朝日デジタルで、「パリ市内の道、制限速度30キロに シャンゼリゼは例外」という記事を見た。
パリ市は8日、市内の道路の制限速度を原則として時速30キロにすることを明らかにした。歩行者の安全や騒音の軽減が目的で、8月末から実施する。交通政策を担う副市長が、仏メディアに語った。市によると、シャンゼリゼ通りなどの一部の大通りは例外として時速50キロのままにするほか、車両専用の外環道も70キロを維持する。と言う記事だが、
この記事を見て、あの凱旋門のサークルを、良くも無事に通過して、シャルル・ド・ゴール空港に辿り着けたものだということを、思い出して懐かしさを覚えたのである。
後期高齢者に仲間入りをして、すぐに、自動車運転免許証を返納したので、既に車とは縁が切れたが、若いときには、随分、車で各地を走ってきた。
私の免許証は、外国での取得で、ブラジルとヨーロッパでは、ビジネスと私用での足代わりであり、生活の必需品であったので、随分、あっちこっちをドライブした。
さて、パリでの運転だが、ヨーロッパでは、イタリアやスペインなどラテン系の国では、極力避けていたのだが、1993年のヨーロッパからの帰国時に、フランスを10日ほど周遊しようとして、どうしても車でないと無理なので、シャルル・ド・ゴール空港でレンター・カーを借りて走ることにして、その最後の日に、シャルトルから空港への途次に、パリを抜けた時のことである。
元々、運転が上手なわけでもなく、ラテン系のフランスであるから、安全を期して、車は、ボルボの一番大きな装甲車のような車を借りたので、まずまず、快適であった。
問題の凱旋門のサークルだが、その後、信号機が付いて通過しやすくなったが、当時は、信号機もなくて、蜘蛛の巣状のサークルに車が一斉に集中して散らばって行くと言う状態で、何重列の輪の中から目指す支線へ抜けて行くと言うのは大変な緊張を要するのだが、誰でもがやっているのだから出来ないわけがなかろうと、無謀にも突っ込んでいった。
この時の旅のルートは、ロワール渓谷の古城を回り、アンボワーズ城近くのクルーの館で、レオナルド・ダ・ヴィンチを忍び、ブルターニュに抜けて、サン・マロ、シェルブールから、モン・サン・ミッシェル、そして、シャルトルで旅を終えた。
それまで、結構、フランス各地を仕事で回っており、休日や仕事の合間を利用して旅を続けていたので、かなり、フランスは知っているのだが、この時は、イタリア人の本「人の話を聴かない男と地図の読めない女」の典型的な夫婦と娘との家族旅行であった。
旅のガイドは、すべて、ミシュランで、グリーンガイドで旅の概要を摑み、レッドガイドでホテルとレストランを選び、ミシュラン地図で車をドライブする。
ルートは勿論、ホテルもレストランも、ミシュランの★★★に拘ってハシゴして走った。
地図の読めない家内が、ナビゲーターであるから、どんな旅であったか。
尤も、私の場合は、出張も個人旅行の場合にも、旅程の決定からホテルやチケット等旅行の手配など一切は、自分でやっていたので、途中でのスケジュールの変更などは自由自在で、いくらでも臨機応変に対応できたので、それほど、苦労することはなかった。
旅行の途中は、殆ど英語で対応できたが、場合によっては、十分ではない独仏西などの断片を駆使(?)して切り抜けたりしていたが、ハンガリー語やチェコ語などになると、もうお手上げで、結構苦しみながらの旅も経験している。
それでも、ラテンアメリカのように、殆ど英語が通じなくて、まずまずのポルトガル語と少々のスペイン語で対応しなければならなった所よりは、幾分は楽であった。
ヨーロッパに居たときには、まず、最初は、飛行機で移動して、ドイツに行った時に、ハイデルブルグにどうしても行きたくて、フランクフルトでレンターカーを借りて往復したのだが、帰りに高速に乗り間違えて明後日の方向に走って難渋し、高速の待機ゾーンで止まっていたら、大型トラックの運転手が飛び降りてきて、誘導してくれて無事に帰り着いたことがある。厳つい顔の大男だったが、大学教養部程度の貧しいドイツ語に実に優しく応えてくれた。
また、この時、ジュネーブで、湖を一周するために、レンターカーを借りて走ったのだが、途中で、エンジンブレーキを十分外していなかったので、煙を吹き出したので困っていると、田舎のお兄ちゃんが助けてくれたが、これが、フランス語で困った、
しかし、旅で出会う人たちは皆優しくて親切であったし、時々車を止めて、アルプスを仰ぎながらの湖畔の瀟洒な波打ち際での喫茶のひとときが楽しかった。
ラテン気質丸出しでいい加減な運転にどっぷりと浸かっていたブラジルから、急に、先進国ヨーロッパに来て、良く分からない交通法規の中で、無謀にも、レンターカーを走らせるのであるから、色々なことがあっても不思議はないのだが、当分、ブラジル免許で通していた。
その後、アムステルダムの生活に慣れてからは、自家用車の大型のアウディで、夏冬の休暇の時に、ドイツ、オーストリア方面へ向かうことが多くて、
ローテンブルグなどのロマンティック街道から、ノイシュヴァンシュタイン城、インスブルック、ウィーン、ブレンナー峠、
ウィーンからドナウ川沿いに下ってリンツ、又別なときには、ハイデルベルク、ザルツブルグ、フランクフルトからドナウ川沿いの古城巡り、
ブレーメンからハンブルグ、コペンハーゲン、帰途、ハーメルなどのメルヘン街道、
著名な都市や観光スポットを数珠つなぎの旅だったが、車だったので、途中のヨーロッパの田舎の思い出が懐かしい。
オランダとベルギーは地元なので、頻繁に各地をドライブした。
ロンドンに移ってからは、仕事もあって、趣味と実益を兼ねて、スコットランドの北端からウエールズ、そして、イングランドの各地を、自家用車のベンツで走った。
下手な運転であったが、殆ど問題なく、ヨーロッパで車生活を送って来れたので、まずまずであろう。
ヨーロッパ大陸は左運転、イギリスは右運転、
とにかく、今日はロンドン、明日は、アムステルダムと言った仕事をしていて、左右を使い分けながら車を運転していたのだが、若かったから出来たのであろう。
パリ市は8日、市内の道路の制限速度を原則として時速30キロにすることを明らかにした。歩行者の安全や騒音の軽減が目的で、8月末から実施する。交通政策を担う副市長が、仏メディアに語った。市によると、シャンゼリゼ通りなどの一部の大通りは例外として時速50キロのままにするほか、車両専用の外環道も70キロを維持する。と言う記事だが、
この記事を見て、あの凱旋門のサークルを、良くも無事に通過して、シャルル・ド・ゴール空港に辿り着けたものだということを、思い出して懐かしさを覚えたのである。
後期高齢者に仲間入りをして、すぐに、自動車運転免許証を返納したので、既に車とは縁が切れたが、若いときには、随分、車で各地を走ってきた。
私の免許証は、外国での取得で、ブラジルとヨーロッパでは、ビジネスと私用での足代わりであり、生活の必需品であったので、随分、あっちこっちをドライブした。
さて、パリでの運転だが、ヨーロッパでは、イタリアやスペインなどラテン系の国では、極力避けていたのだが、1993年のヨーロッパからの帰国時に、フランスを10日ほど周遊しようとして、どうしても車でないと無理なので、シャルル・ド・ゴール空港でレンター・カーを借りて走ることにして、その最後の日に、シャルトルから空港への途次に、パリを抜けた時のことである。
元々、運転が上手なわけでもなく、ラテン系のフランスであるから、安全を期して、車は、ボルボの一番大きな装甲車のような車を借りたので、まずまず、快適であった。
問題の凱旋門のサークルだが、その後、信号機が付いて通過しやすくなったが、当時は、信号機もなくて、蜘蛛の巣状のサークルに車が一斉に集中して散らばって行くと言う状態で、何重列の輪の中から目指す支線へ抜けて行くと言うのは大変な緊張を要するのだが、誰でもがやっているのだから出来ないわけがなかろうと、無謀にも突っ込んでいった。
この時の旅のルートは、ロワール渓谷の古城を回り、アンボワーズ城近くのクルーの館で、レオナルド・ダ・ヴィンチを忍び、ブルターニュに抜けて、サン・マロ、シェルブールから、モン・サン・ミッシェル、そして、シャルトルで旅を終えた。
それまで、結構、フランス各地を仕事で回っており、休日や仕事の合間を利用して旅を続けていたので、かなり、フランスは知っているのだが、この時は、イタリア人の本「人の話を聴かない男と地図の読めない女」の典型的な夫婦と娘との家族旅行であった。
旅のガイドは、すべて、ミシュランで、グリーンガイドで旅の概要を摑み、レッドガイドでホテルとレストランを選び、ミシュラン地図で車をドライブする。
ルートは勿論、ホテルもレストランも、ミシュランの★★★に拘ってハシゴして走った。
地図の読めない家内が、ナビゲーターであるから、どんな旅であったか。
尤も、私の場合は、出張も個人旅行の場合にも、旅程の決定からホテルやチケット等旅行の手配など一切は、自分でやっていたので、途中でのスケジュールの変更などは自由自在で、いくらでも臨機応変に対応できたので、それほど、苦労することはなかった。
旅行の途中は、殆ど英語で対応できたが、場合によっては、十分ではない独仏西などの断片を駆使(?)して切り抜けたりしていたが、ハンガリー語やチェコ語などになると、もうお手上げで、結構苦しみながらの旅も経験している。
それでも、ラテンアメリカのように、殆ど英語が通じなくて、まずまずのポルトガル語と少々のスペイン語で対応しなければならなった所よりは、幾分は楽であった。
ヨーロッパに居たときには、まず、最初は、飛行機で移動して、ドイツに行った時に、ハイデルブルグにどうしても行きたくて、フランクフルトでレンターカーを借りて往復したのだが、帰りに高速に乗り間違えて明後日の方向に走って難渋し、高速の待機ゾーンで止まっていたら、大型トラックの運転手が飛び降りてきて、誘導してくれて無事に帰り着いたことがある。厳つい顔の大男だったが、大学教養部程度の貧しいドイツ語に実に優しく応えてくれた。
また、この時、ジュネーブで、湖を一周するために、レンターカーを借りて走ったのだが、途中で、エンジンブレーキを十分外していなかったので、煙を吹き出したので困っていると、田舎のお兄ちゃんが助けてくれたが、これが、フランス語で困った、
しかし、旅で出会う人たちは皆優しくて親切であったし、時々車を止めて、アルプスを仰ぎながらの湖畔の瀟洒な波打ち際での喫茶のひとときが楽しかった。
ラテン気質丸出しでいい加減な運転にどっぷりと浸かっていたブラジルから、急に、先進国ヨーロッパに来て、良く分からない交通法規の中で、無謀にも、レンターカーを走らせるのであるから、色々なことがあっても不思議はないのだが、当分、ブラジル免許で通していた。
その後、アムステルダムの生活に慣れてからは、自家用車の大型のアウディで、夏冬の休暇の時に、ドイツ、オーストリア方面へ向かうことが多くて、
ローテンブルグなどのロマンティック街道から、ノイシュヴァンシュタイン城、インスブルック、ウィーン、ブレンナー峠、
ウィーンからドナウ川沿いに下ってリンツ、又別なときには、ハイデルベルク、ザルツブルグ、フランクフルトからドナウ川沿いの古城巡り、
ブレーメンからハンブルグ、コペンハーゲン、帰途、ハーメルなどのメルヘン街道、
著名な都市や観光スポットを数珠つなぎの旅だったが、車だったので、途中のヨーロッパの田舎の思い出が懐かしい。
オランダとベルギーは地元なので、頻繁に各地をドライブした。
ロンドンに移ってからは、仕事もあって、趣味と実益を兼ねて、スコットランドの北端からウエールズ、そして、イングランドの各地を、自家用車のベンツで走った。
下手な運転であったが、殆ど問題なく、ヨーロッパで車生活を送って来れたので、まずまずであろう。
ヨーロッパ大陸は左運転、イギリスは右運転、
とにかく、今日はロンドン、明日は、アムステルダムと言った仕事をしていて、左右を使い分けながら車を運転していたのだが、若かったから出来たのであろう。