そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

「遺伝学的には人種間よりも人種内の方が違いは大きい」民族主義や愛国心など意味がない

2019-10-06 | 閣議決定

進化遺伝学者アダミ・ラザードは自著「ゲノムが語る人類全史」(文藝春秋社刊:2250円)で、「遺伝学的には人種間よりも人種内の違いの方が大きい」と述べている。人種を遺伝学的に規定することは困難であると述べている。
民族や人種とは長い年月(生物学的には極めて短時間ではあるが)を経て、共通の文化や言語や文字を獲得した集団であり、多くの場合近代になって国家を形成することになる。そうして形成されたのが、民族や人種である。遺伝学的には、そうした人種は文化や言語など気候風土が育んだ、後天的な獲得形質に過ぎない。
まるでジョンレノンの、イマジンの言葉の世界を科学的に証明された感がある。民族主義は安倍晋三など国粋主義者にとって、日本は大和民族の単一国家でなければならない。自ずと排他的民族主義者となり、韓国や中国を嫌い大和民族の誇りを鼓舞する。
今日、旧国鉄の400勝投手、カネヤンこと金田正一こと氏が亡くなった。彼は在日韓国人である。戦後日本のスポーツを支えた力道山、王貞治、張本勲、大鵬たちは大和民族ではない。我々は彼らの活躍にここを躍らせたものである。芸能界や経済界でも多くの在日韓国人を主とする、大和民族とは言えない人たちが私たちを喜ばせてくれたものである。
今行われている、ラグビーワールドカップ杯の日本チームの半数近くが、大和民族ではない。前回も書いた多様な民族の日本を象徴する、大阪なおみやサニーブラウンたちは奇妙に母が日本人で父が中南米の人だったりしている。日本語すら話せないのもいる。次第にこうした現象に国民は違和感を抱かなくなってきている。民族や人種などというものは、仲間意識の延長でしかない。

しかし、安倍晋三の行っていることはこの真逆である。近隣諸国を見下し危機感を煽り作り上げる。日本は優秀な単一の大和民族として、日本は天皇を抱くを神の国として、愛国心を鼓舞し、国益を前面に出して国威発揚を煽る時代ではない。安倍晋三や日本会議などは古色蒼然としたナショナリズム国粋主義を掲げ、国家に身を捧げる憲法草案など許されるべきではない。
民族や人種は、国家権力などが築き上げた虚構の概念でしかない。今その概念すら崩れつつある。愛国心などは故郷を思う程度に届め置ばいい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八村塁、サニーブラウンそして大阪なおみ多様な民族性の時代

2019-06-21 | 閣議決定

バスケットボールの世界最高峰、アメリカのプロNBAは日(21日)全30チームが新人選手との契約交渉権を得るためのドラフト会議を開き、富山県出身のゴンザガ大の八村塁が、1巡目の全体9位でワシントン・ウィザーズから指名された。日本選手がNBAドラフトの1巡目で指名されるのは初めて。八村は富山市出身で、母は日本人であるが父はベナン人である。身長203センチと巨大な手を持ち、それだけでも他を圧倒する21才である。高校まで富山で過ごし、日本人を強調している。
先ごろ100メートル9秒97の日本記録を出した、サニーブラウン・アブデル・ハキームは日本人の母とガーナ人の父を両親に持つ20歳のアスリートである。
10秒を二度切っているのは、サニーブラウンだけである。200メートルや60メートルにも挑んでいる。短距離の総合的に実力を発揮する姿は大きな将来性を感じる。
テニスの大坂なおみは、2度のグランドスラム優勝で世界ランキング1位である。このところの不甲斐ない試合がが続いている大坂なおみである。母親は日本人で父親はハイチ共和国ポルトープランス出身である。彼女は日本とアメリカの国籍を持つ、まだ21歳の大坂の可能性は無限といえる。
このほか、陸上短距離のケンブリッジ飛鳥は日本人の母とジャマイカ人の父の子である。プロ野球楽天のオコエ瑠偉は日本人の母とナイジェリア人の父の子である。いずれも母が日本人で、有色の父を持つ。多様な民族性が、島国日本でも起きている。
国技とされる相撲の世界はすでに大和民族を唱え続ける場でもない。北海層には文字も名前も文化も財産も奪われ抹殺されてた民族いる。
日本人は単一の大和民族として、日本は天皇を抱くを神の国として、愛国心を鼓舞し、国益を前面に出して国威発揚を煽る時代ではない。安倍晋三や日本会議は古色蒼然としたナショナリズム国粋主義を掲げ、国家に身を捧げる憲法草案など許されるべきではない。
グローバル化とは関税をなくすことなどではない。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教育勅語信奉する安倍一派が起こした森友事件と前川氏の授業介入事件

2018-03-22 | 閣議決定
森友問題の発端は、安倍晋三とその一派が、教育勅語を掲げ戦前の国粋主義の教育体制に戻すべく懸命な連中を探していた時に近寄ってた、籠池にまんまと乗ったのである。どちらが乗ったと言えるか解らないが、同じ穴の狢であることに変わりない。
そうしたい視点から森友問題を見ると、子どもたちに教育勅語を暗唱させる教育方針にほだされた安倍夫妻が乗った事件と言える。これと全く同質の時間が起きた。
前川喜平文科省前事務次官の講演について、文科省を通じて注文を付けた事件である。文部官僚は部外者からの問い合わせで、講演内容を示すように何なら録音テープまで提出せよというのである。政治家であったことは野党議員がいくら突きまわしても、首を縦に振らなかった。今の官僚は政治家に首根っこを抑え込まれて、何もできない。
ところが圧力をかけた人物があっさり判明した。赤池誠章文部科学部会長と池田佳隆同会長代理の二人であった。この二人は安倍チルドレンで、教育改革こそが日本を創るというのである。孫基本になるのが、教育勅語というわけである。
教育勅語は、時の内閣総理大臣だった山縣有朋が作った、皇族史観を前面に出した教育方針である。山縣有朋は安倍晋三の出自に重なる長州の武士であるが、「国軍の父」と呼ばれた生粋の軍人である。教育勅語(教育ニ関スル勅語:1890年)は、幼少期に軍国主義を叩き込む教育である。日本が戦争へと突き進む世論の下地になって、多くの国民を国家に命を捧げることに疑問を抱かせることのなかったのは、まさしくこの教育勅語によって洗脳された国民の存在があったと言える。教育勅語の存在は大きい。
戦前の天皇を元首と抱き、国家に国民が命を捧げてくれるようになって欲しいというのが、安倍一族の野望と言えるものである。日本会議の登場も同様に背景にしたものであると言える。
安倍晋三に擦り寄ることで、こうした戦前回帰の国粋主義者や、あの戦争は間違っていなかったという思いのままの連中が集まってきた。今回の前川前事務次官の授業介入事件に、圧力をかけてきた人物赤池も、池田も教育勅語こそが教育の根幹と信じる極右翼の政治家である。こんな人物が国家の教育の中枢にいることこそが奇怪である。
森友も加計も今回の前川氏の授業介入事件も根幹は同じである。いずれもお友達の中でしか通用しない、時代さ雨後の感覚しかもっていない安倍晋三一派が起こした事件と言える。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再度愛国心を考える

2006-12-11 | 閣議決定

昨日に続いて、愛国心を考えてみたい。現代の若者たちには、この国に対する国家と言う概念が極めて薄い。例えば、海外から若い研修生がやってきて、自国の歌を歌ったり踊ったりと様々なお国自慢をするのに対して、わが国の若者たちにはそれがほとんどできない。自国を意識することがほとんどなく、海外の文化を優先させて、国籍不明の音楽や芸術に傾注する若者に薄らぐ日本の姿を強く感じる。

何を見ても「カワイイ」としか表現できない若者たち。例えば、花なら美しい、楚々とした、凛とした、華やいだ、愛おしい、愛らしい、可憐等など日本語には幅も奥行きもあり、表現者の内面をより深く表現する言葉が豊富にある。それらを全て「カワイイ」の一言で言い表す、日本語表現の貧困さの若者たちに日本を見失う。

こうした若者たちの現象を見ていると、愛国心どころか日本そのものさえもを失う日本人に、一抹の寂しさを感じるのは私だけではないだろう。少なくとも日本のように伝統が曲がりなりにも、脈々と継がれている国家にこのような現象の起きている国家はないと思われる。

愛国心とは国を想い慕い、愛おしく思う心であるが、国と自己の距離が遠いために意識の形が見えないのかもしれない。家族愛や郷土愛に置き換えると少しわかりやすいような気がする。

ならば、郷土愛をカリキュラムに組んでその達成度を評価することは、本末転倒でもある。こうしたことは強要されてはならない。郷土を自慢する、家族を誇りに思うことは容に嵌めて作られるものであってはならない。

戦前の、愛国心教育はまさしくそのようなものであった。そして若者たちに限らず、国民の多くの心の中に愛国心が、純粋な形で醸成されたのである。国家にとって、愛国心ほどありがたいものはない。とりわけ戦時下にあっては、愛国心はあらゆる武器より優れたものであることを、為政者たちは熟知しているのである。

日本が国家としての誇りを国民の心に取り戻したい気持ちはわからなくもない。上記のような現状に不満はあるが、国家が非愛国心者を詰るなら、国家を思うことを形あるものとして、見せ合って相互に評価するような教育制度であればむしろない方いいとすら思う。、これが愛国心を国家として利用するための補完作業であるならば、強く反対するものである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛国心を考える

2006-12-11 | 閣議決定

硫黄島の映画が、日本とアメリカそれぞれの視点から作成されて、現在上映されているらしい。らしいと言うのは、ここが田舎で映画文化からは隔絶されたところだからである。

しかし本は読むことはできる。梯久美子氏の「散るぞ悲しき」に見る、この国を思う心は何かを考えさせられた。硫黄島で戦った兵士たちは、いかほど国を思い家族を思って死んでいったことか。

それに引き換えて、いくらかでも本土上陸を遅らせ交渉に期待し戦い散っていった戦士たちを、本国では単に捨石にしか考えていなかった。軍、政府の上層部には愛国心は微塵ほどもなく、自己保全と哀れな政争が繰り広げられていたのである。

本ブログで8月28日に自分のことを書いてみたが、私の父は「靖国で会おう」と友人と酒100_0046 を酌み交わして、私が生まれる直前に出征して、南国に散った。父は胸に愛国心を抱きながら、靖国に奉られることを望んで死んでいったが、そのために私たち家族はどれほどの労苦を負うことになったことか。母は20年程前に国から、慰労金が出るのを断った。「苦しいときに何もしてくれずに」と言いながら。

愛国心教育を恐れるのは、こうした教えられる側にこそ、愛国心が純粋な形で育まれるが、権力者にはそれがないということである。終戦の玉音放送を最も打ちひしがれて聴いていたのは、10代の青少年であったことを思い起こして欲しい。

愛国心教育は危うい内容を常に包摂している。愛国心は国を守る手段としては極めて有効であるが、国がもつ愛国心とは自己保全に過ぎないからである。

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2005-07-28

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そりゃ靖国は安らかないサ

2006-08-28 | 閣議決定

100_0047 苦学して早稲田大学を卒業して、逓信省に勤めていた私の父は通信兵として、1943年に太平洋戦争に応召した。1945年に フィリッピンで戦死したが、出兵前には友人たちと「靖国で会おうと」酒を酌み交わしていたと、母は語っていた。それが、死ぬことを意味するのを、幼子を抱えた若い母は怖ろしい記憶として心に刻んでいた。純粋に国家を想い出兵した父の心を思うと、靖国神社の意味を戦争論とは切り離して考えたい。そうした、多分最も多い一般の兵士、国民の感情として見た場合、靖国神社を失くすにはいささかの抵抗がある。

国家の要請に応じて、無為に亡くなった人たちを「それは意味がないことであった」あるいは「お前らは侵略者だった」と、後の人間として非難し結論付けたくはない。戦死した人たちの、国を想い憂う心情を否定したくはないし、消したくはない。しかしながら、戦後の靖国神社の存在は日中戦争からの16年に及ぶ侵略戦争を正当化するだけでなく、賛美するものとなってしまっている。靖国神社は、A級戦犯をこそっと合祀したり(1978年)、遊就館を再開(1978年)したり「英霊にこたえる会」を結成(1976年)するなどして、徐々にではあるが大100_0048 きく変質したのである。

靖国神社の本質は併設の遊就館にある。ゼロ戦や回天など特攻兵器をを陳列する、ここは設立の趣旨通り、「国防思想の普及」であり、散華の賛美である。日本の行った戦争は正しく、止むを得なかったものであり、日本は欧米から開放するために大東亜共栄圏を作ろうとしたのだと、戦争を国家論や国防論でいかに正当化しようとも人殺しに変わりない。正しい戦争などというものは存在しないのである。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羅臼港

春誓い羅臼港