなく、カレーラス歌ってこその曲である。
   カレーラスは、イタリアの名花カティア・リッチャレッリにも、このような素晴らしい歌声で、語りかけたのだろうと思うと絵になる。

   休憩は、90分あって、グラインドボーン音楽祭形式であるが、グリーンには、ビーフやポークのステーキ、フライドチキン、パスタ類は勿論、ワインなど飲み物などの屋台が沢山出ていて、ピクニックを楽しむには遜色がない。
   タキシードやイブニングドレスに着飾った客は、王宮のレストランへ消えて行く。
   私たちは、事前に軽食を済ませてきたので、フライドチキンとコーヒーで、気分転換に、夕暮れ迫るグリーンを散策し、宮殿に入って、クラシックな古典劇と古風な楽器の演奏を聴いて過ごした。
   
   少し残照の残る空に王宮の建物が電光に映えて美しい。庭に面した正面は、白色の電光の照り映えて複雑な彫刻が美しく浮かび上がっている。中庭に面した建物は、朱、黄色、青、緑と七色の照明を受けて生き物のように息づいている。

   再開されたコンサートの方は、辺りが暗くなって、カレーラスの舞台に電光が映えていて、そこだけ明るく輝いている。
   周囲の暗い煉瓦色の建物は、カラフルな照明に薄暗くシルエットのように浮かび上がって、明るいときにザワついていた舞台も、急に引き締まった感じで、さえたピアノの音に乗って、カレーラスの情感豊かに澄んだ美しい歌声が、観客を魅了する。

   この記録は、1993.6.22、
   思い出しながらのブログ記事である。
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6・ハンプトン・コートのホセ・カレーラス(その1)

2020年12月20日 | 欧米クラシック漫歩
   ロンドン郊外のハンプトン・コート宮殿で、夏の夜に野外コンサートが開かれていて、ホセ・カレーラスのリサイタルがあったので、聴きに行った。
   当時、それ程遠くないキュー・ガーデンに住んでいたので、ロンドンのオペラ・ハウスやコンサート・ホールに行くよりは近くて、格好の野外コンサートであった。
   地球温暖化の今は分らないが、当時は、エアコンが欲しいと思うような日は、年に数日程度しかなくて、一般家庭には冷房装置はなかったし、高級ホテルでも、米系ホテル以外なかったほどで、それ程、ヨーロッパの夏の気候は快適で、天気の良い夏の夜長は、野外での芸術鑑賞には最高の時期であった。

   このハンプトン・コート宮殿でも、常設のコンサートではなく、オペラや室内楽などのリサイタルが開かれていたようであるが、この日は、宮殿の中庭に舞台と客席を設えての仮設舞台であったが、宮殿は開放されていて古風な衣装を身につけた楽団員が小部屋で楽を奏していたり接客をしたりしていて、タイムスリップした王宮にいる感じであり、回りの古い煉瓦づくりの建物がカラフルに照明で輝き、音楽フェスティバルの雰囲気抜群であった。
   それに、イギリスの夏の日暮れは遅くて、広大な美しい庭園が開放されていて、屋台も出ているので、コンサート前と休憩時に、ピクニックや散策を楽しんでいる着飾った客も多い。
   このハンプトン・コート宮殿へは、テームズ川沿いにキューガーデンのあるリッチモンド・パークを経て、英国王室の狩り場であった広大な公園と緑地が広がっていて、野生の鹿が放し飼いで、小動物や鳥の天国である。
   エリザベートプランテーションの大シャクナゲは、初夏には豪華絢爛と咲き乱れて美しく、また、近くの高台の瀟洒なホテルの庭から、夕日を浴びて金色に輝きながら蛇行するテームズ川を遙かに見下ろしながら味わうハイティのおいしさなど、公園での散策やスポーツ以外にも楽しみが多い。
   今日はパリ、明日はベルリンと、ヨーロッパ人と切った張ったの激務に明け暮れていたので、寸暇を惜しんで、ロンドン郊外の緑野を散策するのが楽しみであった。

   ハンプトン・コート宮殿は、16世紀にカーディナル・ウォルセイが建てたチューダー様式の王宮で、あまりの壮大さにヘンリー8世を怒らせて取り上げられた曰く付きの宮殿で、その後、ヘンリー8世が手を加えて今日の豪壮な規模に仕上げた。シェイクスピア時代の少し以前のことである。
   当時、ウインザー城が火災に遭って、紅蓮の炎をあげて炎上しているのをテレビで観て驚いたのであるが、同じく、このハンプトン・コート宮殿も火災で燃え上がっていたのを知っていたので、行きそびれていたので、この日が最初の訪問であった。
   当時の女王陛下の居城は、バッキンガム宮殿とウィンザー城であったが、かっては、ロンドンのビッグ・ベンのある国会議事堂の側の船着き場から、王族は、ハンプトン・コートへは、舟で行き来していて、ここから、ウインザー城へも、レガッタで有名なヘンリーを経て、テームズ川を上って船で行けるのである。

    さて、コンサート当日は、夕方6時から王宮の門が開かれて、フェスティバル客に王宮全体が開放された。
    ピクニック形式の夕食もウエルカムで、王宮の広いグリーンに、それぞれ思い思いにカーペットや敷物を敷き、シャンペンやワインを飲みながらサンドイッチを食べたりゆっくりとディナーを楽しんでいる。
   グリーンの中央の円形舞台では、ブラスバンドが軽快な音楽を奏しており、あっちこっちでは、高い高下駄を履いた道化が客と戯れ、大道芸人が思い思いの芸を披露している。
   ベルサイユ宮殿を模したという幾何学紋様にレイアアウトされた大噴水公演のグリーンも客に開放されていて、ピクニックを楽しむ客で賑わっている。

   王宮の建物も客に開放されていて、自由に内部を出入りできる。
   日頃あっちこっちにいる番人たちは、この日は、当時の歴史的な古風な衣装を身につけていて、まさに、英国版時代劇の世界が再現されて感動である。
   大広間の片隅では、ストリング・カルテットが音楽を奏しており、中央の女王の客間では、エレガントで古風なドレスを身につけた若い女性奏者がハープを奏でている。
   この王宮は、英国でも有数な歴史的建造物で、おのおのの部屋も、それぞれ豪華で優雅な雰囲気を持っており、散策するだけでも楽しい。
   別の広いカーツーン・ギャラリーでは、芸人たちが中世劇を演じている。ヴァイオリンと古いピアノを伴奏に、何組かの男女が優雅にメヌエットを踊っており、後方で、女王が、家来を従えて鑑賞しているという趣向であろうか。
   当時のシェイクスピア時代の面影の再現か、エリザベス女王は、屈指の踊り手であったと言うから、この宮殿でステップを踏んだ事もあったかも知れないと思うと面白い。
   踊りがたけなわになってくると、一般客も、踊りの輪に加わって、輪が広がる。
   普通の男女が、古いコスチュームを着て楽を奏し踊っているだけなのだが、近づいてきて話しかけられると、何となくドギマギしてしまうのが不思議である。

   さて、ホセ・カレーラスのリサイタルだが、明日の記事としたい。
   
   
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5.ロイヤル・オペラ:久しぶりのラ・ボエーム

2020年12月14日 | 欧米クラシック漫歩
   この項は、1993年6月のコヴェント・ガーデンのラ・ボエームの観劇記を元にて思い出をつづった雑感録である。

   私が、最初に観たボェームは、もう、半世紀以上も前になるが、会社へ入社した直後に、大阪から東京へ出張の機会があって、丁度来日していたイタリア・オペラを東京文化会館に出かけて観た時である。  
   夜の会食を蹴って直行したので、少し高かったが、偶々、良い席のチケットが残っていた。クラシック・ファン駆け出しであったが、魅力的なベル・カントのアリアの数々、美しい舞台などに感激して、その後の長いオペラ鑑賞行脚の先駆けとなった。何故か、第二幕目で、可愛い一寸おきゃんなマルゲリータ・グリエルミが、ムゼッタのワルツを歌っていたのだけは覚えている。
   その後、米国留学中に、ボェームは、メトロポリタン歌劇場でパバロッティの舞台を、そして、パリ出張中にオペラ座で観る機会があり、その後、METやロイヤルで再度観ており、METのフランコ・ゼフィレッリの華麗な舞台が、印象に残っている。

   さて、このロイヤル・オペラの舞台だが、ロドルフォがJ・ハードレー、ミミがD ・リーデル、マルチェルロがT・ハンプソン、ムゼッタがK・マッティラ。
   特に印象的だったのは、マッティラのムゼッタで、少しグラマーでおきゃん、それに、コケティッシュな役柄を器用に歌っていたので、全くイメージチェンジというかビックリした。
   METで、あの凄いミミ歌いのレナータ・スコットのムゼッタにも感激していたのが、私には、ミミより、ムゼッタの記憶の方が多い。
   その前に、マッティラは、ロイヤル・オペラで、モーツアルトの「フィガロの結婚」の伯爵夫人や「魔笛」のパパゲーナやワーグナー「ローエングリン」のエルザの舞台を観ており、フィンランド人のソプラノで、特に美人というわけではないが、愛くるしくて、清楚な感じの素晴らしい歌手で、ロイヤルの至宝であった。
   その後、METで、「マノン・レスコー」のマノン、METライブビューイングで、「カルメル会修道女の対話」のクロワシー夫人/修道院長を観ており、このブログで書いているが、マッティラは、演技力は抜群で、モーツアルトも歌いプッチーニも歌い、そして、ワーグナーも歌え、これほど天性のオペラ歌手としての素質を備えた歌手は稀有だと思っており、クロワシー夫人/修道院長に接したときには、その健在ぶりを観て感激した。
   METのヴォルピー支配人が、「史上最強のオペラ」の中で、最も魅惑的な舞台人間だったソプラノ歌手が二人居るのだがと言って、テラサ・ストラタスと、このマッティラの名前をあげている。面白いのは、ついでに、彼は、「サロメ」での全裸スタイルの一こまでのマッティラを語っていて、リハーサル途中でのニューヨークタイムズ・カメラマンのワン・ショットに逆上したが、TVでは、かたいフィンランドの家族を押し切って、無修正で放映させたと言う。
   話が飛んでしまったが、カリタ・マッティラを語りたくて、筆が滑ってしまった。

   この舞台の第一幕と第四幕は、」カルチェラタンの屋根裏部屋。
   上手くセットが作られていて、四人の芸術家の貧しい住まいが彷彿としてくる。画家のマルチェルロが絵を描いているシーンでは、美しいヌード・モデルが背を向けて座っている。
   余談だが、コヴェント・ガーデンの舞台では、時々、ハッとするようなヌードが登場する。ボロディンの「イーゴリ侯」のヌード姿の群衆、「ドン・ジョバンニ」では、全裸のドンナ・アンナの侍女を食卓の上に上向けに寝かせて沢山の果物を載せてみたり,前に紹介した「サロメ」で、マリア・ユーイングの全裸の7枚のヴェールの踊り・・・。こんな時には、無理して(?)、双眼鏡を外す。
   第二幕は、賑やかなパリの繁華街で、その街頭とレストランのざわめきが、狭い舞台に凝縮されている。
   第三幕は、町外れの公園の鉄格子と門の外側、左手に小さな居酒屋があり、雪がしんしんと降っているシーンで、二組の男女の別れを情感たっぷりに演じるには格好の寂しい舞台。
   ジュリア・トレヴェイアン・オマンと言う女流デザイナーのセットで,クラシックながら実にリアル、そして、繊細で温かみさえ感じさせてくれる雰囲気が感動的である。

   この口絵写真のMETのゼフィレッリの華麗な舞台は、2018年のMETライブビューイングでも使われているMETの定番舞台だが、少し、印象が違うのだけれど、ロイヤルの舞台も、忘れがたい公演であった。
   とにかく、プッチーニ節に酔いしれる、華麗ながら一寸悲しいしんみりと心に響くオペラで、オペラを観て聴いたと言うことを本当に実感できる素晴らしい舞台である。
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4.ケンウッドの野外オペラ:土砂降りの”オテロ”

2020年12月07日 | 欧米クラシック漫歩
   ケンウッドのロイヤル・オペラの野外公演は、都合、4年間鑑賞したが、先回のドミンゴの「トスカ」と比べて、第3回目の「サムソンとデリラ」と第4回目の「トスカ」は、天候の悪化のために、途中で席を立たざるを得ない苦い経験をした。
   この二回とも、グラス席ではなく、かなり良い位置の椅子席だったので、私一人だったら最後まで居たかも知れないのだが、小学生の次女と一緒であったので諦めた。

   「サムソンとデリラ」は、決して出来の悪い公演ではなかったが、その前に、同じ舞台を、コベント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスで、プラシッド・ドミンゴのサムソンで観ており、他のキャストは全く同じで、デリラのオルガ・ボロディーナには感嘆しきりではあったが、サムソンがロシアのテナー・アンドレイ・ポポフに代わっていて、如何せん、その落差が激し過ぎた。
   ポポフの端正な美声も、野外のオープン・エアーのために声も飛び、味気なくて何の飾り気もないコンサート形式であり、比較するのも無理だが、こんなにもスーパー・スターのドミンゴが偉大なのかを思い知った。それに、あまりの素晴らしさに度肝を抜かれたロシアのメゾ・ソプラノのボロディーナの迫力に対抗できるテナーは、ホセ・カレーラスでもダメで、ドミンゴしかないと感じた。
   ところで、その夜は、尋常の寒さではなく、用意していったセーターやバーバリーのコートを着込んでも寒くて堪らず、まず真っ先に娘が音を上げたので、じっと座っておれなくなって、第3幕をギブアップして帰ってしまった。

   第4回目(1993年)の「オテロ」は、ヴラディーミル・アトラントフのオテロ、カーティア・リッチャレッリのデズデモーナ、フスティーノ・ディアスのイア―ゴ、それに、指揮はクリストフ・フォン・ドホナーニ、と言う豪華版で、大いに期待して出かけた。
   その前に、このロイヤル・オペラで、ゲオルグ・ショルティ指揮、ドミンゴのオテロ、キリ・テ・カナワのデズデモーナ、セルゲイ・ライフェルカスのイアーゴと言う伝説的な舞台を観て感動し、ムーティ指揮のミラノ・スカラ座の舞台を二回、少し前に、ルネ・フレミングのロイヤルの舞台など、結構観ているのだが、このケンウッドの異色な舞台は非常に魅力を感じていた。
   ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのシェイクスピアの舞台も素晴らしいが、シェイクスピアに触発されて作曲したヴェルディのオペラの素晴らしさは、二人の偉大な芸術家の魂の爆発のような気がして深い感慨を覚える。

   ところが、この日は、あいにく雨で、悲しいかな、ずぶ濡れの椅子には、座っておれなくて、それに、寒い。
   我慢できなくなって、最初は一人二人だったが、多くの観客が、席を立ち始めて、グリーン席の客は、直接地面に座っているのであるから、斜面の雨水が流れてきて堪らない。
   結局、第1幕の終わり近くになって、妻と娘が席を立った。二人とも私ほどオペラに対して執着がないので、さっさと帰ろうとするが、こっちには未練が残る。

   今回は、望遠レンズをつけた一眼レフの他に、8ミリビデオまで持ってきたので、せめても、デズデモーナとオテロの二重唱だけでも撮って帰ろうと思って、横殴りの激しい雨に傘を差して待って、途中で諦めて、木陰に駆け込んだ。
   雨の中を、広いケンウッドの公園を小走りに横断し、ハムステッド・ヒースの高級住宅街を通り抜けて車に向かう。
   一寸小降りになったかと思って歩いていると、第1幕が終ったのか拍手の音がして、続いて、マイクで、天候のコンディションが悪いので、寒くて歌手が堪えられないので、第2幕を省略して続行すると報じている。
   マイクは使用しているが、吹きさらしのオープンな舞台で、雨がザァザァ降りしきり、気温がどんどん下がっており、それに、観客が浮き足立って前で右往左往しているような状態で、歌手も正常な状態で歌えるはずがない。

   カーティア・リッチャレッリのデズデモーナの歌う「柳の歌」を、どれほど聴きたかったか。
   キリ・テ・カナワの、そして、ルネ・フレミングの「柳の歌」にも、どれほど、感激したか、
   ヴェルディの「レクイエム」で一度だけしか、リッチャレッリの生を聴いたことがないのだが、その儚い期待もパーになってしまった残念な思い出である。

   良く晴れた爽やかな日の夜のロンドンの野外コンサートは、本当に気持ちよく至福のひとときを楽しめるのだが、この日のように、横殴りの激しい雨に打たれて寒さに震え上がるような巡り合わせになると、まさに天国と地獄のような激しい落差。
   翌年、イングリッシュ・ヘリティッジから、ケンウッドの野外オペラの案内状が、帰国していたので、イギリスから転送されてきたのだが、オテロの第2幕キャンセルのお詫びとして5ポンドのバウチャーが同封されていた。

   ロンドンで、夏の夜、各地で、野外コンサートが開かれて人気を博しているのは、気持ちの良い広々とした公園で、気楽なピクニック気分で飲食に興じながら、オペラなりクラシック音楽なり、ジャズなりを楽しめるからであろう。
   夏には、英国のみならず、ヨーロッパ各地で、公園や、ローマ時代のアリーナや、古城や宮殿、古い教会や、歴史的遺産や遺跡・廃墟などで、カラフルな照明にライトアップされて、野外コンサートやイヴェントが開かれる。
   イタリアのヴェローナの巨大なローマ時代の野外劇場での、「アイーダ」と「トゥーランドット」が最も印象にのこっているが、他の印象記についても、追々書いてみたいと思っている。
   
   
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3.ケンウッドの野外オペラ:爆音がドミンゴに伴奏

2020年11月30日 | 欧米クラシック漫歩
    ロンドンのハムステッド・ヒース公園の北端に位置するカントリー・ハウスが「ケンウッド・ハウス Kenwood House」で、フェルメールの『ギターを弾く女』、レンブラント晩年の『自画像』などの名画を所蔵するこじんまりした美術館があるのだが、敷地内の広大な庭園の片隅の大きな池の側に、野外劇場が設営されていて、野外コンサートが開催されていた。
   毎年夏、数千人にもおよぶ客が音楽とピクニック、その後の花火を楽しんできたのだが、地域住民からの、夜間の騒音や放置されるゴミなどに関する苦情のために、2007年2月、イングリッシュ・ヘリテッジは、コンサートを中止して、その後場所を移して小規模で続けられているという。

   私の記録は、1990年前後の思い出なので、まだ、最盛期の頃で、毎年夏、ロイヤル・オペラの野外公演を楽しみに通っていた。公演が野外と言うだけで、上演中の演目で同じ歌手の出演で、全く手抜きはない。
   広大な野外公演であるから、数万枚という結構な数のチケットが発売されていた筈なのだが、即完売でその取得は至難の業であり、公演当日には、公演外の芝生上にもびっしりと観客が犇めいていた。
   半円形のお椀を伏せたようなステージを前にして大きな池があって、その池畔から椅子席が並び、その後ろの小高くなって傾斜のある芝生の部分がグラス席で地面に自由に座る自由席である。
   椅子席が30ポンド、グラス席が15ポンドで、劇場よりはかなり安く、全英からファンが集まる。隣席の夫人はエジンバラから来たと言っていた。
   当日は、少し早く出かけても、広大な駐車場は満杯で、近くの住宅街の路上に空間を探して駐車するのだが、会場までは結構遠くなる。
   

   この年の演目は、「トスカ」。
   プラシッド・ドミンゴのカバラドッシ、マリア・ユーイングのトスカ、ユスチアス・ディアスのスカラピア。
   ドミンゴはじめ男性歌手はタキシード姿、ユーイングは赤っぽいロングドレスに黒のコート。

   5月から、オペラハウスでは、「トスカ」を上演していたが、ドミンゴ=ユーイング組は、限定されたスポンサー対象公演でチケットが取れず、私が観たのは、ヒルデガルト・ベーレンスのトスカ、ネイル・シコフのカラバドッシ、サミエル・レイミーのスカラピアであった。
   この日のユーイングは、心なしか声が伸びず、私には、べーレンスの方が良かった。
   ユーイングには、色々な思い出があるのだが、「サロメ」の、第4場の「サロメの踊り(7つのヴェールの踊り)」で全裸シーンを披露したのが印象に残っている。肉襦袢のギネス・ジョーンズとは違った強烈なサロメであった。

   音はマイクを使っているので、生演奏ではあるが、大きなステレオを聴いている感じである。
   むかし、ギリシャのエピダウルスの野外劇場で、観光客の一人が一番底の舞台で、カンツォーネを歌い出したのを、一番上の客席で聞いて、良く伸びた美しい声で感動したのだが、草深い公園では、マイクなしでは無理なのであろう。
   野外ステージなので、観客は思い思いのビデオやカメラで写真を撮っており、私も、F2.8,80-200ミリの望遠レンズで、ドミンゴとユーイングを撮ったが、一番前の方の席ながら、遠い上に、デジタルではなかったので、豆粒のようであった。(写真は残っているはずだが、総て倉庫に収納で取り出せず、口絵者貧もウィキペディアから借用)
   余談だが、舞台の合唱団の一人が、後ろを振り向いたドミンゴをフラッシュも鮮やかにスナップショットしていたが、後で、お目玉を食ったであろうか。

   広大な緑地と言っても大都会の真ん中からほど近く、ヒースロー空港にも近いので、空路を逸れた飛行機の爆音が、名テナーのアリアの伴奏をする。
   ロンドンの夏の夜は涼しくて虫もおらず、極めて快適である。
   日が傾き始めると日暮れは早く、ドミンゴが、第3幕のアリア「星は きらめき」を歌う頃には、もう、とっぷりと日は暮れて、オペラの最後の大詰め、一瞬時が止まったかの錯覚を覚えて、暗くて陰湿なサンタンジェロ城の牢獄で死に直面したカラバドッシの心境になった全聴衆・・・水を打ったように静まりかえる。
   絶望したトスカが城壁から身を翻して消えて行く断末魔のラストシーンは、まさに、オペラ全巻の終わり。
   私には、劇場で観るシーンとは違って、漆黒にくすんだローマのサンタンジェロ城の姿が脳裏をかすめて、このシーンは、このような野外劇場の独壇場ではないかと感じた。
   肝心のトスカを誰が歌ったのか、記憶にないのだが、同じロイヤル・オペラで、ルチアーノ・パバロッティのカラバドッシが、サンタンジェロ城の牢獄の城壁に身を預けて、涙を浮かべながら、「星は きらめき」を歌っていたのを鮮明に覚えている。

   さて、一番最初に、このケンウッドで聴いたロイヤル・オペラは、「パリアッチ」と「カバレリァ・ルスチカーナ」。
   同じ公演をロイヤル・オペラ・ハウスでも観たので二回だが、ピエロ・カップチャルリとエレーナ・オブラツオバの舞台に接して感激であった。
   ずっと後になって、このオペラ・ハウスで、ドミンゴ指揮の「パリアッチ」を観たのだが、この時は、この演目だけの舞台であった。
   このオペラを最初に観たのは、ニューヨークのMETで、ネッダは、美人の誉れ高いアンア・モッフォ、サントッツアはグレイス・バンプリーで素晴らしい舞台であった。
   
   ところで、芝生のグラス席でも、中には、寝そべって天を仰ぎながら聴いている客もいるにはいるのだが、しかし、立錐の余地のないほどの混みよう。
   野外劇場の外には、大きな緑地公園が広がっていて、その境界には金網が張ってあって生け垣が隔てているので、舞台の歌手の姿などは全く見えないのだが、客席の延長のように、全くグラス席と同じピクニックスタイルの聴衆が、びっしりと席を占めて聴いている。
   この日だけは、閑静なハムステッドヒースの高級住宅街は人と車でごった返し、遠くからやってきた人は、深夜を徹して故郷へ帰るのだという。
   
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2.グラインドボーン音楽祭オペラの思い出(その2)

2020年11月24日 | 欧米クラシック漫歩
   客席800の旧劇場は、1934年創設と言うから、木造のこじんまりしたホールで、ウエストエンドのミュージカル劇場の雰囲気に似ており、勿論、中廊下などはなく、舞台も極めて小さくて、言うならば、金比羅の金丸座で歌舞伎を観ると言う感じに近いと言えようか。
   しかし、ピットには、ロイヤル・フィルが入り、歌手は人気上昇中の俊英が満を持して美声を競い、ベルナルド・ハイティンクが振ると言う豪華版で、公演の質は極めて高い。

   さて、最初に観たのは、ラヴェルのオペラ「スペインの時」と「子供と呪文」と言う初めて観る舞台であったが、元々、モーツアルトからスタートしたようであり、モーツアルト没後200年の年では、オール・モーツアルト・プロで、この年には、「フィガロの結婚」と「イドメネオ」を観る機会を得た。
   「イドメネオ」は、非常にシンプルな能舞台」のようなセットで、コスチュームも和風であった。イオランテは、野侍のようなラフな鎧を身につけており、イーリァやエレットラは、ギリシャ風にアレンジした和服を着て簪を指している。
   英国では、シェイクスピア劇を和風に演じた蜷川劇団の舞台の影響か、あるいは、浅利の演出と森の衣装で人気を博したミラノ・スカラ座の「蝶々夫人」の影響か、このイドメネオは、完全に日本の影響の強い振り付けながら、このようなシックな小劇場にはピッタリの舞台で興味深かった。

   天国のモーツアルトがどう考えるのか、私は二回観たのだが、日本を知る友は、洋の東西の文化の癒合にいたく感激していたが、よく知らぬ友は、日本との出会いと言っても半信半疑、しかし、二回とも、ヨーロッパ人の聴衆は拍手喝采であった。
   その前後に、イングリッシュ・ナショナル・オペラで、サリバンの「パシフィック・オーバチュア」を観る機会があった。
   これは、ペリーが黒船で来訪し開国を迫る頃の日本を主題としたオペラで、歌舞伎を真似たのか、歌手は全員男性で、振り付けも丁髷と着物で、結構面白かったが、似ても似つかない日本趣向の展開で、日本人から観れば全く奇天烈、違和感を感じなかったグラインドボーンのイデメネオとは大違いであった。
   ミュージカル「ライオン・キング」のジュリー・テイモアのように上手く日本の芸術を取り入れたり、先のMETでの「蝶々夫人」で、子供を米国流の3人遣いの手法で人形で登場させるなど、結構、日本のパーフォーマンス・アーツの手法やテクニックを活用して芸の深化を図る試みがなされていて興味深い。
   私見だが、「蝶々夫人」は随分各地のオペラハウスで観てきたが、やはり、東敦子や渡辺葉子の蝶々夫人が最高で、忘れ得ない思い出である。

   このグラインドボーンで観た他のオペラは、ストラヴィンスキーの「放蕩息子の一生」、ブリテンの「アルバート・ハリング」、ティペットの「ニューイヤー」など、ロイヤル・オペラなどの大劇場で観るのとは違った初めての舞台で、戸惑いを覚えながら、異次元のオペラ鑑賞の世界に浸っていた感じである。

   ところで、この新オペラハウスを設計したのが、アーキテクトのマイケル・ホプキンス。
   丁度、ロンドンのシティで、金融ビル改築の大プロジェクトで、アーキテクトとして使っていたので、工事施工が難しくて仕事が遅いと言う噂を聞いたのか、知人のジョル氏が電話をかけてきて、オーナーのクリスティ氏が心配しているのだが、大丈夫かと聞いてきた。
   サポート体制さえシッカリしておれば大丈夫だろうと、そこはそつなく応えておいた。
   その前に、ホプキンスの自宅を訪れた時に、作業机の上に世界のオペラハウスの平面図などが一面に広げられおり、オペラに趣味がなくよく知らないはずの彼だが、ロイヤル・オペラのために、ワーグナーのマイスタージンガーの第3幕のステージを設計した実績があると言うので、スプリングルなどの同僚が才を発揮しているのだろうと考えた。尤も、クリケットをしないしよく知らないホプキンスが、ロイヤル・クリケット・スタジアムの改装の設計コンペで優勝したと言うことだから、新グラインドボーン・オペラ・ハウスの設計には、オペラやオペラハウスの知識あるなしは関係ないのかもしれない。
   
   残念だったのは、招待すると言われながら、帰国の忙しさにかまけて、新グラインドボーンの建設現場を視察できずに終ってしまったこと、そして、帰国後、何度か、シーズンに、ジムから、グラインドボーン・オペラの招待を受けながら、渡英のタイミングが合わずに、鑑賞の機会を失ってしまったことである。

(追記)随分、グラインドボーン関係の写真を撮ったのだが、倉庫に入ってしまった写真を探すのが不可能で、口絵写真は、ウィキペディの写真を借用した。

   WPから、次のメールが入ったTrump administration informs Biden it is ready to begin the formal transition; Trump tweets that he recommended initial protocols
   名実ともに、バイデン政権の始動であり、大いに期待したい。
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