そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

日本の近代史を平易な言葉で詳しく教えてくれた半藤一利さんが亡くなられた

2021-01-13 | 昭和という時代

半藤一利さんが亡くなられた。歴史を学ばなならないと何度もおっしゃっていた。安倍政権の始まりのころには、戦前の体制によく似てきたと何度もおっしゃっていた。
近代史、とりわけ昭和の歴史を平易な言葉で、詳細に解説して頂いた。とりわけ口語調で書かれた昭和の上下巻は、これまで蓄えてきた半藤氏の全てが、ゆったりと集約されている気がする。
東京空襲の体験者で、墨田川だったかに逃げ落ちて死を覚悟した時に、そっと手を出して救ってくれた人がいた。半藤さん10歳の時である。戦争体験が半藤さんの原点ともいえる。文藝春秋に就職後は編集者として、大宅壮一氏の名を借りて出版した、終戦当日を体験者から取材した「日本のいちばん長い日」はベストセラーになり、のちに映画化されている。半藤氏は昭和天皇は3度大きな決断をしているという。柳条構事件と2・26事件それと終戦である。終戦は、「聖断ー天皇と鈴木貫太郎」として小説にしていて、映画やテレビに幾度も映像化されている。史実を踏まえた半藤さんの文章は重いく説得力がある。天皇を美化することなく一介の人間として描いている。
昭和初期から終戦までの、軍の動きや政治の流れそれに民衆を鼓舞し、日本が戦争に突き進んだ裏表の歴史を半藤さんは具に教えてくれれた。その上で、「憲法九条を守るのではなく、育てなければならない」と述べて、晩年は護憲姿勢を強く示した。
半藤さんは、編集者として松本清張と司馬遼太郎に接したことは宝だと述べている。とりわけ司馬遼太郎氏が中座した、ノモンハン事件は司馬氏の遺した資料を基にして、「ノモンハンの夏」を著わしている。ノモンハンをしっかりと検証しなかった日本は、その後太平洋戦争へと突き進み、同じ愚を繰り返すことになる。ノモンハン事件は軍部や日本政府の恥部である。それまでほとんど触れられることがなかった事実、皇族の士官が現場の指揮官に自決を強制させて終わらせたことを告発している。敗北を指揮官は考えない、作戦が正しかったのに敗北したのは現場の指揮官の責任というのである。この図式はそっくり太平洋戦争へと引き継がれ、無数の軍人を散華や餓死によって死なせている。このロジックは、現在も永田町の無謬主義として怯むことなく残っている。
半藤さんの歴史観には、血の通った人間が主役である。例えそれが大量虐殺や、取り返しのつかない失敗をした軍人であっても、半藤さんは悪者に仕立てることはない。彼らから私たちは教訓を得よというようである。
奥さんが夏目漱石の孫で会ったことは偶然の出会であった。資料が身近にあったこともあり、漱石の関する書物も多い。半藤さんの漱石の著作は目を通していなに。

半藤さんは、「40年史観」を提唱していた。明治以降の日本は40年ごとに興廃を繰り返しているというのであるが、明治維新から40年後の日露戦争で軍事大国化し、その40年後の第二次世界大戦で大敗し、その40年後にはバブル期の経済的絶頂になっている。そしてその40年後は目前に迫っている。戦争の苦難を40年経てば体験世代が忘却するからである。没落する日本の始まりを半藤氏は途をかに垣間見てこの世を去られた。
半藤さんありがとう。心から冥福を祈りたい。

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何が良いのやら悪いのやら

2018-01-17 | 昭和という時代

これは最近ネット上で見た衝撃的な写真である。左は30年前の女子社員の入社式であり、右は7年前のものである。特に女性は時代が進んで自由になった、社会への道が開けたと思っていたが、これでは全く逆としか思えない。
昭和という時代、女性社員は総合職という門が狭く左の写真の彼女たちは色とりどりの服で明るく自由に見えるが、単なるお茶くみの人事として採用されることが多かった。結婚後は退社して夫を支えるという事では、彼女たちは差別されていたともいえよう。
右の写真は全員がリクルートスーツに身を固め、皆同じ格好で起立し訓示か挨拶かを聞いているのだろう。逞しくも思えはするが、北朝鮮のマスゲームや軍隊の行進姿のようにも見えるのは穿った見方か。現代の女性たちは、いや男性も含めてより自由になったのか、平等になったかは、制度の改革だけでは進むことができないことを物語っている気がしてならない。
現代の女性たちは、個性の発揮と仕事人としての発揚が見られらくもないが、どうもしっくりこない。下の写真は今年の仮入社の様子であるが、さらに進んで気味が悪く思える。男も含め皆同じ格好である。この世代に自民党支持者が急激に増えているのも解るような気がする。組織に従順になり社会に溶け込もうとする意思が、政治的無関心となって現れるのではないか。
少し前になるが、私たちの所には獣医学科の学生が大動物の実習に毎年大勢やってくる。日本で最も受け入れている組合でもあった。当然女性も多いのであるが、仕事柄目的意識の強い女性が多いため、なおさらこの写真には違和感がある。
私たちの時代でも、学生時代長髪でバンカラな男たちも就職の面接には背広姿になってはいたが、現在のようなリクルート一色の染まったような姿にはなってはいなかった。特に女性については、総合職を目指す人たちも、もっと自由でななかったかと思う。
皆同じでなければならない、社会に従順でなければならない、政治にモノ申してはならないという、体制側の男女を含めた人間が増産される姿は何とも言い難いものである。

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今日の政局の混乱作った張本人の山岸章が亡くなった

2016-04-16 | 昭和という時代
連合を作った山岸章が亡くなった。今日の政局の混乱を招いた張本人である。政局の混乱とはひとえに、自由民主党が膨大化する現象である。共産党を除くあらゆる政党がこの混乱の中を彷徨うことになるのであるが、すべての発端は山岸の総評の破壊と共産党嫌いにある。
良くも悪くも戦後の世界は東西の冷戦構造を映しだすものであった。それぞれの内情の評価は差し控えるとしても、お互いの暴走の歯止めとして作用していた。それが、東側は社会矛盾を解決できないばかりか虚飾に塗られていたことが判明し、体制崩壊を迎えることになるのである。
動揺した世界中の社会主義信奉者の多くが、ソビエトなど東側の体制崩壊を自らの贖罪として転向する。東西冷戦を、正義と悪あるいは正と誤ととらえるのは、対立が深刻であったためともいえるが、東側の崩壊は資本主義社会の正当性を意味するものではなかった。その後のアメリカの経済支配と統制、武力による暴力支配や格差の増大、国家間の資源の収奪、テロの拡散・凶暴化をみると、資本主義社会が抱える矛盾も深刻である。それでは社会主義がよかったかという問いかけは、半世紀前の冷戦構造の思想の呪縛から抜け出ることのない発想である。
日本では山岸章のような、資本主義社会への従順を宣誓する組織を率いるものが現れる。自民党へ手土産として組織を売却したのである。山岸は、こともあろうか田中角栄の懐刀といわれていた小沢一郎と、手を組むのである。山岸は、反自民非共産を掲げることによって、自民党の補完勢力の建設に腐心する。自民党から抜け出た泡沫政党を社会党と結び付け、更には自社さ政権へと誘導するのであるが、いずれも短命政権として終わる。
小沢と組んだことで最悪であったことは、小選挙区制の導入である。55体制時代社会党が最も恐れていた選挙制度である。一位が総取りする選挙制度が、2大政党を夢想していた小沢の画策に山岸が乗ったのである。
こうしたことが重なるたびに、自民党が巨大化する。巨大化する度に議員の質の低下が進行する。
私の兄は、山岸の下でもっとも下ので労働組合活動をしていた。山岸が叙勲を受け多のを聞いて、言行不一致と激怒していた。政権交代だけを目指し、中身の検討を全くしなかった山岸の独走は、今日の安倍政権のような質の低い独善性が強く、それでいて極右翼からの支持が強い政権を生む基盤を作ったのである。
山岸の死亡は一時代の終焉を物語っている。資本主義下での福祉社会、あるいは環境社会への道は経済効率だけでは解決できるものではない。かつて社会主義思想が目指していたことが教訓になるはずである。せめてそうした視点を持てば、山岸も労働組合員だけが恩恵を受ける運動や晩年の政界工作では終わらなかったはずである。
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野坂が訴えていたのは飢えである:戦後がまた遠くなった

2015-12-14 | 昭和という時代
野坂昭如が死んだ。昭和というか戦後というべきか、戦争の記憶がだんだん薄くなってくる。私は野坂を作家としてはほとんど評価しない。自らを焼け跡闇市派と称し、平和と飢えをことあるごとに訴えていた。多くの知識人が、何よりも平和を口にする最近である。戦後を生き抜いた、野坂の世代は食べることを必ず訴える。菅原文太は戦争はしてはならない、国民を飢えさせてはならないと、この二つを必ず訴えていた。
井上ひさしもそうである。平和憲法の意味を九条の会設立などを通して強く訴えていたが、それ以上に食糧の自給、とりわけ米がこの国の文化や自然にとって欠かすことが出来ないものと訴え続けていた。終戦直後の食糧難は、平和憲法以上にこの国の在りようを決めたと言える。実は昭和19年は大凶作だった。そして、おおよそ2000万人もの人間が、本土の帰ってきたのである。そして農地解放が、この国を支えその後の多くのことを決めてきたのである。
伸び盛りの少年時代に食べ物がなかった彼らにとって、目に見えない平和などより余程実感していた。
野坂の世代が実感した、食料の存在こそがこそが国家を支える本質なのである。そして、暗い戦争を終わらせてこの国が受け入れた、平和憲法の存在が彼らの、そしてこの国の未来の指針となったはずであった。
野坂は飢えた時代の怨念をうまく言葉にできず、しばしば暴力的な発言を繰り返していた。文学以外の表現の場を持ったのは、彼の巧みな生き方だったと思われる。
ウイスキーのコマーシャルの、「ソ・ソ・ソウラテスかプラントンか、みんな悩んで大きくなった」世代はもうない。哲学を読み悩み人生の指針を得る若者などいのである。飢えることを知らずに、平和であることが日常の世代にとって、戦争は憧れに近い抽象産物となっている。そのギャップに野坂の世代は苛立った。安倍晋三はそこに切り込んでいるのである。
今、高齢化に加えて非正規雇用4割の時代に、経済成長の妄想を画策する政権の無謀さへの期待が、政権支持率を50%近くに押し上げている。再び飢える時代がそこまで迫っている。TPP参入によって、失う物や食料自給率の低下を嘆く政治などない。食料危機が妄想であって経済成長が現実と、逆転にとり憑かれるているのである。
昭和ひとけた世代が消えてゆく。彼らの残した教訓こそが貴重な財産として受けなければならないはずであるが、ひたすら軍備増強と経済成長に妄想するのである。
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昭和が消えていく

2015-11-26 | 昭和という時代
原節子が亡くなった。正確に言えば、2カ月ほど前に亡くなっていた。小津安二郎の主要な作品には必ず出演し銀幕を飾っていた。名優であり時代を飾った清楚な女優である。耳に心地よい声が素晴らしく、引いたところは昭和の女性であったのかもしれない。
生涯未婚だった小津と相思相愛だった。小津は60歳の誕生日に死亡したが、彼女はその葬儀の場から永久に消えてしまった。原節子の心根というものを感じるものである。
小津作品は若いころは全く理解できなった。淡々とした時間が流れるだけの退屈な作品が多く、スト-リーに変化があるわけではない。未熟者には理解できない映画であった。
東京物語が、世界の映画関係者の推薦する第一位の作品となっているのを、最近になって理解できるようになった。俳優の小さなしぐさや服装など、画面の隅々まで計算された作品である。もうこのような時代では来ないといえもするが、技術が進み時間が早く流れることで、小津作品に置き去りにしてきたことに気が付くのである。

一昨日は、三島由紀夫が防衛庁で自害した日であった。三島はこの時45歳であった。あれから45年も経た。生きていれば三島は90歳になる。三島の文学作品には、人の琴線に触れる美学がある。三島が平凡パンチで自身の筋肉美を撮らせ、掲載したのには少々驚かされた。それまでの文学者は、痩身で蒼白のひ弱なものと相場が決まっていたからである。
全共闘と論争にはかなり共通点があった。左右の思想を越えた、三島の生きる現実の場所探しの一つ、模索で阿あったいえよう。しかし三島の美学は、偏狭で現実社会に反映する場所がなかった。
ドナルド・キーン氏が、「三島は老いるのが怖かったのではないか」と自害の理由を述べている。三島が作ったミリタリールックの盾の会は、お洒落ではあったが三島が吐く言葉ほど戦闘を意識したものではなかった。
三島は日本は天皇を抱く神の国のドグマから抜けることが出来なかった、偏狭な人物であった。同類のドグマ、軍国主義者で国粋主義者の、老醜を晒す石原慎太郎に比べれば、自身の美学を貫いた矜持は評価されよう。

原節子も老醜を晒すことが耐えられなかったのではないか。彼女の映像は引退した42歳以前のものしか存在しない。そうした意味でも見事な人生といえる。彼女の冥福を祈りたい。
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そりゃ我慢が足りないからサ

2007-01-19 | 昭和という時代

このところ、似たような事件が起きたりして、報道を具に見ていないものにとって、分別がつかない。ニュース番組を見ていても、親が子を殺したのか、子供が殺したのか、女親だったか、北海道だったか、今月の事件だったかよく分からない。

遺体を、のこぎりで切ってばらばらにする事件が続いているのは、報道を見てまねたのだろうか。そうすると、報道にも問題があろう。

どうして、安全神話とも言われていた日本がこのようになったのであろう。日本人は、安全Photo_68 と水は無料と思っているとまで言われていたのは、つい先ほどのことである。

昨年日本では、200件を超える殺人事件があったとのことである。かつては、そのほとんどが検挙されたが、今は昔の話である。検挙が少なくても、量刑が重い人たちが多く刑務所も満員だそうである。

核家族になって、経験をつんだ年長者がいなくなり、閉塞された空間で腕力の強いものが権力者になって、奥さんや子供たちを支配する。あるいは、簡単に離婚して(そのことだけでも問題であるが)自分の不満を、弱い子供たちにぶつける。

一家の中に、家族のヒエラルキー(階層)といわれるものがなくなり、死に行く人たちを観察するようなことがなくなったことも大きく係わっていると思われる。生き物を飼うことが少なくなり、死を実感することもなくなった。

食事も、動物性のたんぱく質や脂肪の摂取が増えたり、お米や野菜類を食べなくなって、酸性食品にばかりになって、我慢ができないことも関係しているかもしれない。

年寄りの非論理的な理屈でも歴史や権威を認めたり、非効率的でも年代を重ねた家族が同居することがそれぞれの生きがいになるし、美味しくなくても体の為になるからと口を酸っぱくしても食べなければならないものがある。

何処もかしこも都会化し、核家族になって、美味しいものしか食べない現象から、我慢が足らなくなった要因を無数に探すことができる。

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羅臼港

春誓い羅臼港