熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

漱石の霧のロンドンのイメージ

2021年03月06日 | 海外生活と旅
   伊集院静の今日の「ミチクサ先生」のシーンは、大晦日を一人でロンドンで過ごす漱石の雪の中を散歩する場面で、煤煙の酷さを嘆いている。
   煤煙のススが雪に点在していて、よくこんなものを放っておいて、これで文明国と自らを呼んでいるのなら、英国人はとんだ笑い物だ、と言うわけである。
   この口絵写真は、ウィキペデイアから借用したもので、霧どころか、クリアに晴れ渡ったロンドンのシティ風景で、今昔の感である。

   英国の友人に聞いたのだが、母校の高校の校歌に、たしか、バーミンガムだと思うのだが、もくもく煙を上げる工場の煙突の凄まじさを成長繁栄の誇りだと歌う歌詞があると言っていたことがあるが、サッチャーが英国大改造に大鉈を振るうまでは、英国の公害は酷く、ロンドンの荒廃した惨状は目を当てられない状態であったことを見て知っている。
   小学校や中学校で、揺りかごから墓場までと言う英国の福祉社会の様子を学んでいたが、英国のイメージは、実際にはどうか、善くも悪くも、漱石同様、現地に住んで体験してみないと分からない、と言うことである。

   私は、1987年から1993年までロンドンに住んでいて、その前後10年くらいは、アムステルダムに住んでいたり、出張や個人旅行でロンドンに行き来していたが、殆ど、霧のロンドンに遭遇したことはない。
   記憶では、一度だけ、酷い濃霧で、薄暗い1メートル先も見えないほどの視界の悪い中を、ヘッドライトを点けてサビルローの事務所へ通ったことがある。濃霧の経験はそれだけで、霧のロンドンというイメージでロンドンへ赴任したはずが、これだけは、能書き外れであった。

   イギリスの冬は寒いので、暖房のために、当時は、どこも、石炭ストーブで暖を取っていたので、それが、煤煙として舞い上がっての濃霧となり、冬の間、ロンドンの空を覆ったのであろう。
   要するに、霧のロンドンと言ったロマンチックなイメージとは程遠い、スモッグであって、ロンドンに害をなした公害なのである。
   私がロンドンにいた頃には、既に、ガスストーブや電気ストーブに切り替わっていて、石炭ストーブはなくなっていた。昔懐かしい薪や石炭ストーブの暖炉も、我が家では、電気ストーブに変っていて、チロチロ、人工的な炎が動いていた。

   暖房ついでに、エアコンだが、当時は、ロンドンでは冷房には殆ど関心がなく、設備もなかった。
   トップクラスの高級ホテルでも冷房設備はなくて、エアコンが整っていて冷房が効くのは米国系のホテルだけで、高級な住宅でも、殆どエアコンとは無縁であった。
   アムステルダムに事務所を開くために調査に行った時に、最高級のアムステル・ホテルに投宿したのだが、その日は異常な暑さで、それに、真夏で夜の11時でも明るい夜で、エアコンがなかったので、眠れなかった記憶がある。

   勿論、オランダの自宅もロンドンの自宅も、エアコンなどなくて8年間夏を過ごしたが、エアコンが欲しいなあと思う日は、年に10日くらいあるかないかなので、問題なく過ごせたのである。

   さて、そんなロンドンだが、英国の永住権を持っていたので、ここで永住しようかどうかを考えたことがある。
   結局、色々と考えて、ロンドン生活を諦めたのだが、やはり、第二の故郷であり、時々、ヨーロッパの風景が走馬灯のように脳裏を過ぎって行く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅で買った人形たちの思い出

2020年10月22日 | 海外生活と旅
   リビングのフローリングの張り替えで、飾り棚を移動するために、中のものを全部出して、工事終了後に、入れ替えた。
   何も変った作業ではないのだが、この飾り棚の中には、雑多なものが入っていて、それも、何十年間もの我々の人生の残照というか蓄積というか、残されてきた思い出が充満したものなのである。
   勿論、作業は、殆ど家内がやったのだが、一つ一つに思い出が籠もっていて、棚に並べながら、懐かしさが込み上げてきて、中々はかどらない。
   食器類やガラス器などは、ダイニングルームの飾り棚に収納していて、このリビングルームの棚には、陶器や木製の人形というかフィギュアを雑多に並べてある。
   特に、取り立てて上等なものでも高級なものでもないのだが、海外旅行で、旅の徒然に買い求めたその土地の土産もの、殆どはヨーロッパが主体である。
   海外を含めても、何度も宿替えをしており、その度毎に壊れたり処分したり、また、先の3.11の大震災で多くをなくして、これらは思い出の品の一部分なのであるが、喜怒哀楽の海外生活を送ってきたので、それだけに、それぞれの人形そのものが、懐かしい思い出を反芻してくれるのである。

   もう、半世紀くらいも前になるが、米国留学中に、パリ在住の留学生がチャーターした格安の里帰りパンナム便に便乗して貧乏家族旅行で買ったイタリアの陶器人形が、これ、
   

   この時、ホテルの売店で売っていた二人の老人の人形が欲しかったのだが買えなくて、ずっと、後にフィレンツェで偶然見つけて買ったのが、次の人形、
   少しずつ増えていった。
     
   

   イタリアのフィギュアは、流石に芸術の国で、陶製も木製も、非常に精巧で美しい。
   先の陶製人形も、限定品で、確か作者のサインが刻印されてナンバーが打たれていて、もう、骨董でしか手に入らない。
   ここには、長女に託したのでイギリスのフィギュアはないのだが、イギリスは勿論、ドイツもオランダも、何処の国の民芸品的な作品も、作者が亡くなると同じものは製作し続けられないので、今では、探そうと思っても見つからないし、殆ど取得できない。
   バーバリーやアクアスキュータムなど、相も変わらず、何十年も同じ仕様で製作するなど、伝統を重んじて維持するイギリスでさえ、10年も経てば、かってあった精巧で美しい民芸品のフィギュアや人形を手に入れるのさえ至難の業となる。
    
   もう一つ、感激したのは、イタリアの小さな木製の人形(ANRI ナンバー刻印の限定版)で、最初に手にしたのは、アムステルダムのホテル・オークラの売店での次の人形、
   これも増えていった。
   
   
   

   イタリアついでに、何度か訪れているベネチアのガラス人形、
   3センチくらいのミニチュアのオーケストラ楽団の人形だが、すぐ壊れるので満身創痍で何度スコッチのお世話になったか、
   ベネチアで面白いと思ったのは、腰掛けスタイルのマスクをつけた人形、
   
   
   

   ドイツのゴーベル、
   スペインのリアドロや、デンマークのロイヤル・コペンハーゲン、
   それに、素朴なチェコのボヘミアのガラス人形、
   ブラジルやパラグアイ、アジアなどの人形は大ぶりで、一寸収容できないのだが、とにかく、半世紀以上、あっちこっち歩いてきたので、壁に掛かったり、部屋の片隅などに、思い出の品が結構並んでいる。
   
   
   
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人旅行者の海外での犯罪被害

2020年09月19日 | 海外生活と旅
   インターネットを叩いていると、TABIZINEと言うページで、”【ニューヨーク総領事館に聞いた】日本人旅行者の男女別にみる犯罪被害とは”という記事に出くわした。
   深刻な犯罪は別として、例示されている犯罪被害が、如何にも、単純なアナログ傾向なのに、一寸驚いた。
   筆頭は、スリ被害で、高級時計の盗難、メガネ詐欺、CD詐欺であった。
   動画で映っていたのは、地下鉄の中や駅構内での、タブレットやスマホのひったくりで、タブレットのひったくりのシーンでは、一人がドアを押さえて開いておき、発車寸前に奪った男が飛出して、ドアを放すと地下鉄は発進、スマホは、ながら族からひったくって全速力で逃亡、いずれにしろ大男にやられるのだから追っかけても無駄。
   メガネ被害は、ぶち当たられた拍子に落ちたメガネが破損したと因縁をつけられて弁償させられたケース、CD詐欺は、自作CDを無料配布しているように見せかけ,CDにサインしたものを受け取ると不当な料金を請求されるケース。
   
   私の場合は、殆ど前世紀になるのだが、海外生活が長かったので、何らかの被害に遭ったり、犯罪未遂に遭遇しているので、イヤイヤながら思い出してしまった。

   一番多いのは、飛行機で移動中に、盗難に遭ったケース。
   サッチャーのビッグバン以前のイギリス病に泣いていた頃の惨憺たる経済不況のイギリスで、ヒースロー空港では、必ず間違いなしにスーツケースが開けられて開けられて盗難に遭った。2回や3回ではなかった。
   その頃、ロンドンの高級ホテルでも、スーツケースをズタズタに切られて、中身がごっそりとやられた。

   もう一つ、困ったのは、飛行機で移動中のスーツケースの盗難で、この時は、まず、真夏のサンパウロに飛んでパラグアイのアスンションでネゴをして、真冬のニューヨークにとって返して仕事をするという強行軍の出張で、とにかく、殆ど手荷物を持たずに衣服は勿論総てスーツケースの中に入れて移動しており、最初に降り立ったサンパウロで、スーツケースが出てこず、乗り継ぎのニューヨークで盗難に遭ったのである。
   旅行荷物が総てなくなってしまったときの悲しさ悲惨さ、一週間の夏と冬が一緒に来た旅行をどう過ごすのか。
   長い旅行中、着の身着のまま、サンパウロでもアスンションでもニューヨークでも、下着類はともかく、典型的な日本人である私に合う服など調達は無理、
   政府とのネゴなど資料なしで済ませ得たのは良かったが、地球の大きさと天候の格差の激しさを思い知らされた苦い経験であった。

   最も困った盗難は、イタリアのフィレンツェで、レストランの野外テーブルで食事中、椅子に掛けていた妻のハンドバックをスリに盗まれたとき。
   後ろを通って出ようとした若い男女が嫌に押すので、妻にも注意されて前かがみになって空間を作ったのだが、盗難のカモフラージュで、この時に、ハンドバックを持って行かれたのである。
   何よりも困ったのは、この中に、スーツケースの鍵を入れていたことで、先のニューヨークのケースではないが、スーツケースが開けられなくては、旅行に支障を来す。
   ホテルに帰ってボーイに話したら、何時もやっているわけではないよ、と言いながらにっこりとウインクして開けてくれた。このあたりは、流石に、レオナルド・ダ・ヴィンチの国である。
   まだ、ヴェローナ、ベネチアなど旅を続けるのだが、鍵が閉まらないので、ガムテープをメタメタに貼り付けたスーツケースを持っての無様な旅、
   そのバッグの中に、自宅の玄関の鍵を入れてあったので、夕刻帰ればたちまち困るので、事務所に電話して、鍵の取り替えを依頼した。
   海外旅行をするときには、何時も必ずスーツケースが側にあると思うのは間違いだと心しておくことである。

   事前に知っていたので、被害に遭わなかったイタリアでのケース。
   ミラノのドウモに入るときに、後ろから押す若い男女がいて、背中に白い泡のスプレイを吹きつけ、汚れているから綺麗にしようと言って、服を脱いで拭って貰おうとしたら財布を盗みとられる。
   スペイン風の男が近づいてきて、今日初めてなのでローマはよく知らないと話しかけてきて話し込んで居るうちに親しくなって飲食店に行くと、最初は自分の店に連れて行って奢り、次の店で法外な料金を支払わせられる。
   ジプシー風の子供数人が、段ボールの板を前に押し出して近づいてきて、その段ボールをカモフラージュにして手荷物を略奪して逃げるケース。等々
   在外日本公館から警告されていた判で押したようなケースであって、それでも、日本人が沢山被害に遭っていた。

   スペインのマドリードでも、エスカレーターで上っている長女のバッグを執拗に引っ張って取って逃げようとしたジプシー少女が居たし、ポルトガルのリスボンでは、町の人が近づいてきて、カメラをしっかりと首に掛けて前でホールドせよ、昨日引っ取られて転倒して大怪我をした観光客がいたと注意されたことがあった。

   もう一つ、香港でのことだが、横断歩道を渡っていると、信号を無視してタクシーが一気に突っ込んできて、私と友人がタクシーの前を押さえていると車道に居た香港人も加勢してくれて事なきを得たが、タクシーの運転手とその加勢した香港人が結託していて、友人の後ろポケットに入れていた財布とパスポートがが盗まれてしまった。

   まだまだ、いろいろあるがこのくらいにしておこう。
   随分、世界中を駆け回っていた割には、被害が少ない方だと思うが、楽しいことばかりではないのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「東京オリンピック」を観て海外望郷

2020年07月20日 | 海外生活と旅
   NHK BSPの放映映画「東京オリンピック」を観て、無性に懐かしくなって、あの頃の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡り、しばらく感慨にふけっていた。
   丁度、大学を出て会社に入って、新生活のスタートを切った年でもあったが、当時は、大阪勤務であったので、オリンピックは、テレビでの鑑賞であった。

   この映画は、記録映画と言うよりは非常に芸術性の高い作品であったので、当時のオリンピック担当大臣の河野一郎がイチャモンを付けたので、高峰秀子が抗議して、大臣と市川崑監督との中に入ったという話は、高峰の「わたしの渡世日記」や「高峰秀子かく語りき」にも詳しいのだが、カンヌ国際映画祭では国際批評家賞、英国アカデミー賞ドキュメンタリー賞を受賞するなどしており、とにかく、当時の最先端の映画技術を駆使して、高度な芸術作品を創作したのであるから、半世紀経た今でも色あせることなく感動的である。

   こみ上げてきた感動は、この凄い東京オリンピックの映像と言うこともあるが、このオリンピックが、私自身の海外への憧れの原点となっていたということで、冒頭の画面で、次から次へと登場してくる外国人団体の映像を見て、その後、期せずして世界中を飛び回って歩んできた奇蹟とも思えるような自分の人生を思い出しての感慨である。
   芭蕉の心境にはほど遠いのだが、住めば都、海外を歩き続けてきたあっちこっちにある海外への望郷である。

   さて、もう一つの次の世界への遭遇は、1970年の大阪万博であった。
   当時、万博近くの高槻に住んでいたので、主に、観客の少なくなる夜の部をめがけて何回か訪れて、かなり、熱心に観て、月の石のあったアメリカ館やソ連館など外国館を殆ど回った。
   ソ連館にあった木製の精巧な教会の模型を観て感激して是非観たいと思ったのを覚えているが、何十年も後で、ソ連ではないが北欧の田舎で観たときには感激であった。
   スイス館の前の広場で、1歳になった長女が、一歩二歩初めて歩いたのも、懐かしい思い出である。

   ところが、大阪万博が終わると、会社の本社が、大阪から東京に移って、同時に東京に転勤し、しばらくしてから、人事部長に呼び出されて、海外留学の命令を受けた。
   正直なところ、レイジーな性格なので、留学制度はあったのだが、無理をして海外で勉強しようなどという気持ちはなかったので、全く意識外だったのだが、「山に登れ」と言われれば、挑戦するのは当然、
   どうしたら、海外の大学院に入学できるのか、全く、分からずに困って、まず、赤坂のフルブライト委員会に出かけて、資料を繰って、大体の事情を把握した。
   とにかく、TOEFLとATGSBの試験を受けて、大学院を決めて応募することだと言うことが分かったのだが、受験勉強と京大の教養部の英語くらいの実力程度で、多少、英語の読み書きくらいはできるとしても、映画館に行って観たアメリカの映画も殆ど分からないし、会話などには全く自信がない、その上に、準備には後半年もない。

   今でも、信じられないのだが、幸運というか、運命の粋な計らいと言うか、とにかく、世界屈指のビジネス・スクールであるウォートン・スクールに入学を許されて、翌年1972年の夏に、はじめて、海を渡ってフィラデルフィアへ向かった。
   寝ぼけ眼で、眼下のカリフォルニアの大地を見下ろしたときには、結界を超えて新しい世界に足を踏み出したことを感じて身震いした。
   東京オリンピックで、異国を強烈に感じて憧れた外国が、8年後に、自分の世界になった瞬間であった。
   敗戦後の食うや食わずの幼少年時代の困窮生活を送り、やっと、神武景気で貧しさから脱して上向きかけた日本で社会人として生活を始めた自分には、考えられないような新世界への旅立ちであった。

   この留学の間に、2週間ヨーロッパ旅行をしたことは先日書いたが、翌年の休暇にメキシコや、イエローストーンやグランドキャニオンを歩いたのだが、当時は、車さえあれば貧乏な学生旅行なら、いくらでもできた。
   それに、ニューヨークまでは、割引の鈍行アムトラックで、朝、フィラデルフィアを出て、夜のメトロポリタン歌劇場でオペラを観て、深夜便でフィラデルフィアに向かい、午前2時頃、真っ暗な夜道を、危険を覚悟で歩いて学生寮に帰ることもあった。

   1974年初夏に帰国して、荷物を解かないうちに、ブラジルへの赴任命令が出て、秋に、アマゾンの上空を飛んでサンパウロに向かった。
   中南米で、ビジネス・スクールで勉強した国際ビジネスの手法を反復しながら苦労して仕事をし、ヨーロッパ経由で日本に帰ったのは1979年、
   帰ってきてすぐに、ホテル建設案件で北京へ出張して、文革後の貧しい中国を実地検分するという願ってもない経験をした。
   どうしようもないほど貧しくて、混乱状態の全く覇気のない病大国中国を見知っていることが、その後の中国理解に非常に役立っている。
   とにかく、ホテルの予約可能客室数だけしか、入国ビザが下りず、政府との交渉も相手任せで、何時、会えるか分からず、何日も滞在した。
   あの北京の紫禁城など、たしか天安門から入ったと思うのだが、中には役人など一人も居らず、自由に何処へでも、そして、西太后のあの玉座へも近づけたし、観光客は、中国人が僅かにいるだけで、広大な紫禁城なので、殆ど無人状態であり閑散としていた。
   一部、国宝級の展示物が個室に展示されていたが、壮大な多くの建物には、一切の装飾がなくて、がらんとしていたが、清朝の頃のそのままであった。
   中国の5000年の壮大な歴史を感じて身震いしたのだが、その当時は、現在の中国の姿など、思いもよらなかったのである。

   その後、東京で海外事業の管理部門の仕事を6年間して、海外に出張することが多くて、年に100日くらいは、東南アジアや中東、アメリカに出ていて、1985年から1993年までヨーロッパに滞在していたので、国名も変っているので確かなことは言えないのだが、1泊以上した国は、40カ国を大分越えていると思っている。
   チャールズ皇太子やダイアナ妃とも握手してお話しするなど、信じられないような世界を幾度も経験したが、それも、思い切って世界へ飛出した御陰であろう。
   ウォートン・スクールのMBAがパスポートになって、臆することなく、切った張ったの国際ビジネスを、欧米で展開することができた。
   楽しいことよりも、苦しいことと言うか、思い出したくないことの方が多いような気がするし、随分危険なことにも遭遇したのだが、今回の「東京オリンピック」の映画を観て、海外での思い出がこみ上げてきて、しばらく、たまらなくなって呆然としていた。

   手元には、海外の資料が殆どないのだが、倉庫には、撮り溜めた海外での写真やネガが、大きな化粧箱2箱あって、オペラやコンサートのパンフレットや資料など4箱あるなど、結構色々なものが残っており、どうせ、私が死ねば、そのまま、廃却されるので、一応寝た子を起こすつもりで整理しようと思っている。
   このブログは、わが海外人生を記録に残そうと思って始めたのだが、まだ、殆ど目的を果たしていないので、書き残したい思い出も蘇るかも知れないと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランス ルーブル美術館が再開

2020年07月18日 | 海外生活と旅
   NHKが、「フランス ルーブル美術館が再開 新型コロナで約4か月休館」と報じた。
   ウイルス対策のため、見学はマスクの着用や事前の予約が必要で感染を警戒しながらの再開と言うことだが、アメリカや中国などからは入国できないことから、美術館ではフランス語の案内を無料で実施するなど、フランス人向けのサービスにも力をいれており、初日の予約は7400人ほどで、去年の同じ時期の2割程度。
   マルティネス館長は、「人が少ないルーブルを訪れる、いいチャンスです。夕方にはモナリザの部屋で、一人きりになることもあるかもしれません」と話したという。
   
   

   私が、初めてルーブル美術館を訪れて、この「モナリザ」を鑑賞したのは、1973年のクリスマス休暇の時。
   フィラデルフィアのウォートン・スクールで勉強していたのだが、ペンシルバニア大学に留学していたフランス人留学生が里帰り便として、パリ往復のパンナム機をチャーターして、余り席を、格安で売り出したので、千載一遇のチャンスだと思って、ナケナシの貯金をはたいて、家内とナーサリースクールの長女との3席分を確保して、2週間ヨーロッパ旅行したのである。
   ユーレイルパスを利用して、パリから、イタリア、オーストリア、ドイツ、オランダを回ってフィラデルフィアへ帰ってきたのだが、スーツケース一つの、ギリギリ旅で、贅沢はできなかったが、その後の8年間のヨーロッパでの仕事と生活への格好の助走にはなった。

   海外旅行は、出張でも個人旅行であっても、すべて、自分で旅程を組み、航空券やホテルや観劇チケットなど一切の手配を自分でやる習慣をつけたので、トーマスクックの時刻表や、ミシュランのグリーンとレッドのガイドブックと地図と言った資料や、各国の案内所などが頼りであり、旅先での臨機応変でのぶっつけ本番が殆どの手作り旅であったが、別に、不都合なことは起こらなかったと思っている。
   今のようにインターネットを叩けば何でも調べられるようになると、事前スタディに手を抜くことになるのだが、私自身、意識して世界史や世界地理など世界情勢については勉強し続けていたので、おそらく、日本の並の旅行社やガイドよりも有能ではなかったかと自己満足している。

   さて、ルーブルの「モナリザ」だが、1973年に行ったときには、ルーブルにも客が少なくて、このモナリザの前に立って、いくらでも自由に写真が撮れた。
   今のように、厳重なガラスケースに治まっていて近づけないような状態ではなく、他の絵画と同じように、額縁が壁面に掛かっていて、少しその前に、2メートルくらい離れて立っている2本のスタンドに布ロープが張られているだけで、故意に近づけば、モナリザの額縁に触れられるような展示状態であったと記憶している。
   夕方でなくても、モナリザの部屋で一人になるチャンスはいくらでもあったのである。

   何度も、ルーブルを訪れて、このモナリザを観ているが、少し厳重な囲いの中に入って、その後、今のような展示状態になったような気がしている。
   このモナリザは、1911年8月21日に、イタリア人愛国者ヴィンチェンツォ・ペルージャによって盗まれて2年間フィレンツェのアパートにあった。
   通常の開館時間にモナリザの部屋に入って、掃除用具入れに身を隠して閉館を待ち、4本の鉄釘で額を外して、トレンチコートの下に隠して中庭を横切り、まんまと美術館を抜け出たというのである。
   金に困って画商に売ろうとして発覚して、短期間だけイタリアを巡回して何千人もの観客を魅了してルーブルに帰った。

   1516年に、レオナルド・ダヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きに応じてフランスに渡り、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館に移り住んだ。
   この時に、レオナルドは、この「モナ・リザ」をフランスへ持ち込んで加筆し続けたといわれており、レオナルドが、1519年に死去した時に、フランソワ1世が自分の城に飾るために買い上げたのである。

   ヨーロッパやアメリカの美術館を、僅かにしか残っていないレオナルド・ダヴィンチの作品を1作品でも多く観ようと見て回り、最近、やっと、エルミタージュで2作品を観て感激した。
   しかし、シェイクスピアの場合も同じだが、どうしても、間違いなしにダヴィンチが生活して居たその場所に行きたいと思い続けていて、やっと、ダヴィンチの終焉の地である前述のロワール河畔に建つアンボワーズ城のクルーの館を訪れることができたのは、モナリザを初めて見てから20年後の1993年の夏。
   このときは、夏期休暇の旅で、ロワール河畔の古城などを廻って、北に移動して、サンマロ、モンサンミシェル、シェルブール、ルアーブル、ルーアンを経て、ロンドンに帰った。
   フランスでは、危険なのだが、短期間に有効に旅をするには、どうしても車が頼りで、ボルボの一番大きな装甲車のようなレンタルカーを借りて、地図が読めない妻をナビゲーターにして、下手な運転で通したのだが、若気の至りも良いところで、信号のなかったパリの凱旋門のサークルを間違いなく脱出して、無事にシャルルドゴールに帰れたと思うと、今でも、冷や汗が出る。
   車では、イギリス、オランダ、ドイツ、デンマーク、オーストリアは、自分の車やレンタカーで走ったが、ラテンの国イタリア、スペインでは、絶対に車を運転しなかったのだが、フランスは、まずまず、と言うことで時々は車を使っていたので、大丈夫だと思った所為もある。

   久しぶりに、ナショナル・ジオグラフィックの「ダ・ヴィンチ全記録」のページを繰り始めている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブエノスアイレスのカミニート

2020年07月16日 | 海外生活と旅
   骨董店で、アルゼンチンの飾り皿を見つけた。
   ガラクタの中にあった民芸品だが、ブエノスアイレス港に隣接するラ・ボカにあるカミニートという小径をバックにして、男女がタンゴのステップを踏んでいる素朴な絵皿である。
   もう40年以上も前のことになるが、サンパウロに駐在していた頃に、アルゼンチンに行く機会が何度かあって、よくこの小径を訪れた。
   夕日が港を真っ赤に染める夕刻、この小径の、極彩色に塗り込めれれた民家の壁に灯がともり始める頃に訪れると、無性に旅情を誘われて懐かしさを感じる、そんな思い出がある。
   このラ・ボカには、イタリア移民が多いようで、「カミニート」は、鮮やかな極彩色のペンキで塗られたカラフルな家に囲まれた歩行者用の通りで、タンゴアーティストがパフォーマンスを行なったり、絵画や写真などタンゴに関連した記念品が販売されていて、楽しい。
   とにかく、ブエノスアイレスの最高の観光スポットの一つで、土産物店や食品店も犇めいていて、ウキウキするような雰囲気が漂っている。
   
   

   このボカの港に渡ってきたイタリア移民たちが、苦しい生活に必死に堪えながら、故郷を偲んで歌い踊って生まれたのがアルゼンチンタンゴだと思えば、詩情があって面白いのだが、
   アルゼンチンタンゴ・ダンス協会によると、
   タンゴは、1880年頃、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスと、ウルグアイの首都モンテビデオに挟まれて流れるラプラタ河が、大西洋にそそぐ河口地帯の両岸で生まれた。
当時、ブエノスアイレスの此の地帯は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町(ボカ地区)であった。さまざまの人種が共存しているフラストレーションのはけ口として、男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりである。次第に、娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来ていくが、当時の新聞は、酔漢達やならず者が踊る下品な踊り、と非難した。しかし、タンゴはそうした批判にもかかわらず、ブエノスアイレスやモンテビデオの下層階級を中心に、日増しに人気を得て行った。
   もともとタンゴは四分音符と八分音符で構成されるリズム・パターンの一つであった。これにヴァルスやミロンガ、カンドンベ、フォックストロットなどのパターンも取り込み、ピアノ・バンドネオン・ヴァイオリン・コントラバスの編成で楽団が組織されるようになって、タンゴはパターンからジャンルへ進化したと考えられている。

   庶民の民族芸能という位置づけで高く評価されていなかったようだが、先年、世界遺産に登録されて面目を一新した。
   来日したアルゼンチンタンゴ楽団の演奏会には、よく行って、ピアソラなどの名曲を聴いていたのだが、ブエノスアイレスで聴くタンゴは、また、格別で、アルフレッド・ハウゼのコンチネンタルタンゴとは一寸違った味があって、感動も一入であった。

   ところで、当然、本場のブエノスアイレスでは、タンゲリアに行かないわけがない。
   1975年から1979年の頃である。
   真っ先に行ったのは、エル・ビエホ・アルマセン(El Viejo Almacén)
   1778年に建てられた古い倉庫が1840年に増築され、1900年にレストランのエル・ボルガ(El Volga)となったのだが、廃業になったもののを改修して、タンゲリアになったもの。
   印象に残っているのは、薄暗い小部屋に所狭しとカリブの海賊に出てくるような漁具が壁面にデイスプレイされている異様な雰囲気で、バンドネオンの咽び泣くような音色に乗って、男女のダンサーが激しくステップを踏む・・・凄い迫力と噎せ返るようなムード満点の世界であった。
   今、このエル・ビエホ・アルマセンのHPを開くと、パリのリドやムーランルージュのような素晴らしいレストランシアターと言ったタンゲリアになっているのに驚いている。
   暗い舞台に向けて、当時のNikon F2をテーブルに固定して、F1.2のレンズを開放にして、何枚か写真を撮り、増感現像して、何故か、幸いにも1枚だけ残ったショットが、次の写真
   

   ニューオルリンズを訪れた時に、古民家をそのまま使った小さなプリザベーション・ホールで、老嬢スイート・エンマ楽団のジャズ演奏を聴いたのを思い出した。
   貧しい小さな部屋で、客席は、ほんの数人座れるだけの床机があるだけで、土間に座ったり後ろに立ったり犇めき合っていて、
   小編成の楽師達は殆ど黒人の老人達で、エンマのピアノに合わせて懐かしいデキシーランド・ジャズを奏でていて、「聖者の行進」のリクエストは1ドル、
   実に感動的な演奏で、こんな所でジャズが生まれて育っていったのかと、感に堪えなかった。 
   フラメンコ、ファド、、サンバ・ボサノバ、マリアッチ等々、ヨーロッパや中南米で聴いた音楽や、ラパスのナイトクラブで聴いたエル・コンドル・パッサもそうだが、その地方の民族音楽などを、異国で聴くと、旅情も加わって、胸に染みて、感動が増幅されて、強烈に印象に残る。

   もう一つ、ブエノスアイレスで行ったのは、当時は、最高級で立派なレストランシアターであったミケランジェロ、
   ここは、もう少し、舞台も綺麗で土属性はなくて洗練されていたが、ウィキペディアによると、
   アルゼンチンの老舗のタンゲリアの『ミケランジェロ』(Michelangelo)と『カサ・ブランカ』(Casa Blanca)が、2004年以前に閉店している。と言うことらしい。

   勿論、ブエノスアイレスでは、世界屈指のオペラハウス・テアトロコロン、
   ここで観たのはシュトラウスの「アラベラ」
   
   ディズニーがバンビのイメージに使ったという森林の美しい南米のスイス・バリローチェ、広大なパンパ、
   素晴らしい思い出しか残っていないのだが、
   経済的には、いまだに、むちゃくちゃな国だが、味のある印象深いところである。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Rioオリンピック2016とリオの思い出

2016年08月09日 | 海外生活と旅
   Rioオリンピックでの日本人選手たちの活躍を見ていると嬉しい。
   開会式の放映で、リオの風景が映し出されて、見慣れた風景が浮かび上がると、無性に懐かしくなった。

   はるか昔、1974年から1779年まで、ブラジルのサンパウロに在住していたので、リオへは、仕事や観光で良く訪れていた。
   その前は、フィラデルフィアでのMBA留学の2年間であったので、何となく、腰掛気分の海外生活であったのだが、ブラジルでは、仕事をして実績を上げなければならないし、家族も帯同しての本格的な海外生活なので、緊張を要した。

   当時のブラジルは、大変な好景気で、鳴り物入りで囃されたBRIC'sの比ではなく、大変なブラジルブームで、草木も靡く勢いで、日本企業が大挙してブラジルに殺到した。
   しかし、最近のブラジル経済の失速と同様に、ブームは長続きせず、世界でも屈指の経済的資源に恵まれながらも、何時まで経っても、ブラジルは「未来の国」である。
   
   あの当時も、サンパウロには、高層ビルが何千棟も林立する巨大な近代都市であったが、一方、中心から離れると貧民街ファベーラが広がっていると言う二重国家の様相を呈していたが、今も、リオの風景を見ていると、美しい海岸沿いの近代都市の横に山手に向かって、びっしりと低層のファベーラが広がっていて、殆ど変わっていない。
   ルーラ大統領の時に、大規模な貧民救済政策を実施したが、深刻な経済格差は解消されず、治安の悪さが依然として問題となっている。

   尤も、私自身は、リオを訪れても、コパカバーナやイパネバ海岸沿いの高級街や官庁ビジネス街しか行ったことがないので、ファベーラは知らない。
   しかし、一度だけ、友人の紹介で、日本にサンバ演奏団に参加して訪日したと言う演奏者を訪れて、サンパウロのファベーラに行ったことがあるのだが、あのリオのカーニバルでもそうだと思うのだが、多くの音楽家やダンサーたちは、ファベーラに住んで居たりするようで、正に、「黒いオルフェ」の世界であった。

   もう一つ、印象的であったのは、カーニバルやサンバに繰り出すブラジル人の多くは、庶民たちであって、金持ちたちは、ホテルや大会場を借り切って大パーティを開いて、自分たち自身のカーニバルやサンバを楽しむようで、私も一寸覗いただけだが、華やかで楽しそうであった。
   もっと金持ち連中は、外国に出て、楽しむのだと言う。
   何時まで経っても、ブラジルは二重国家のままなのである。
   これによく似た現象は、アルゼンチンのタンゴにも見られるようで、世界遺産に登録されても、まだ、庶民の芸術のようである。

   リオでもサンパウロでも、街の一角でのカーニバルの雰囲気を味わったが、大変な雑踏と人混みなので、本格的なカーニバルには見に行かずに、テレビで実況を見ていた。
   日本でも、祇園祭くらいで、祭り見物には行っていないので、まあ、仕方がないと思っている。

   リオとサンパウロを飛行機で往復すると、チャンスに恵まれると、あの巨大なキリスト像コルコバード(Corcovado)が、機内の窓から綺麗に見える。
   車で上ると、かなり高いところへの一本道なので、下手をすると上り切るのに時間がかかる。
   ケーブルカーもあるようだが、私は、マイカーで上った。

   もう一つ、上から遠望できるリオのシンボルは、頭のないライオンが伏せているようなポン・ヂ・アスーカル(Pão de Açúcar)で、砂糖パンに似ていると言うのでこの名前がある。
   とにかく、リオの上空を飛ぶと、飛行コースにも寄るのだが、コルコバード、ポン・ヂ・アスーカル、そして、弧を描くコパカバーナとイパネマの白砂の海岸などの美しい風景が眼下に迫り、最初に見た時には、非常に感動した。
   あまりにも美しくピクチャレスクな光景は格別で、ぐんぐんと迫りくる風景は圧倒的であり、その後、プラハで、私が見た一番美しい都市景観だと思って感激した、あの印象と同じである。

   さすがにリオでは仕事にならなかったが、多少、時間にも余裕があったので、コパカバーナで、美女たちの写真を撮ったこともあった。
   赴任を終えて、ブラジルを離れる前に、コパカバーナ海岸のリオ オットン パレス(
(Rio Othon Palace)に何泊かして、名残を惜しんだ。
   薄暗いホテルの高層の窓から望んだ、大西洋のかなたの地平線に浮かび上がる朝日の美しさは、今でも、印象に残っている。


   ブラジルについては、このブログの「BRIC’sの大国:ブラジル」ほかで随分書いて来たので、蛇足は避けるが、私にとっては、初めてのかなり長い海外生活の地で、永住権も取得した第二の故郷にも近い思い入れのある国なので、今回のオリンピックについては、平穏無事に成功裏に終わって欲しいと願っている。
   少し前に、大分追加勉強して、2年間、群馬県立女子大学で、単発のブラジル学講義を行ったことがあるのだが、歴史上も非常に特異な国ではあるけれど、協創には最高の国だと思っており、日本としては、特に、注目すべき国であろう。

   テレビで、オリンピック放送を見ていたら、窓の外で、アゲハチョウが、カノコユリにたわむれ始めたので、フッと、同じような光景を見たブラジルを思い出し、この文章を綴ってみた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海外旅行は何を楽しみに行くのであろうか

2015年08月16日 | 海外生活と旅
   産経の電子版に、「「タトゥーOK」浴場増加…外国人旅行者に配慮」と言う記事が掲載されていて、「訪日外国人が次回に訪日した時にやりたいこと」と言う次のような、表が添付されていた。
   この数年、円安の影響もあって、日本への外国人旅行者数が急増して、中国人の爆買いが、日本景気を牽引すると言う考えられないような現象さえ起こっている。
   訪日した外国人観光客の次回の希望であるから、日本の何に関心や興味を持って、日本を訪問したいのか、直の意見なので、観光誘致に、非常に役に立つ。
   

   1位が日本食を食べる、2位がショッピング、3位の温泉入浴と言う項目が入っていて、外国では、一種のファッションと言うか化粧の一種であるタトゥ(刺青)を禁止していては、観光誘致にはマイナスだと言う意向が芽生えたのであろう。

   さて、私の関心事は、自分自身は、何を目的に海外旅行に行くのであろうかと言うことである。
   若い頃とか、海外には縁のなかった頃なら、このような一般論の答えをした可能性もあるが、1泊以上した外国が45以上にもなって、行きたいところ見たいところへは、かなり行ってしまうと、もう、目的は極めて限定されてくる。
   この表から選べば、8位の日本(私の場合は外国)の歴史・伝統・文化体験しかなく、強いて追加すれば、4位の自然・景勝地観光であろうか。

   今、5~6日海外へ行くならどこに行くかと言われれば、時間的な余裕がないので、オペラハウスのあるニューヨーク、ロンドン、ミラノ、ウィーンでの観劇予定を優先して行き先を選んで、空いた時間を活用して、足の延ばせる歴史的文化遺産を訪れたり、博物館・美術館やミシュランの星付きレストランなどを行脚できたらと思っている。
   もう少し時間的な余裕があれば、まだ行って居ないポーランドやルーマニアや旧ユーゴを訪れて、歴史散歩や観劇三昧の文化的な鑑賞行脚を楽しめたら幸せだと思う。

   まだ、エジプトやイラクなど中東の歴史遺産には縁がないのだが、時代の激しい潮流もあって、何となく関心が薄れて来ているのが不思議である。
   出来れば、旅が億劫になる前に、インドへは、行ってみたいと思っている。

   しかし、今は、何度も行って居たところでも、やはり、ヨーロッパへ行って、どこでも良いので、その土地の歴史や文化の香りを感じながらゆっくりと時間を過ごせたら幸いである。
   仕事や旅の合間に、ふっと、訪れて時間を過ごした、今では、その土地の名前さえも思い出せないヨーロッパの片田舎や古都の街角などの懐かしい思い出が、彷彿と蘇って来て、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

   異国を訪れると言うことは、異文化異文明の環境にどっぷりと浸かって、非日常の感覚を味わうと言うことであろうが、しかし、どこかに日頃の生活に通じた懐かしさ心安さがなければ楽しめないような気がする。
   このような風景はどこかで観たような気がする、このような感じはどこか忘れたが味わったことがあるetc.前に一度来たような気持ちになれば、旅が一層楽しくなる。
   そんな経験を何度もしてきたが、そう思うと、むしろよけいに、新しい土地の印象が鮮烈となるのが不思議である。

   いずれにしろ、一人で外国を歩くことが多かったのだが、特別に緊張を感じたりすることなく、どこへ行っても案外気楽に過ごせたのは、自分には、そんな思いがあったからかもしれないと思っている。
   
   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「春雨じゃ、濡れてまいろう」は日本だけ?

2015年08月10日 | 海外生活と旅
   「春雨じゃ、濡れてまいろう」
   これは、月形半平太が、馴染みの芸子と料亭から外に出て見たら、しっとりとした春雨が夜の風情を醸し出して、ほろ酔い気分には気持ちよく、思わず呟いた言葉とか。
   好きな女と酔いが回って夢見心地でしっぽりと春雨に濡れて味わう幸せなひと時・・・粋なシーンである。
   
   何故、こんな話から始めるのか、それは、
   デイヴィッド・ピリングの「日本―喪失と再起の物語」を読んでいて、「国家の品格」の藤原正彦と、自然との調和について議論していて、雨に対する日本人と英国人の対応の違いについて語っているのを面白いと感じたからである。
   自然を愛する筈の日本人は、雨がぱらつくとすぐに傘をさし、にわか雨が降っただけであっという間に雨傘で埋め尽くされる、それ程、雨に濡れるのを嫌がるが、英国人の著者は、びしょ濡れになっても平気だし、雨傘なんて持とうと思ったことさえない、
   つまり、自分の方が豊かな自然と調和していると思いませんか、と言う。
   この雨に対する国民感情の差に、思い至ったのである。

   日本人には、何となく、英国紳士と言えば、雨が降っても降らなくても、何時もアンブレラを抱えて歩いている姿が定着している感じであるが、確かに、言われてみれば、あれは、いわば、紳士のアクセサリーと言うべきか、私の経験では、英国では、雨の時に、傘を使っている人が少なかったような気がする。

   傘で思い出すのは、英国在住ながら文化勲章を受けた世界的に高名な経済学者森嶋通夫教授とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス構内を歩いていた時に、雨がぱらついて来たので、傘をさしかけたら、「そんなこと、しーないな」と言われたことがある。
   大先輩でもあるし、偉大な経済学者でもあり尊敬していたので当然だと思ったのだが、今考えてみれば、イギリスでは、小雨に濡れるのは平気で気にしないと言うことだったのかも知れないと言う気がしている。

   イギリスでは、防水の利いたバーバリーやアクアスキュータムのコートが普及しており、ハットやハンチングなど帽子が結構重宝されていて、常備着のような態をなしているのだが、これなどは、何時雨が降っても、少々の雨なら平気だと言う生活の知恵であろうか。
   しかし、確かに、日本人の雨と傘との関係は神経質なくらいであり、英国人の方が、雨に無頓着だと言うことは、5年間の英国在住の経験から言えそうな気はしている。

   ここで、考えなければならないことは、雨に対する国民感情の差も大切であろうが、むしろ、雨の質であり、雨の降り方の違いにあるような気がする。
   日本の雨は、春雨に始まって、五月雨、時雨、梅雨、狐の嫁入り、氷雨・・・等々、最近のゲリラ豪雨など含めれば、場所と季節によって千差万別であり、時間によっても微妙に変化する。
   これに比べて、イギリスの雨は、原則的には極端な差がないにしても、もう少し単純と言うか、比較的豪雨が少なくて単調であったような気がしている。
   車での生活が多かったが、確かに、8年間のヨーロッパの生活では、折り畳み傘など携帯用の傘は持ったことはなかったし、大雨に難渋したと言う記憶もない。

   雨のことで思い出すのは、サウジアラビアの雨である。
   砂漠地帯が延々と続いていて、殆ど、雨などとは縁のない国なのだが、出張の時に、一度だけ、大雨が降って大洪水(?)に見舞われたことがあった。
   バーレン空港は、大雨で空港の建物は、ズタズタ。
   サウジアラビアの砂漠は、延々と俄か湖に覆われて、高低差のあるところは滝のように濁流が渦巻き、風景が一変してしまっていた。

   興味深かったのは、提携先の地元会社が、その日は休日にして、社長一家が、我々日本からの出張者を誘って、濁流が渦巻く暴れ川と俄か滝を見に行くために、日帰りツアーを行ったのである。
   郷に入っては郷に従えで、ネゴの進捗が気になったが、日本では、何のことはない、一寸した田舎の川が増水して暴れていると言った感じの風景を楽しみにつきあった。
   しかし、砂漠の民にとっては、干天の慈雨どころの比ではなく、豪雨の齎す天変地異は、正に、途轍もない自然の脅威なのである。

   前述したように、日本には、どう表現すれば良いのか分からないくらいの変化に富んだ雨が降るのだが、サウジアラビアでは、雨は、すべて雨。
   降り出したら、正に、日本の花見や紅葉狩りと同じように、弁当を持って見物に行く。

   また、日本には季節によって、無数の花が咲き乱れるのだが、寅さんが、どんな花でもタンポポでしょ、と言ったように、サウジアラビアでは、花は、花だと聞いたことがある。
   その代わり、日本は、ラクダは、ラクダだが、サウジアラビアでは、ラクダは、歳や性別、親族関係などによって、色々な呼び方で使い分けられているのだと言う。

   さて、本題に戻るのだが、確かに、日本は四季の変化が激しくて自然環境や自然現象の移り変わりについては、千差万別で、世界でも珍しい国であり、日本人の自然への対応なり感受性の豊かさには定評があるのであろうが、私は、藤原教授が言うほど、日本人が特別だとは思っていないし、ピリングの見解にも納得している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「モン・サン=ミシェル」は「行ってはいけない世界遺産」なのか

2015年08月09日 | 海外生活と旅
   ニューズウィークの電子版を観ていたら、「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない Mont Saint-Michel」と言う記事が載っていた。
   『行ってはいけない世界遺産』を著した花霞和彦の記事のようである。

   読んで見たが、モン・サン=ミシェルでは、プレサレ羊とオムレツが有名で、オムレツを食べたが高くて美味しくなかったとかで、何故、「モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のか、よく分からない。どうも、遠くてぽつんとある世界遺産なので、コストパーフォーマンスが悪いと言うことのようである。

   著者の真意を知りたくて、アマゾンで、この本の説明書きを見たら、
   ”見どころ×コストパフォーマンス 行ってガッカリしないためのリアルガイド
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
   高いお金をはたいて、長時間の移動に耐えて、やっとたどり着いたら「え? たったこれだけ!?」とガッカリした経験はないでしょうか?
   いまや世界に1000件以上もある世界遺産。限られたお金と時間の中で選ばなくてはいけません。
   本当に行く価値があるのか、値段と時間と労力に見合うのか、ガイドブックの美辞麗句に惑わされず、しっかり検討しましょう。
   数多くの世界遺産に足を運んだ著者が、コストや体力度などのデータとともに、20の世界遺産を徹底検証。”
   と言うことらしい。
   このような世界遺産への旅のアプローチは、私には全く論外で、まず第一に、旅行用のガイドブックなどの埒外の旅であり、世界遺産の世界遺産たる所以を全く分かっていないと言う以外に言いようがない。

   多少は世界遺産を見て歩いた経験のある私自身の感想だが、人類が営々として築き上げてきた人類の貴重な遺産や自然の造形した神秘に対する一種の冒涜であり、基より、コストパーフォーマンスを考えるのなら、最初から旅をするなと言うことである。
   写真家土門拳が、不自由な体を吊り上げられて撮った日本第一の建築と称賛した三佛寺投入堂の写真の凄さが示しているように、崇高な歴史遺産には、人知を超えた価値と魂が凝縮されているのである。

   私は、モン・サン=ミシェルには、2度訪れている。
   直接日本から行ったのではないので、コストは限られているので偉そうなことは言えないが、一度は、出張先のレンヌからタクシーで、二度目は、ノルマンデー旅行の時に、サンマロからシェルブールへ向かう途中車でアプローチし、夫々、一日過ごしただけだが、アップダウンの激しい島内をあっちこっち歩いて、フランスの中世の宗教都市にタイムスリップした思いで、感動しながら時を過ごした。

   さて、花霞氏の記事だが、
   ”結論としては、モン・サン=ミシェルは、対岸のバス乗り場から眺めるシルエットがクライマックスであります。でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。しかし、有名店のオムレツには注意してください。どうしても名物オムレツを食べたいなら、・・・”
   ”でも、せっかくなので島内に入り、修道院も見学しましょう。”と言うに至っては何のためにモン・サン=ミシェルに行くのか、何をか況やであり、
   「こんな人は、モン・サン=ミシェルに行ってはいけない」のは当然である。

   花霞氏の本『行ってはいけない世界遺産』には、
   モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、ガラパゴス諸島、アマルフィ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウス、ナスカの地上絵、アンコール……
etc.が掲載されているようだが、私の行ったのは、 モン・サン=ミシェル、グランドキャニオン、ストーンヘンジ、セーヌ河岸、マチュピチュ、オペラハウスくらいだが、夫々、感動と感激の一語に尽きる思い出ばかりである。
   これらについては、これまでに、このブログで何度か記事にしているので蛇足は避ける。

   この口絵写真は、フランス政府のHPから借用した写真である。
   私が撮った何百ショットの写真があるのだが、倉庫に眠っていて探せないのが残念である。
   欧米などの旅には、必ずミシュランの英語版のグリーンとレッドのガイドブックを持って歩いているが、旅は、その地を訪れて物見遊山すれば良いだけではなくて、その地の歴史や文化などにも敬意を払って、それなりの知的武装なり心の準備をして行くのは当然だと思っている。
   特に、歴史的な世界遺産は、永く熾烈な歴史の風雪に耐えぬいた人類の永遠の英知が凝縮されている貴重な財産であって、アダや疎かで見過ごせるものでは決してない筈だと思っているので、人類の偉大さ崇高さに感動しながら、どっぷりとその環境に没頭して時を過ごしたいと願い続けている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日経:「シニアを癒やす南国の風 」と言うのだが

2015年06月21日 | 海外生活と旅
   今日の日経電子版に、「シニアを癒やす南国の風 155万人 海外長期滞在人口 」と言う記事が掲載されていた。
   ”年金生活を迎え、第二の人生は海外で--。長期滞在を支援する「ロングステイ財団」(東京・港)によると海外で2週間以上滞在した日本人は155万6000人で過去最高を記録した(2013年度の推計値)。健康的で長生きするシニア層の増加が、旅行スタイルを多様化させている。”と言うのである。
   この海外長期滞在人口155万人と言うのは、ビジネスでの海外在住も含めているようで、この記事に該当する60歳以上は、約21万4700人で、04年度の6割増だと言うことであるが、第二の人生は海外でと言う人の実数は、遥かに少ないであろうが、ともかく、増えていると言うことである。

  ”最近は物価が安く日本以上の生活水準が期待できる東南アジア各国に注目が集まり、特にマレーシアは06年度から9年連続で滞在したい国の首位を維持していて、マレーシアでの10年間ビザの邦人取得は428件(2014年)”だと言う。
   次表を見ると、マレーシア、タイであろうが、安定した先進国と言う意味では、ハワイ、オーストラリア、カナダと言う選択肢は、良く分かる。
   

   老後の海外移住についての自論は、これまでに何度も書いているので、蛇足は避けるが、私自身の今の心境は、この日本での生活に満足しており、海外移住の気持ちはないと言うことである。
   留学やビジネス主体ではあったが、海外を随分歩いて来たし、アメリカ、ブラジル、オランダ、イギリスで、トータル14年を過ごし、かっては、ブラジルとイギリスで、永住ビザを持っていて、海外での生活には、殆ど不都合を感じない筈の私だが、やはり、日本での老後生活の方が、はるかに良いと思っている。
   多少、億劫にはなってきているが、海外に旅に出たいと思ったら、その時に、何時でも出て行けば良いのである。

   要するに、何のために、海外移住をするかと言うことだが、
   ”長期ビザは「自分へのご褒美」”と言うサブタイトルのところで、
   ”「毎日が日曜日ですよ」。首都近郊のゴルフ場には、長期滞在するシニアたちが連日集まり笑い声が響き渡る。企業戦士として仕事に明け暮れた「自分へのご褒美」と口をそろえながら、ゴルフ三昧の日々を満喫している。海外生活での楽しみ方は様々だ。”として、「ラウンドを終え食事する日本人の長期滞在者。ゴルフ三昧の生活に笑顔もはじける」と銘打った老人たちが寄り集まって談笑している写真が掲載されている。

   私には、このような生活には、全く興味はないし、耐えられなくなって三日も持たないと思う。
   永住しろと言われれば、ロンドンかニューヨークを選びたいと思ってはいる。
   もう一度、キューガーデンに居を構えて、ロイヤルオペラやロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどのシーズン・メンバー・チケットを取得して、暇に飽かせて大英博物館などに通って勉強しながら、思い立っては、ヨーロッパの古都や文化遺産を訪ねて文化三昧に耽る・・・そんな夢を見るのも悪くはなかろうと思って、暫く、イギリスの永住権を維持していたことがある。

   ところで、この記事は、「パンや牛乳など食料品の価格も上がってきた・・・アベノミクスによる円安で、為替メリットも享受できなくなってきている。健康に不安をかかえ、よりどころを日本に求めて帰国を考える人たちも少なくない。」と言ったネガティブなことも書いてあるが、
   「生活防衛や終のすみかにも」として、「将来、シニアが直面する健康や介護への不安を払拭できれば、東南アジアは「理想のすみか」であり続けるかもしれない。」と締めくくっている。
   果たして、そうであろうかと言うのが、私の正直な感想である。

   さて、何故、日本に居たいのか。
   私にとっては、色々な理由があるのだが、自分勝手な言い分に限れば、例えば、今興味を持ち始めて通っている国立能楽堂での能・狂言の鑑賞など、日本文化や歴史に触れながら日本の良さ味わい深さを、もっともっと身近に感じたい、勉強したい、と言う気持ちは、この東京を離れては、満たし得ないであろう。
   学生時代を過ごした京都など故郷でもある関西も良いのだが、あの神保町の雰囲気なども含めて、東京が与えてくれるトータルのパワーは、桁違いに大きいのである。

   私のような生き方も、「アホとちゃうか」と言う友もいるので、 正に、人、夫々であって、私は、自分の選んだ道を歩む以外に仕方がない。
   今のところ、健康上も生活上も、特にこれと言って問題がないので、勝手なことを言って居られるのだが、一寸先は闇で、将来、どうなることかは、全く分からないので、出来るだけ、納得しながら生きて行きたいと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国切手を鑑定して見たら

2014年09月20日 | 海外生活と旅
   1980年の夏に、出張で、北京に行ったことがあり、その頃、長女が切手集めをしていたので、少し買って帰った。
   昨年末、鎌倉への移転で、色々なものを整理していたら、その一部が出て来たので、最近、中国の切手に人気が出ていると聞いていたので、どんなものか、鑑定して貰おうと思って、新宿の専門店へ持ち込んだ。

   100枚ほどの切手を、店主が非常に丁寧に一枚一枚、1時間ほどかけて鑑定してくれた。
   結果的には、〆て8000円くらいで、多少、高ければ、買い取って貰おうとしたのだが、1枚100円以下と言うことは、原価にもならないし、面白い切手もあるので、孫には記念になると思って、感謝して持ち帰った。

   
   文革の頃、すなわち、1966年から1977年頃までの、中国切手品薄時代の特別な切手は高いようなのだが、それを外れると二束三文のようである。
   私の場合には、この口絵写真の切手のような1977年の切手など、文革終期の切手が大半だったので、ダメだったのであろう。
   しかし、私の持ち込んだ切手は、中国切手コムの、
   価値の高い可能性のある切手は、・・・T1~103、J1~99になります。と書いてあるのだが、それに該当する切手が、大半であったことは確かである。

   偶々、切手のことで、その頃のことを思い出したので、中国の思い出を記しておきたい。
   
   丁度、文革後の混乱期が終息して、中国政府が海外に門戸を開き、日本企業が中国にオフイスを開き始めて、中国との商談で日本からの出張が認められた頃である。
   しかし、中国には、オフィス・スペースなどなかったので、商社など日本企業の事務所は、ホテルの部屋が使われていた。
   また、出張の場合には、入国ビザが中々下り難くて、長い間待たされた。
   聞くところによると、宿泊施設がないので、ホテルの部屋が空くのを待って、その空きスペースによって、ビザを発給していたようであり、入国前から部屋が決められていて、私の場合には、同僚とツインであった。

   我々は、シンガポールの強力な華僑ビジネスマンに誘われて、ホテルプロジェクトの建設許可の可能性打診に出かけた。
   商談は、当然、政府の役人とで、彼らは、事務所が貧弱なので、我々の部屋にやって来てネゴをした。
   一回で終わらず、何回かにわたるのだが、いつ来るのか分からず、殆どホテルに釘付け状態であったが、万里の長城には行けなかったものの、合間を見て、紫禁城や天壇、頤和園などには、行くことが出来、貴重な経験をした。
   写真撮影には制限がなかったので、紫禁城など、当時の中国の姿を随分写真に撮ったのだが、どこにあるのか。
   余談ながら、まだ、北京随一の目抜き通り王府井を、荷馬車が走っていた頃なので、空気は綺麗であったし、良き時代であった。

   さて、買い物だが、我々外人は、入国時に、外人と華僑に特定された兌換紙幣と交換させられて、その紙幣で、主に、外人及び華僑用の特別な指定店で買い物をさせられていた。
   その紙幣の一部が、次の口絵写真の右半分である。
   
   尤も、同じ店で、1階が華人用、2階が我々様と言った店が多くて、普通の店でも買い物は出来た。
   百貨店に行って、商品を見たが、勿論、交換レートで換算しても、物価は非常に安くて、最高級の胡弓でも非常に安かったので、まがい物だと思ってしまって買えなかったのだが、買えば記念になったのにと思って、今になって後悔している。
   当時買った景徳鎮の鶴首の花瓶が、残っていて懐かしい。

   さて、この時、これらの切手も、確か、外人用の店で買ったと思うのだが、その時買った切手で、梅蘭芳の切手セットだけは異常に高かったの覚えており、大切だと思って別に保管していたのが仇となって、なくしてしまった。
   もう35年も前の話で、オランダやイギリスや、あっちこっち宿替えを続けて来たのだから、少しでも、中国切手が残っているだけでも、奇跡と言うべきだと思っている。
   
   とにかく、中国がこれだけ成長発展するなどとは夢にも思わなかったのだが、私にとっては、終戦時代のどん底からの人生のスタートであったので、天変地異でなければ、それ程の驚きでもないことも事実である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「世界一正直な街」はヘルシンキ? 財布を落として実験

2013年09月25日 | 海外生活と旅
   CNNが、世界各地の都市でわざと財布を落とし、拾い主が届けてくれるかどうかを試してみたら――。米誌リーダーズダイジェストがこんな実験で市民の「正直さ」を比較しランキングを発表した。と報じている。

   世界の16都市でそれぞれ12個ずつ、公園や歩道、ショッピングセンターの近くなどに財布を落としておき、拾った人がどうするかを見届けた。財布には50ドル分の現金と携帯電話の番号、名刺、クーポンと家族写真を入れた。
   計192個の財布のうち、返却されたのは90個。都市別ではフィンランドのヘルシンキがトップで、12個中11個が返ってきた。2位はムンバイの9個、3位にはハンガリー・ブダペストとニューヨークが8個で並んだ。
   最下位はポルトガル・リスボンで、1個しか返却されなかった。しかもその1個を拾ったのは地元住民ではなく、オランダからの旅行者だった。と言うのである。

   財布を返すかどうかを年齢や性別、外見上の貧富などから予測することは難しく、「どの都市にも正直な人とそうでない人がいる」という結論が出た。と言うことだが、因みに、16都市のランキングは次のとおりである。
   16都市のランキングと戻ってきた財布の数
   ◇
1.フィンランド・ヘルシンキ(11)
2.インド・ムンバイ(9)
3.ハンガリー・ブダペスト(8)
3.米ニューヨーク(8)
5.ロシア・モスクワ(7)
5.オランダ・アムステルダム(7)
7.ドイツ・ベルリン(6)
7.スロベニア・リュブリャナ(6)
9.英ロンドン(5)
9.ポーランド・ワルシャワ(5)
11.ルーマニア・ブカレスト(4)
11.ブラジル・リオデジャネイロ(4)
11.スイス・チューリヒ(4)
14.チェコ・プラハ(3)
15.スペイン・マドリード(2)
16.ポルトガル・リスボン(1)

   残念ながら、東京が調査の中に入っていないのだが、滝川クリステル嬢が、ブエノスアイレスの東京オリンピック招致演説で、落とした現金が必ず返って来る安心安全な都市だと言っていたように、ダントツの一位だってであろう。

   ところで、非常に恣意的で独断と偏見が強くなって書くべきではないとは思うのだが、私自身の正直な感想を綴ってみたいと思う。
   私自身が、一度も行ったことのない都市は、ムンバイ、モスクワ、リュブリャナ、ワルシャワ、ブカレストの5都市で、これらについては、本来、コメントすべきではないかも知れない。

   しかし、私が最初に注目したのは、ムンバイの2位で、インドと言う国に対する先入観が強すぎる所為もあってか、最貧層が最も多くて深刻な都市問題を抱えている筈のインドの大都市ムンバイが、これ程の好成績を挙げていると言うのは、意外であった。
   ヘルシンキの1位は、良く分かるし、半数以上が返って来たニューヨークやモスクワ、アムステルダムについても、まず、異論はない。
   ロンドンには、5年も住んでいたので、5つしか返って来ないと言う現実は、何となく分かるような気がしている。
   スイスのチューリッヒが、非常に悪い結果であるのには、一寸、驚いている。
   マドリードとリスボンが最低なのは、まず、現在、経済的にも、EUの中で最も困窮を極めている国であり、それに、平時でも、これまで、旅行者にとっても危ない最も注意すべき都市であったことを考えれば、仕方のない結果ではないかと思う。

   興味深いのは、東欧の都市の結果が上下に分散していることで、国境を接しているハンガリーのブダペストとチェコのプラハが、何故、これ程、差がつくのかは、私には分からない。
   ハンガリーの方が、民主化は早かったが、チェコは、元々、最も工業化が進んでいた民度の高い国であったし、甲乙付けがたい程、東欧では、優等生であり、両都市とも、世界で最も美しい都市として観光客の憧れでもある。

    
   尤も、場所の選び方にも問題があろうし、僅か、12か所で財布を落としての調査であるから、至って信憑性の危うい調査なので、これで、都市の正直度や安全度を測られては、たまったものではないが、面白いと思ったので、コメントして見た。
   

(追記)口絵写真は、トップのヘルシンキ、最後の写真は、リスボンで、CNNの記事から借用した。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トルコ中部カッパドキアでの女子大生事故に思う

2013年09月10日 | 海外生活と旅
   メディアの報道によると、新潟大の女子学生2人が、夏休みを利用してトルコに入国して、カッパドキアのゼミ渓谷を散策中に襲われた。現場は当時、人けがなかったとみられ、倒れている2人を別の観光客が発見して通報した。と言うことである。
   実に悲しい事件であり、被害にあわれたお二人そしてご家族の皆様には、心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。
   
   詳細が分からないので、何とも言えないが、私自身の経験や娘たちの海外旅行のケースなどを参考に、日本人の若者たちの海外旅行が、如何に、危険と隣り合わせの状態にあるかについて、私見を綴ってみたいと思う。

   結論から先に言うと、とにかく、日本人は、あまりにも恵まれた単一民族単一文化の日本と言う素晴らしい国に住んでいるので、異文化異文明、外国事情には全く免疫がなくて、どこもかしこも同じだと思って、日本にいるような感覚でものを考えて行動する、平和ボケだと言うのが最大の特徴であって、これが、外国で、あるいは、異文化との遭遇で、問題を起こす。
   滝川クリステル嬢がブエノスアイレスで世界に宣言したように、日本ほど、全土に渡って、安全安心の行き渡った国は、世界何処にもないと言うことを努々忘れてはならないのである。

   私自身、トルコは、イスタンブールに二回しか行っていないのだが、一度、仕事の関係で、イスタンブールから、タクシーで、マルマラ海沿いに回って、イズミットを経てプルサからかなり奥の田舎まで行ったことがある。
   カッパドキアは、奇岩で有名なトルコの観光地であるが、まだ、行ったことはない。   しかし、私のイスタンブールなどの観光地での経験では、トルコは、新興国とは言っても、まだまだ、文明世界と非文明の混在した環境で、それに、イスラム教国であると言う特殊性が絡んで、日本人が容易に溶け込めるような雰囲気ではないし、第一、不測の事態には、適切な対応は無理である。
   ハギア・ソフィアの大聖堂を訪れた時には一人だったので、カーペット商人に絡まれて振り切るのに大変な思いをしたし、とにかく、ヨーロッパの観光地を旅行するのとは違って、かなり、緊張感を要する。

   海外生活に完全に慣れ異文化の遭遇にも違和感を感じないくらいの人なら、まず、問題ないところであっても、何度か海外へ行った程度の若い女性が二人で、それも、全く違った国で、ガイドや地元の人の同行がなくて、今回のように人気のないところを歩くなどと言うのは、考えられない暴挙と言う以外にない。


   ヨーロッパが長かったので、その間に、多くの日本の若者の旅行者に会ったことがある。
   殆どは、観光地や美術館、劇場などで、大概は、女子学生など若い女性であったが、一人旅もかなり多かった。
   好奇心の強さと勇気に感心はしたものの、何処も危険に満ちていて、何時、不幸に遭遇するか分からないし、その防御ができるのか、私自身、そんな恐怖を絶えず感じながら海外生活を送っていたので、他人事ではなかった。
   比較的安全な、イギリスやドイツ、オランダなどと言う国では、それ程気にはならなかったのだが、イタリアやスペイン、ギリシャなど、男性旅行客でさえ、頻繁に被害にあっている国では、何でも見てやろう風の若い女性が多かったので、特に一人旅では、好奇心本位で無理をしないか、心配ではあった。
   

   ロンドンでは、何人かの友人や同僚の子女が旅行の途中に立ち寄ることがあったので、数日、預かることがあったが、大概二人旅の大学生で、大体、無難なスケジュールで動いていて、イギリスの場合には、無理をしなければ、問題はなさそうであった。
   それでも、深夜になっても、ウエストエンドの歓楽街でうろうろする日本の若い観光客が結構多かったのには、旅のハイテンションがなせる業か、眉を顰めざるを得なかった。

   中には、娘の大学の同級生だと言うことで、娘自身全く面識のない女学生が、ロンドンで泊めてくれと言うので、止む無く泊めたところ、言わなければ何日も居たり、また、アムステルダムの時には、失恋して男性を追っ駆けてヨーロッパに来て英語の研修を受けていて、同じ学校で娘と知り合って、娘の部屋にそのまま長逗留した女性もいたり、とにかく、よくも知らない女性をどう扱ってよいのか困ったことがあった。   
   もう一つ、アムステルダムへの帰途、KLMで会った夫人が、イスラエル人との結婚を反対された娘が、オランダに行って住んでいるので連絡を取ってくれと頼んだので、電話をしたら、その夜エルサレムへ飛ぶ寸前で、スキポール空港で二人は会えたが、止められなかったと言った経験もある。
   海外旅行の動機はともかく、色々な若い日本女性が、外国に憧れて旅をしている。
   しかし、ニュースにならないだけで、実際には、恐ろしい経験や事故に合っているケースは、かなりあるのではないかと思うのだが、どうであろうか。

   先日、イタリア人男性と結婚して長くイタリアに住んでいたハイセンスの女性に聞いたのだが、ローマなどに在住する若い日本女性が、結構いるようだが、必ずしも、しっかりとした目的を持って住んでいるのではなく、何となく、住み着いていると言う人が、かなり、いると言う。
   何かに憧れて、あるいは、日本に居辛くなって、イタリアに来たが、帰るに帰れないと言うのである。
   それに、仕事をするにしても勉強するにしても、あるいは、趣味に生きるとしても、一所懸命に、現地に溶け込んだ生活をしない限り、外国に住んでいると言うだけでは、海外経験は、何のプラスにならない筈である。

   私の娘の場合には、殆ど家族旅行で各地を回り、次女の英国での大学・大学院卒業を記念してアメリカと中国を回った時も、私が連れて歩いた。長女は、一度同級の女子大生とポルトガルとスペインを旅したことがあるが、英語も問題なく海外生活も長いし外国での教育も受けているので、十分注意して行かせたのだが、いずれにしろ、夫々、同居ないし単独で海外で生活していたので、自分自身で十分に注意して、身を持って危険予知を身に着ける以外にないと思いながら、細心の注意は怠らなかった。

   ところで、私自身、海外生活14年の経験者だが、これは、自分の希望も多少加味されたとしても、会社命令の留学であり赴任であり、幾分恵まれた海外生活ながら、それでも、望郷の念醒めやらず、異国で生活すると言うのは、楽しいことばかりではなく辛いことも結構多い。
   やはり、日本に住んでいて、時おり、計画を立てて、好きな時に好きな外国へ行くのが、一番良いと思うのだが、絶えず心しなければならないのは、日本ではない、異国なんだと言う認識を絶えず持って、旅の安全に心掛けることである。
   海外旅行は、楽しいであろうし有益ではあろうが、同じくらい、辛くて苦しいものでもあると言う思いを、頭のどこかに置いて置く必要があることも事実なのである。

   これまで、かなり、海外旅行について、辛口の私見を述べて来たが、私の本意は、ここになく、世界に飛び出すことが、如何に素晴らしいことであり、そこでの経験は、人類が営々として築き上げてきた文化文明の遺産の凄さ素晴らしさに感激感動することであり、どんな苦しい努力をしてでも、得るもの感じるものは、無限であると言うことである。
   この素晴らしい人間賛歌を感じることなく、人生を送ることが如何に無味乾燥であることか。
   私が、知盛の心境になり、「見るべきものは見つ」と何度か感じたのは、海外での経験であったことを記して、地球を歩くことは、愛することと同様に、人生における最も素晴らしいことの一つであることを、強調しておきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

深夜、言葉の全く通じない異国で放り出されたらどうするか

2012年08月21日 | 海外生活と旅
   グローバル時代だと言うけれど、兎角、コミュニケーションは難しい。
   私など、米国製MBAだから、英語は、多少人様よりはましだと思うのだが、ドイツ語は、大学の教養で習った第二外国語のドイツ語と、ブラジル在住時に少し習ったポルトガル語くらいで、これが総ての知識だから、グローバルコミュニケ―ション能力など、極めて限られている。
   しかし、これで、私自身は、外国人を相手にして欧米他で仕事をして来たし、1泊以上した外国は、40ヵ国を越しており、チャルーズ王子やダイアナ妃とも話をしたし、結構大変な人物を相手に丁々発止の戦いをして来た。
   やれば、この程度の語学力でも、やれないことはないと思うのだが、しかし、全く、言葉の通じないところに放り出されて、やれと言われれば、全く自信はない。

   これは、もう、20年以上も前の経験だが、ハンガリーのブダペストで、それも、午前一時と言う全くの深夜に、一度昼にしか行ったことのない森の中の住宅の前で放り出されたことがある。
   提携先のハンガリー人エンジニア・プロツナーの家で、しこたま飲んで、タクシーで送り届けられたのだが、どう考えても、自分の記憶していた家と違うような気がした。
   エンジンをふかして去ろうとするタクシーを追っかけて必死の思いで止めたのだが、全くハンガリー語しか分からない運転手にどう話せばよいのか、困ってしまった。

   その前に、事情を説明しないと分からないが、その時は、ベルリンの壁が崩壊した直後のブダペストで、外国人が留まれるまともなホテルは総て外資系であって、外貨を持たないハンガリー人は予約さえ出来なかったので、プロツナーは、東京からの上司夫妻と私のための宿舎として、バカンスに出た友人の住宅を借りてくれていたので、そこに帰ったつもりだったのである。
   昼に案内されて、スーツケースなどを置いただけで、良く見ていないし家そのものも覚えていない。
   まして、当然、夜は送って貰えるものだと思っているし、上司夫妻とも同道なので、その家の住所さえ聞いてもいないし、たとえ聞いていたとしても、人跡まばらで外灯さえない深夜のブダペストの森の中で、訪ねる相手もいないし、当然、留守だから、目的の家に人がいるわけがない。
   それに、運悪く、いい気分になった上司夫妻は、プロツナー宅で泊まることとなり、私一人で、タクシーで送られたのだが、まさか、プロツナーがタクシーの運転手に嘘を言っている筈がないと思ったのだが、草木も眠る丑三つ時に、思い当たりのない家の玄関にキーを差し込んで、ガチャガチャ開けるわけには行かない。

   どのように説明したのか、全く記憶がないのだが、あの手この手を使って、とにかく、もう一度、プロツナーの家に帰ってくれと説得(?)した。どうにか分かったのか引き返してくれたので、既に外灯を消して寝静まっていたプロツナーを叩き起こして、事情を言って、もう一度、正確に、運転手に指示するように頼んだ。
   同じ家に引き返したのかどうか全く記憶はないが、キーを差し入れたらドアーが開いたので、運転手に礼を言って、家の中に入った。

   ところが、不思議なことに、昼に入った時には、点けた筈のない電気が、リビングに点いていて明々としている。
   見るともなく見ると、ソファーの上で、見知らぬ男が寝ている。
   バカンスに出た家族が寝ている筈がないし、万一、寝るのなら寝室で寝ている筈だし、まして、私たち以外の人間を泊めるのなら、事前に言っている筈である。
   明らかに招かれざる客のこの寝ている男を起して、トラブルになっては拙いので、とにかく、一部屋おいた隣の寝室に入って、部屋のカギをかけて寝ることにした。
   ベルリンの壁崩壊直後の混乱状態のブダペストの、それも森の中の深夜の一軒家で、見知らぬ異人と一緒、と言う万事休す状態だが、どう足掻いても、ここで夜をあかす以外に他に選択肢がない。

   図太くも、昼の疲れが出て寝てしまったのであろう。
   朝早く、外から声がするので出てみると、プロツナーと上司が庭から覗き込んでいる。
   心配しての訪問だろうが、プロツナーに、おかしな男が寝ていたぞ、と言うとびっくりしていたが、リビングに行ったら、もう、その男はいなくなっていた。

   いずれにしろ、これがインターナショナル・ビジネスなので、その後は、お互いに何もなかったかのように、それ以上、プロツナーとは何も話さなかったので、真相は藪の中である。
   ブダペストへは何回か来ていて、マネージャーとも馴染みだったので、その日から、米系のトップ・ホテルに移動した。
   ベルリンの壁の崩壊前後のハンガリーは、とにかく、混乱と激動に翻弄されていて、豪華絢爛たる議事堂内でネーメト首相に会ったかと思うと、うらぶれた廃墟のようなビルの片隅の執務室で大臣に会ったこともあり、とにかく、多くの苦難を生きて来た壁の向こうの世界は正に異次元の空間であった。
   しかし、20世紀の前半で成長の止まったような廃墟の様なブダペストではあったが、流石にハプスブルグの二重帝国の首都だけあって、破壊から免れたレストランの優雅さと洗練された美しさは正に特筆もので、時間の経つのが恐ろしいくらいに感動的であったのを覚えている。
   先のトラブルや、このような面白いと言うか、思いがけないような経験を、幾度となく繰り返しながら、少しずつ、ヨーロッパに馴染んで行ったような気がしている。

   たとえ言葉が分かっても、全く異質な文化と文明、そして、全く違った歴史などバックグラウンドを異にした人々といかにコミュニケートして理解し合えるのか、ICT革命で、情報や知識が爆発的に増えれば増えるほど、難しくなる。
   しかし、とにかく、言葉が通じなければ、話にも何も成らないことは事実で、グローバル時代に生きて行くためには、最低限度、それ相応の英語力くらいは、身に着けておかなければならないと言うことであろう。

   もう半世紀も前の話だが、英語が不自由な大阪の大会社の社長が(余談だが、同行者を連れて行く余裕など、当時の貧しい日本にはなかった)、ニューヨークで、オムレツを食べたくて、大阪弁でおむれつと言って注文したが、通じないので、椅子から立ち上がって、両手を横にしてバタバタはためかせて、お尻から卵をポトンと落とす仕草をして説明したと言う話を聞いたことがあるのだが、もう、そんな時代ではないと言うことである。コケコッコーと言ったのかどうかは聞いていないが、アメリカの雄鶏は、cock-a-doodle-dooと鳴くのなどは勿論知らなかったのであろうけれど、所変われば品変ると言う世界、とにかく、異国でまともに生きて行くと言うのも大変なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする