そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

鳥越俊太郎の狭量さと非現実が残念でならない

2022-03-21 | マスコミ
世間知らずの鳥越俊太郎がまたポカをした。鳥越のこれまでの言論には深く共鳴するものであるが、どうも原則主義者の行きつくところといった感がある。
ウクライナのゼレンスキー大統領が23日に日本の国会でオンライン演説を行う予定であることを知り、ジャーナリストの鳥越俊太郎自身のツイッター更新し、激しく反対の意向を示した。
「私はゼレンスキーに国会演説のチャンスを与えるのには反対する!どんなに美しい言葉を使っても所詮紛争の一方当事者だ。」というのである。
原則論もここまでくれば、『健康のためには命さえ惜しまない』のと同じである。
確かにロシアとウクライナは戦火を交えている。しかし紛争はウクライナ国内でしか起きていない。しかも協力国家はあっても、ロシアだけが侵略しているのである。
プーチン大統領は公然とその理由を述べている。たとえ事実としても、人を殺すことはないだろう、病院を砲撃することはないだろう、原発を占拠する必要は何処にある、東部の独立を認めたとしても全土を空爆することはないだろう、同じ民族の同胞なら尚更である。
プーチンが国連憲章が禁じる武力による威嚇、解決の手段前に外交的努力をしたのか、その努力があったのか、その破たんの結果としてかくも巨大な、”特別軍事行動”が突如行われなかればならなかったのか。そもそも、ロシア側には情報開示がほとんどない。
ウクライナ国土だけの紛争を、「紛争の一方の当事者だけ」と断じる鳥越は結局ロシアのウクライナ侵略を擁護することになる。鳥越氏の主張が残念でならない。
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LGBTについて

2020-02-12 | マスコミ
動物学に興味ある人間は、少なくとも僅か750万年しか歴史のない人類にとって、性的マイノリティーの存在は私たち人類を構築するものではなかった。動物が自らの繁栄・種の保存を続ける命題と全く逆の存在である。
彼らは多くの文化や文明が多岐にわたることで生まれた”マイノリティー”なのである。本人たちにしてみると悩みは少なからずあるものだといえる。乳牛たちはメスばかりである。乳牛は発情が来ればメス同士が乗駕しあう。彼女たちはマイノリティーではない。止むに止まれず授精してくれと言っているのである。
何度も訪れている中東では、幼いころから女性と男性は明らかに異なった教育を受けている。LGBTがここでどんな存在かは詳しくはわからない。報道もない。しかし、彼らは町中で男同士が手をつないでいる場面にしばしば遭遇する。トイレで待ち合わせしたり、見せ合ったり。親しげに顔を覗き込んで会話する姿は明らかいLGBTそのものである。あまり報道されない姿である。強い規制の中にいればこうなる見本といえる。
翻って、私たち人類のメスだけが常時交尾することができる、唯一の動物である。これが文化的な基礎となり、狩猟民族として獲物を追う作業として、農耕民族の農作業として、性的ご褒美をオスに分け与えたといえる。男女という切り口で述べた場合であるが、人類学的には男と女はこうした関係にある。LGBTはそうした意味でも、人類学的にも説明ののつく合理的存在である。
多くの動物と異なり、ほぼ人類のメスだけが着飾り化粧するのもその為といえる。Y染色体は後2万年ほどで消失するといわれている。人類のオスは遺伝的には存在しなくなり、他の染色体で補完することになる。そういった意味では、LGBTの存在はは過渡期の可能性もある。
しかしながら、LGBTは現代社会を構成するオスメスの存在に抗するものだといえる。確かに「オカマは嫌いだ」と述べたのは彼らの人権をないがしろにする側面は否めない。オカマは訂正しました。
※現在50日前に転倒して、脳内出血を起こし、開頭手術を受ける身である。禁止されているインターネットを病室で黙々と書いている。次回は10日ほど後になるかもしれない。反論が遅れたことも併せてお許し願いたい。
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日本のメディアは安倍政権下で何も言えない

2016-12-27 | マスコミ
イギリスの世界的に知名度の高いエコノミスト誌(The Economist)が日本の報道が安倍政権擁護しか報道しなくなっているという記事を書いた。海外のメディアにこんな指摘をされるとは、恐ろしい限りである。The media in Japan Speak no evilという表題であるが、日本語に直訳すると日本のメディアは悪魔(都合の悪いこと)について喋らないであるが、見ざる言わざる書かざるというところである。報道に対して、日本の政府の介入が長年続いているというのである。また法を使った圧力(高市法務大臣の放送法に抵触すると思われる発言のことであろう)も行われているというのである。記事はニュースステーションとクローズアップ現代にも触れている。
上図はその記事からコピーしたものであるが、左端の女性の持つ手にはNHKと書かれている。安倍晋三に最も近いと言われる、岩田明子のことであるまいか。彼女の政権幹部へのインタビューは極めて恣意的である。肯定的な回答ができるように聞き、評論では安倍政権の理解度を進める解説しかしない。
安倍晋三のメディアの幹部との会食は、批判を受けながらもいまだ連綿と続いている。下の表は国境なき記者団の報道の自由度の国別ランキングであるが、安倍晋三が政権の座に座ってから見るも無残に下がっている。今年は51番目になっている。
日本には古くから記者室というのが設けられて、どこかの記者が先んじて報道したり取材を行うことがないようになっている。行政や官庁が発表することを各記者が記事にするので、基本的に内容は同じである。誘拐犯の報道ではそれでも構わないと思われるが、それは特殊な場合に限られる。更に安倍晋三のように、メディアを抱き込むことによって自らの批判を封じ込め、肯定的内容しか国民に知らせることがなくなるのである。まるで中国や北朝鮮のようでもある。海外の記者がこうしたいわば風習を奇異に感じるのは当然である。
報道は権力の番犬でなければならない。批判することは否定することではない。完全な法律や行政などない以上、批判はそうした補完作用になる。批判される側にとってはそれらを真摯に受け止めるべきなのである。東西冷戦時代を経験し、資本主義が社会主義の持つ理念を取り込み、社会保障や年金制度や労働組合など団結権を認めるいことが、資本主義の質的向上がなされたのである。安倍晋三のように反対意見には全く聞く耳を持たないばかりか、封じ込めることは自らの欠陥を拡大させるだけになってしまう。海外の記者団たちの危機感はそうしたことを危惧してのことである。健全な批判や反対意見には真摯に向き合うべきであるが、安倍晋三にそのような度量はない。
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そりゃみな同じことだろ

2007-02-03 | マスコミ

Photo_73 先ごろ、テレビ番組に関する気になる二つの報道があった。一つは、あるある大辞典とやらのことである。こんな田舎でも、納豆が店頭から消えてしまうほどの影響力がある番組を、残念ながらほとんど私は見たことがない。もともと信用していないからである。類似の番組も、所詮テレビでしかないからと思っている。

この国の人間は、こんなにも簡単に番組を信用する軽薄さを垣間見た気がするが、納豆関連の株が急上昇するのまで見ると驚きを隠せない。

競争相手の他の局は、これ幸いと一斉砲火の感がある。それでは、フジテレビのほかの番組は、雪印や不二家が他の商品まで影響を受けたことを考えると、この局の体質まで問われないのは不思議な感じがする。攻撃する他局はどうなのだろう。

いまひとつは、NHKの従軍慰安婦問題を扱った番組の改編問題である。番組は元慰安婦の証言や天皇に関する部分を、圧力で変えたということを東京高裁が「編集権限の乱用・逸脱」を認めたことである。編集者は罰せられたが、同じく圧力をかけた安倍晋三や中川昭一たちの圧力は認めなかった、片手落ちの判決でもある。

安倍晋三たちは慰安婦も金をもらっていたのだから、国内の慰安婦と変わりない。韓国や満州に日本は道路や鉄道や工場などを作ってやったのだから、礼を言われてしかるべきだなどと発言を繰り返していた。占領下で収奪するためのインフラ整備を感謝する民族などいない。

公共放送のNHKが国民ではなく、政府や権力者におもねるようでは、大本営発表と同類に堕してしまう。

テレビ番組製作者は、自らの持つ影響力の大きさを認識していないのではないか。それとも、自らも所詮テレビ程度のことだからと思っているにであれば、その影響力を

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そりゃ、区別がつかんだろ

2006-08-05 | マスコミ

それにしても、最近は類似の事件が多すぎないだろうか。「ほら、例の幼児を××した事件だけど」と切り出しても、よくわからない。複数の事件が重なってしまう。内容的に類似のことが多い。事件は時代が作るものかもしれないが、妙だと思うには時代錯誤か?

報道する方も、事件には賞味期限があるらしく、どこか共通点があるような次の事件にすぐ変わってしまう。そうした事件が、時を移さず起きるのも困ったことである。警察にしても、次の事件が起きてから、そういえば前の事件も怪しいなどとあわてて捜査するレベルである。殺人事件など起こしても、しばらくじっとしていれば捕まることなどないのでないか。犯罪者が事件性とされずに、のうのうと生きているような気がする。かつての、検挙率世界一の日本警察はどこに行ったのであろう。

幼児の虐待や、若い女性を軟禁したり連れ歩くなど、かつてはなかったような気がする。ましてや、親が子どもを閉塞した空間で、虐めぬくことなど考えられなかった。核家族が進行して、若い夫婦が経験もなく理性も持たず家族の決定者となるのは無理があるのであろう。祖父母や地域が伝えた知恵を受け継ぐ機会も場所もない。こうしたことへの回答は、健全な農村の家族の中にある。拙書「そりゃないよ獣医さん」新風舎刊参照http://www.creatorsworld.net/okai/

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そりゃ、田舎いじめだろ

2006-08-03 | マスコミ

聞くところによると6月頃から、北海道でも札幌周辺で地デジが始まったそうである。当方のような僻地では、通常の電波もロクロク届かない。新聞の番組欄でも、見れない番組がいっぱいある。ラジオもNHK第二は夜にならないと聞けない。英会話の勉強もできない。ラジオは外を走る車なら、よく聞けるが一般の住宅では室内ではなかなか聞くことができない。これで、NHK料金が全国同じなのは納得しかねる。

古い話になってしまうが、BS始まった頃には、僻地との格差がこれでなくなり全てはやがて衛星放送になると触れ込んでいたのは何処の方たちだろう。新聞報道の遅れも地方は厳しいものがる。北海道ではようやく、北海道新聞が前日のプロ野球結果を、報道できる程度であるが全国紙は翌日になっていしまう。携帯が何とか使える程度になったが、地デジとやらはこのような心配を解消してくれのであろうか。同じことの繰り返しで、田舎かが疲弊するばかりである。

田舎には、都会の人々の税金がこんなに投入されていると、正体不明の公共施設を背景に、若いレポーターが報告していた。建物の如何はともかくとして、田舎は人口が少ないために、都会の税金が投入されて当然である。世界中が都会になるとどのようなことになるか考えてみると良い。空気や水など、無料と思われるものすべては田舎、僻地が生産している。その見返りに、原発や産業廃棄施設などで、田舎がゴミ箱になっている。田舎、僻地、小農はこの国の邪魔者でしかないのだろうか。拙書「そりゃないよ獣医さん」新風舎刊参照http://www.creatorsworld.net/okai/

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好きなものだけを食べる

2006-06-14 | マスコミ

先日放送されたNHKの番組は衝撃的だった。チョコレートバナナにコーラの朝食、野菜を食べない子供らに迎合す親たち。「好きなものだけを食べる」この思想は、「好きなことをして何が悪い、他人に迷惑をかけなければ良い」とどこか符丁が合う。戦後この国が指標をなくし、それぞれが自らの保全に走った結果でないだろうか。われわれ戦後教育で育った世代は、実存主義を信奉するものが増えてきた。実存主義は、神への対抗軸として人間の存在を定義するなど、本来はかなり深遠な内容を持つ思想であるが、「あなたと私は違う」「価値観の相違」などと、ある意味論争すらしなくなる風潮の基礎を作ったように思えてならない。その結果が「好きなものだけを食べる」となり、自らの将来も社会のありようも無関心な人種を作ってきた。

これは「好きな人としか付き合わない」などとなって、社会構造などとは無縁の存在となる。しかし、彼らの好きなものは実は、様々な形でコントロールされていることすら気がつかないでいる。好きな食べ物は、甘く口当たりがよく簡便に作れるように作られ、繰り返しコマーシャルされる。それを受けて好きなものになっているに過ぎない。利潤追求の企業思想の傘下にあるだけである。好きな人も、マスコミが作り上げた虚構を追っているに過ぎない。タレントたちが声を高めて、他人を見下す番組が多すぎる。それも、読書すらしない「好きな番組だけを見る」人種には理解できないことかもしれない。

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羅臼港

春誓い羅臼港