「とにかく「死に逃げ」だけはさせてはいけない。司法の場で裁きを受け、命を奪った人、被害に遭った人たちに対し、まず謝らせる。それをさせるために命をつなげたと今は思っています。」というのである。
医師として死刑になるであろう病人を差別なく扱う理念は敬服するが、もう一つ日本には仇討の概念が根底にある。上田医師も法廷にだして被害者の無念を晴らさなければならないという、被疑者の声を耳にしている。
判決が意外と軽かった時に、放送は被害者にマイクを向けて、無念の言葉を強引に引き出す風景をよく目にする。
法律には詳しくはないが、量刑は報復であってはならないし、あらゆる意味で犯罪者が犯罪の意味を知ることであり、社会的には犯罪の抑止力を持たすことである。重ければよいというものでもない。ましてや死刑などという、不可逆的で被告の人権を認めない量刑などあってはならない。
今月にオーム真理教事件の死刑確定者が二度に分けて13名の犯人が処刑された。最高責任者の法務大臣は、7名の生命を奪う処刑の前夜には安倍三選の飲み会とはなんと無神経なことか。
今回のオーム事件の死刑確定者の処刑に坂本弁護士の恒例のお母さんと、松本サリン事件の被害者で犯人にしたてあげられた河野さんのコメントは余り報じられない。坂本弁護士のお母さんは、息子たち一家が殺害されたからといって、犯人を同様に殺害することには複雑な思いですと、弁護士の母としての発言をしている。
河野さんは一時はほぼ犯人と断定された報道を経験があり、奥さんがサリンの被害に遭い意識が正常に戻らないままな亡くなられている。自らが犯人のままであったら、死刑の後には冤罪を晴らすことができない。オーム真理教の殺人犯であっても、国家が殺人を犯すことは許せない。こうした河野さんの発言はほとんど報道されない。
死刑は日本では報復手段として認識されている。被害者の発言をそうした形で引き出す。死刑判決を期待しながら、判決の出なかった時には悔しい発言を引き出す。殺害されたら殺害してくれるが国家というなら、殺人を容認するという事では戦争も同じである。
死刑を廃止しているのは106か国である。存続させているのは、中国や北朝鮮やイランやサウジなど56か国である。しかし、執行国は23カ国だけである。
先進国では韓国と日本とアメリカだけである。韓国は事実上廃止しているし、アメリカも半数以上の州が死刑を廃止している。事実上先進国で死刑を行っているのは日本だけである。EUでは廃止しなければ加盟できない。今回の日本の一斉処刑をEUの多くの国は非難声明を出している。そのこともほとんど報道しない。
死刑制度が犯罪抑止になっているという根拠はない。犯罪の極めて少ない日本では抑止の意味すらない。ましてや量刑が報復ならば、法制度そのものが問われることになろう。囚人の半数近くは再犯者である。収監後の囚人のありようや刑務所の制度も同時に問われるべきである。
事件の被害者は29人とされているが、信者で自死したものや内部で行われた異常なリンチなどの死者などは明確ではない。近代社会が抱える人々の心の隙に潜り込んだ、麻原な巧みな説法がこの宗教と呼ばれた、異常集団を生んだ。高学歴者が多かったのも特徴的であった。
凶悪事件の犯罪の被害者が犯人に対して、「極刑を希望すると」という言葉を、報道はいつも引き出す。事件の無念さと犯人への憎さの言葉である。これの感情の主体は、「報復」である。日本には、仇討という報復が制度として許されてきた歴史がある。無念を晴らすためには、同じ人間にたいして人権すら認めることなく、殺すことを望むのである。
死刑は法令による殺人行為である。近代の法が死刑と戦争による殺人行為を容認している。先進国では次第に死刑をなくしつつある。中国や北朝鮮や、宗教色の濃い中東国家以外の国々では、死刑を廃止する特定の犯罪に限って残す傾向にある。世界では毎年5000人ほどが死刑を執行されているが、半数以上が中国である。
日本では死刑廃止論者は20%に満たない。生まれつきの犯罪者はいない。犯罪者は社会が生んだものである。社会が生んだものであれば、国家なり社会がその償いをするべきなのである。
現在の量刑は報復感が強い。犯罪者が収監される刑務所では、日本ではほぼ半数が再犯者である。ロシアでは80%を超えると聞く。収監されることによって、囚人は反省して犯罪を二度と侵さなくなることがまずないという結果である。
ノールウェーの刑務所は囚人たちを鉄格子の部屋に閉じ込めたりはしない。武器になるような包丁などは固定されてはいるが、自由に調理もできるし短時間に買い物もできる。年休のようなものがあって、自宅に帰ることもできる。この国では、再犯率は確か10%以下だと聞いている。
日本では量刑は、懲らしめるために中世まであった思想がそのまま生きている。
犯罪者にも人権がある。犯した犯罪に対する反省こそが、再犯を防ぎ犯罪者を減らすことになる。ましてや極刑を課すと彼らに立ち直る機会を奪うことになるし、犯罪を減らすことにつながらない。現行の制度では、犯罪者が新たな犯罪を起こすばかりである。
欧州諸国など死刑を廃止している国の方が、犯罪被害者に対して手厚い補償ができている。日本は死刑制度が残ってはいるが、犯罪被害者には十分な対応ができていないのが現状である。
オウム真理教の犯罪は許し難いが、彼らが何処かで何らかの理由で犯罪者になったのである。それが命奪う事にまでつながる理由を私は見つけることができない。戦争も同じである。近代の戦争は全て自衛のものである。相互に自衛を主張する。正義は自国にある、他国は犯罪者であるから殺しても良い。人を殺すことが愛国心であるという事になる。報復感情を満たすことを理由に、犯罪者の命を奪うことが社会を安全にし、社会正義を守ることになるとは思えない。
日本もそろそろ、死刑を見直すべき段階になっているのではないか。
光市の母子殺害事件は、心痛む事件である。この事件は、穏当にこれまでの判例を踏襲すれば、どう見ても無期懲役と思われる事件である。
被害者の主人がきわめて弁の立つ人であったことから、マスコミは一斉に彼を支援し始めた。被害者の権利の問題や未成年の問題それに、加害者男性の育った環境やその後の言動も大いに、マスコミを喜ばせるには十分に盛りだくさんであった。
面白おかしく掻き立てるマスコミは、死刑判決を期待させることに終始していた。
死刑を、報復手段として扱っているのである。日本には、赤穂浪士などの仇討を認める思想が、底流にある。また死んでお詫びするというような、割腹思想もある。死刑を報復手段として、大衆を扇動するマスコミには、量刑としての視点がない。
償うということもかなり主観的で、宗教的側面や歴史的、地理的、宗教的な風土も関係して、いまひとつ判然としない。量刑ならば、再犯防止、社会的抑止効果も考慮されるべきである。
1989年12月15日に、国連は死刑廃止条約を批准した。1997年以降、国連人権委員会は「死刑に関する決議」を繰り返している。日本にも死刑廃止を通告している。
1990年死刑を設けていた国は、96か国あったが、現在は54か国に減少している。しかもそのほとんどは執行していないのである。
死刑のもっとも多い国は中国である。推定で2000人以上が死刑を執行されている。次にイランとアメリカとロシアである。これらの国を列挙するだけで、死刑を増やせば、犯罪が減少するというわけではないことが判る。
アメリカの例を出せば、収監されている囚人の7割が、何らかの犯罪経験を持つ再犯者だといわれている。
人は過ちを犯すものである。犯罪においても判決においてもである。国家としておこなう、死刑という殺人も過ちであることも当然ある。人にはどんな状況でも生きてゆく権利がある。国家がそれを断つことを今後も続けることに、大いに疑問を感じるのである。
今回の参議院選挙で落選し、すでに9月の民主党大会後の組閣で去ることが決 まっている、千葉景子法務大臣が死刑執行を行った。彼女は、死刑廃止論者である。就任の記者会見でも、死刑に対する姿勢を質問されている。何かいい加減で生半可な回答を行っていた記憶がある。
法の遵守は解らなくもないが、何か唐突な感は否めない。彼女の踏ん切りとして、死刑執行に立ち会い命が消えるのを確認したことや、その後の会見で、国民的議論の契機にとか、処刑場の公開などを指示している。信念を曲げた、彼女のせめてものささやかな抵抗であろう。
民主党政権になって、つまり千葉大臣になって初めての死刑執行である。鳩山家の二男坊ちゃまよりはましかもしれないが、何故彼女がと思われる。今回の執行で更に、死刑の存続について議論が深まるとは思えない。話題になっただけで終わる可能性の方が高い。
死刑廃止議員連盟の会長である、亀井静香のコメントが正しい。「議員が日ごろ行っている言動、信念とかけ離れたことを簡単に行う、これでは国民の信用が得られない」と彼はコメントしている。その通りである。
日ごろの言動と大きく異なったのは、鳩山由紀夫の普天間問題である。その他何かと野党時代とは異なる発言や行動を、民主党議員に多く見られる。野党時代とは異なったのは解らなくもないし、時間的に取り組むことが難しい問題もたくさんあるだろうが、説明もなく簡単に変えてしまう。
菅首相が、新たな安全保障と防衛問題を発表しそうである。ここにも大きな前言撤回があるものと思われる。
先日、NHKの未来への提言で「犯罪学者ニルス・クリスティ~囚人に優しい国からの報告~」という番組がありました。
世界での多くの国が、犯罪者に対する厳罰化が加速されています。日本でも、オウム真理教のサリン事件辺りから厳罰化が加速される傾向にあります。アメリカでも1980年代から、凶悪事件が急増する傾向にあり、メディアが扇動し犯罪者憎しとする、被害者感情に立ちより一層厳罰化へと進んでいます。
その結果、収監者は増加し刑務所環境は劣悪な状態になっています。刑罰の本来の目的である受刑者の更生どころか、アメリカでは再犯者が半数以上になっています。
アメリカとロシアの収監者の数は信じられない人数になっている。とくにアメリカでは国民1000人に1人が収監されている状況です。これが行政の財政負担にもなっています。また社会不安にもなっています。
ノールウェイでも、1960年代までは厳罰化によって犯罪者は増えました。1970年代になり、犯罪者を隔離し懲罰を加える目的から、受刑者の社会更正を最大の目的に転換させました。衣食住もほとんど外界と変わらず、受刑者同士もほとんど自由に会話でき、隔離も最小限で時折帰宅もできますし、苦痛を与えることはありません。
<wrap type="square"></wrap>こうした「犯罪者にやさしくする」ことで、再犯はもちろん軽犯罪は激減しているとのことです。犯罪者を社会から隔離せず、懲罰的な収監を見直すことを提案したのがオスロ大学教授の犯罪学者ニルス・クリスティ氏です。犯罪者にモンスターはいない。「すべての人間は人間である」と言ってはばかりません。
多くの国が死刑を見直しています。20年前は100カ国以上あった死刑制度を持つ国も、現在は24カ国になっています。日本やアメリカなどはこれに逆行しています。マスコミが被害者同情を煽る報道をし、応報感情から厳罰化に向かっているように思えます。量刑は犯罪者に対する報復ではないのです。厳罰化は社会への厚生が一層遠のくばかりか、社会不安にもつながり財政負担にもなります。
歴史気的大勝利をした民主党のマニフェストに、死刑制度の国民的議論と終身刑の検討という項目がある。更に民主党は、死刑廃止を政策に挙げる国民新党と社民党と連立を組むこと、鳩山代表は明言している。
国連の人権委員会は、昨年日本に死刑制度の廃止の検討を勧告している。与党である自民党の日本政府は、全く取り組み気がないようであった。国内世論を盾にしているが、これは明らかにマスコミの煽動が背景にある。近頃事件があると、マスコミは面白おかしく扇情的な報道をやる。極悪非道の犯人像をいとも簡単に作り上げる。
国連加盟国で見ると、89年には100カ国を超す国が、死刑制度を導入していた。それが、昨年の段階では僅か24カ国に減少している。逆に死刑制度のない国は、141カ国になっている。先進国といわれる国では日本とアメリカぐらいである。イスラエルは先進国かどうか解らないが、紛争を抱えている事情がある。
人は行為においても判断においても過ちを犯す存在である。それが人間性でもある。先ごろ、DNAによる判断で、無実になるであろう人物が科学の発達で再審が始まるようである。彼に死刑を執行していれば、釈放も再審もないのである。
何よりも死刑は法律の名を借りた、非人道的な殺人行為である。日本にはかたき討ちを文化として認める風潮がある。かたき討ちは芝居になったりして文化の風潮もある。底に来て、非情な殺人事件があると、報道がこれを被害者側に立って煽りたてる。
法律は報復のためにあるのではない。応報感情は理解できるが、法律は被害者意識の清算のためにあるのではない。更にこの国には、終身刑がない。どんなに長い懲役も、減刑されて出所する。死刑廃止と併せて、減刑のない終身刑を導入することも必要である。
犯罪者に償ってもらうには、死なれては困る。できるだけ長く生きて自ら犯した犯罪を償う労働奉仕や宗教者の教訓などを、生涯かけて行うべきなのである。
死刑を軽々と行っている、中国やイランや北朝鮮と日本は同じレベルの、非人道的国家から脱却するべきである。民主党に死刑廃止を期待したい。
11月20日開かれた国連総会第3委員会(人道問題)で、死刑廃止に向けた重要な決議がなされた。死刑廃止と死刑決定者に対する、一時停止などが決議されたのである。2年連続のことである。
賛成はEU諸国とイスラエルやオーストラリアなどで105、反対は日本やアメリカや中国やイランなどで48で、棄権は33カ国となっている。決議を受けて、国連は日本政府へ勧告を行った。もちろん強制力はない。
死刑廃止は国連加盟国で141か国になった。89年には100カ国以上あった死刑賛成国も、今は僅か24カ国に減少している。日本は、世論が許さないとして死刑に賛成し国連の申し入れを拒否することになる。
日本の死刑賛成論が増えたのは、凶悪事件をマスコミがワイドショーなので面白おかしく煽るからである。凶悪事件は実際のところそれほど増えているわけではない。
マスコミなどが煽ることで、犯罪者に対する報復感情が大きくなることがある。もう少し人のレベルになって考えなければ、死刑という人の国家が行う命を奪う行為を、感情論で早急に判断してはならないように思われる。
人は必ず間違いを犯します。犯罪としての間違いもあるし、判断としての間違いもある。証拠証明などの情報の収集にあっても、間違いは必ず起きます。死刑執行は、それらのすべてをないものとして判断されるものです。死刑執行は元に戻れない行為でもあります。
犯罪者の償いの最高の形が犯罪者の生命を奪うことだとは、極めて一方的な感情論で非人道的な論理です。
日本には「終身刑」がないことが更に、死刑必要論に拍車をかけています。懲役30年程度が死刑の次の段階なら、日本では恩赦などで20年ほどで出所します。こうしたことを考えると、生涯をかけて償う行為こそ求められるのである。
世界の流れに反して、死刑必要論が大きくなる日本は、非近代的国家と言えるのでないかと思われる。
光市の母子殺害事件は、極めて残忍で犯行内容をみると戦慄すら覚える。暴行殺人は、僅か6ヶ月の幼児にまで及ぶ、許しがたい犯行である。極刑はやむを得ない。
被害者にとって、成人か未成年かは問題ではない。被害者が応報感情を抱き、犯人に死刑を望む心情は全く理解できる。今回の判決には、死刑回避を目論んだ弁護団の大失態もある。
死刑そのものに反対する弁護団が、それまでの少年の供述を翻させたり、タイムアウトを狙って欠席したりと、姑息過ぎた手法が拙かったこともある。わずかにあった、極刑からの回避はほぼ完全に断たれることになった。
ところで、法律上最も重い刑(極刑)とは死刑のことであろうか。死刑になりたくて、小学校ならたくさん人が殺せるので、死刑にしてくれると小学校に凶器を持って、数人を殺害した人物がいる。彼の望みどおり、死刑判決を得て既に執行されてようである。
死刑は、この男にとっては自殺の手段でしかないかった。日本に死刑がなければ、この男は犯行に及ばなかったかもしれない。死刑にしてしまうと、それですべてが終わりである。これで、殺された人たちの家族は溜飲を下げたのだろうか?
”刑”とは、犯罪の抑止性もさることながら、罪を償うという側面を持つ。死刑を受けて、罪を償うとは矛盾行為である。先ず、悔悛の機会がない。自らが犯した罪の重さと、命を奪った人や社会的に居場所をなくした人たちに対する、反省の場を奪うことになる。
極刑の死刑には減刑がない。死刑の次が懲役である。懲役には当然のように減刑がある。30年くらいなら、20年で社会復帰するようである。死刑さえ回避すれば社会復帰できるのである。
日本には終身刑がない。死ぬまで獄舎で罪を償うことの方が、死刑よりも重い刑のようにも思える。いっそ死んでしまいたいと思う程反省し、罪を償う機会を生涯与え続ける方が、よほど重い意味を持つ。
軽々に、あるいは応報感情で死刑にするより、減刑されない終身刑を設け、生涯服役し反省することの方がよほど、人間的であり量刑の意味がある。
世界的に見ても、135カ国が死刑を廃止している。毎年死刑廃止案が国連で採択されている。昨年、死刑が執行されてのは1252名とされるが、中国をはじめとして公表されない数字もかなりあるように思われる。
免罪の危険性もある。死刑に対する日本の風潮は、明らかに世界の流れに反している。終身刑がなぜないのであろうか?
光市の母子殺人事件の弁護士が、死刑廃止論者で被告を死刑廃止論から弁護士、死刑判決の回避を目論んでいると、被害者の夫が述べている。どうやらこの辺りから、死刑廃止論者の分が悪いような昨今である。
死刑は何はともあれ、国家の行う殺人であることに変わりはない。理由はともあれ、殺人を容認するわけにはいかない。
それで判事の抑止力としての、法の意味がないと多くの人が言うであろう。我が国に、無期懲役がないことが先ず問題である。死刑を免れた人物は、多くの場合20年以内に恩赦とか何とかで出所してくる。それは、終身刑がこの国の存在しないからである。
また、被害者にとって犯人がこの世に生きていることへのやり切れない気持ちがあるのもわかるが、それは感情的で報復的な意味しか持たないことである。終身刑だけでなく、福祉活動や重労働などを課することも検討すればよいのでないか。
イスラム法はその点さまざまな、刑罰がある。動物を診ている立場からすると、再犯率の高い「性犯罪」などの場合、本人に悪気があるとわ思えない。こうした人物には去勢などの処理をすればいいのである。非人道的と非難されるような気もするが、死刑よりよっぽど人道的な刑罰である。
以前、イギリスの少年が何の犯罪だったか忘れたが、インドネシアで百叩きの刑を受けて問題になったことがあった。収監するよりも、この方が効果が高い場合もある。量刑に、収監(懲役)と罰金しかない罰則規定を直すべきではないか。
小学校に武器を持って侵入して、たくさんの児童を殺した犯人がいた。この男は、「死刑になりたかった」と言っていた。お望み通り死刑判決が出され、弁護士は上告をしようとしたが、拒否して見事死刑にしてもらった。この場合の死刑の意味は、どこにあるのだろう。たくさん人を殺したから、極悪人だから死刑しかないといのではあまりに芸がない。こうした人物には、終身刑を与えて、罪の意味を生涯かけて理解させ反省させるべきなのである。
犯罪の抑止力は、法の厳罰化ではなく犯罪検挙率の向上の方が、よっぽど治効果があるし、治安も良くなる。世界では、一年に2,500人ほど死刑になっているらしい。そのうち中国は、半数になると公式には言われている。実際は、7,000人を超えているらしい。その中国は、世界で最も治安が良いわけではない。
日本は世界で最も安全であったし、犯罪検挙率も高かったが最近は殺人犯でも、2割程度しか検挙できない。犯罪動機が全くない犯罪が多く、警察ばかりを責めるわけにはいかない。人間相互の関係が薄くなり、人の命が軽んぜられること自体に問題があろう。
死刑は、国家の行う殺人である以上容認できない。日本の罰則規定の、幅が狭いことも問題があると言うものである。