立花隆が亡くなっていた。メディアは”知の巨人”として彼を紹介する。多くの紹介者は立花隆の大きさを触り切れないので、知の巨人という言葉を用いているのであろう。基本雑学であるが独立してからは、存分に雑学の幅を広げていった。理系文系という分類に、私自身抵抗もあったが、立花氏は早くからそうした枠を意識せずに文筆活動を広げた。
立花氏の、取材を通して真理や事実あるいは人の感性の底辺を汲み取る作業は、香月泰男のゴーストライターとして書いた、「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」に始まる。抑留帰国後数年を経て筆をとった香月のシベリアへの鎮魂は、べた塗りの暗黒の絵が基調であった。
本ブログで、ロスケという言葉を吐き続けた爺様がいたで取り上げたが、拝借した絵は香月のものである。立花隆は、自分のオフィスとなる事務所の外壁を、香月の漆黒で塗り、猫の目を際立たせ原点を忘れないようにしている。
立花の名を世に知らしめたのは、田中角栄の信濃川河川敷の土地ころがしを追った、「田中角栄研究〜その金脈と人脈」である。田中角栄はロッキード問題で失脚したと思う人が多いが、立花のこのレポートが彼を政権の座から下したのである。その後のロッキード裁判に立花氏は出席し続けた。
気さくで思考が幅広く、権威を掲げることもなく、前例にとらわれず威圧的でない。盛んに引用をすることは、権威の借用に外ならないが、彼はそのようなことを殆どやらない。
立花氏の視点が斬新で本質を掘り起こしたのが、東大の講座を持った内容に見て取れる。例えば、入学試験の問題を量で分析して、その内容を示してしてくれた。
我々の時代は、理科では生物を下に置かれていた。得て言うなら、物理、化学、地学その下の生物と言った位置関係にあったが、彼は出題された問題の原理が示された年代で区分して見せてくれた。生物が一番新しいのであったが、新たな視点が現在の科学を遠望させてくれた。
脳死や宇宙に手を出したのは、勇み足であろう。動物の死を何百頭も見てきた者にとって、脳死論は人の我儘にしか見えない。
風体も併せてこれまでなかった、明るいキャラクターは裏がなく多様な視点を私たち与えてくれた。
今の時代80なら若い方であろう。ご冥福を祈りたい。
政府あ1991年に大学院重点化計画を作った。博士課程をほぼ倍に増やし、博士(ドクター)を10年で倍増させた。ところが少子高齢化が始まる次期であり、団塊の世代二世が二度目のピークを終えるころに一致する。先を見ない政策といえる。
折角博士を取得したのに行き先がない。古くはオーバードクターといわれたが、現在はポスドク(ポスト・ドクター)と呼ばれ、大学に部署がないのでフリーターのような仕事をやっているドクターが多い。ドクターの多くは専門職には造詣が深いものの、そうしたアカデミア以外の知識などは浅い傾向にある。いわゆる「学者バカ」と呼ばれて、器用な対応ができない方が多い。しかしそれは昔も変わるものがない。フリーターのようなポスドクは、2015年の時点で1万6千人もいるというのである。
博士一人を作る経費は、数千万円から1億になるといわれている。これだけでも大きな社会的な損失であるが、蓄えられたり求められた技術や真理を葬ることになる。
こうした博士漂流時代は、この10年のノーベル賞受賞者が異口同音に指摘する、基礎研究の重要性と危うさと重なる。次世代を育まない制度。技術大国といわれていた日本は、貧相な国家に凋落しつつある。明らかな失政である。
かつては、「末は博士化大臣か」といわれたものである。総理大臣はバカで無教養で、以下の大臣はそれ以下で自己弁護と忖度と私欲にまみれた恥ずかしい存在になっているが、博士まで育てることができない国家になったのである。
文科省は今月8日、全国の86校の国立大学に対し、文系学部の廃止などの組織改革を進めるよう通知した。「少子化で子どもの数が減少していることへの対応が必要。日本を取り巻く社会経済状況が急激に変化する中、大学は社会が必要とする人材を育てる必要がある」というのである。国立大学に投入する税金を社会的なニーズがある分野に集中的に使いたいと説明されている。下村博文文科相は16日、東京都内で開かれた国立大学の学長を集めた会議で「これら文系学部の学問が重要ではないと考えているわけではない。現状のままでいいのかという観点から徹底的な見直しを断行してほしい」と言っては見たが、経済効率がないことを、国は認めないというのである。
経済効率を求める学業しか認めないのであろうか。国立大学に、経済的自立を促すよう方針転換してから、いつの日かこのような方針が出ないだろうと危惧していたが、それが現実になってきた。小泉も横暴であったが、それに輪をかけて安倍内閣は横暴である。
大学生の半分は4年間に、一度も本を読まないそうである。半数以上の学生が辞書・辞典を持っていないそうである。本離れが著しいが、だからこそ文学に接して欲しいものである。
宮沢賢二がいい例であるが、理系の学問を積んでいてもそれを文学表現することで、さらに自然界や人々の生き方などに深みが増すというものである。
そもそも、文系と理系の分類そのものが曖昧である。新たな物質や現象を顕微鏡下で発見したりしても、感動することは共通であろう。当地で獣医学部の学生を臨床実習として大勢受け入れたが、きっと学力はあるのであろうが、レポートを書かすとロクなものが書けない学生をたくさん見ている。国が率先して、文系の学問を軽んじるとこのような人物が排出する。
文系の発想や知識や洞察力こそが、理系の発想や指針に大きく貢献するものである。
思い起こされるのが、60年前にアメリカは冷戦対立を背景に、徹底したレッドパージを行った。共産主義者は勿論のこと、研究者や哲学者それにソビエトや中国など関連の研究者関係者をすべて、コミュニストとして追放した。世界情勢の正確な分析、民族や歴史的文化的な背景の評価能力が消失したまま、ベトナムがこけると世界が赤色化すると、ベトナム戦争などの突入していったことが思い起こされる。
国立大学から、文系(経済学、文学、歴史学、民俗学、各語学、各種芸術学等々)を追い出すことによって、国は豊かになるのだろうか。戦争法を国会に提出し、憲法を踏みにじるような行為のどさくさまぎれに、何とも卑怯な方針を国立大学に押し付けるものであることか。
直接産業に関わり経済効果を出さなければ、学問として国は認めないというのでは、豊かな国家の建設、国民の幸福感などあり得ない。
経済効率を求める学業しか認めないのであろうか。国立大学に、経済的自立を促すよう方針転換してから、いつの日かこのような方針が出ないだろうと危惧していたが、それが現実になってきた。小泉も横暴であったが、それに輪をかけて安倍内閣は横暴である。
大学生の半分は4年間に、一度も本を読まないそうである。半数以上の学生が辞書・辞典を持っていないそうである。本離れが著しいが、だからこそ文学に接して欲しいものである。
宮沢賢二がいい例であるが、理系の学問を積んでいてもそれを文学表現することで、さらに自然界や人々の生き方などに深みが増すというものである。
そもそも、文系と理系の分類そのものが曖昧である。新たな物質や現象を顕微鏡下で発見したりしても、感動することは共通であろう。当地で獣医学部の学生を臨床実習として大勢受け入れたが、きっと学力はあるのであろうが、レポートを書かすとロクなものが書けない学生をたくさん見ている。国が率先して、文系の学問を軽んじるとこのような人物が排出する。
文系の発想や知識や洞察力こそが、理系の発想や指針に大きく貢献するものである。
思い起こされるのが、60年前にアメリカは冷戦対立を背景に、徹底したレッドパージを行った。共産主義者は勿論のこと、研究者や哲学者それにソビエトや中国など関連の研究者関係者をすべて、コミュニストとして追放した。世界情勢の正確な分析、民族や歴史的文化的な背景の評価能力が消失したまま、ベトナムがこけると世界が赤色化すると、ベトナム戦争などの突入していったことが思い起こされる。
国立大学から、文系(経済学、文学、歴史学、民俗学、各語学、各種芸術学等々)を追い出すことによって、国は豊かになるのだろうか。戦争法を国会に提出し、憲法を踏みにじるような行為のどさくさまぎれに、何とも卑怯な方針を国立大学に押し付けるものであることか。
直接産業に関わり経済効果を出さなければ、学問として国は認めないというのでは、豊かな国家の建設、国民の幸福感などあり得ない。
日本の、宇宙開発機構(JAXA)の月探査衛星「かぐや」が、9月14日に打ち上げられ、多少の軌道修正をしながらも順調に飛行を続けている。本格的な、月探査計画としてはアメリカの、アポロ計画以来となる。日本の技術がこの衛星に搭載され、その探査能力をいかんなく発揮することであろう。
海外のメディア、とりわけ中国はスパイ衛星の開発に神経をとがらせているが、今回はそれナ入りの評価を行っている。中国も今年中に、月探査衛星、嫦娥(じょうが:月に住む天女)を打ち上げる予定である。
アメリカは、多国間協議をを行って月面基地を建設計画中である。ロシアも中国も月の資源開発を念頭に入れた開発計画を持っている。インドも月探査衛星の打ち上げを計画している。
日本は高い技術力を持ちながら、世界各国の月探査目的があからさまであるのに比して、その目的がいま一つ明確ではない。ここは一つ大目に見て、高い 技術力を見せ付けて欲しいものである。
ところで、月の資源は誰のものか、どこの国のものかは明確にされていない。'67年に、ほとんどの国が批准する「宇宙条約」が締結されている。そこでは、月などの宇宙の資源は国家の所有を超えていて、どの国のものでもないとされている。アメリカが、多国協議で取り組むのもそうしたことを視野に入れてのことであるが、利権を月にまで絡めて貰いたくはないものである。
日本のかぐやは、むしろ国家戦略が見え見えの計画よりも、ほとんど純粋に近い科学的な取り組みを行ってほしいものである。
日本国内では、あまり報道されず評価もそれほど高くない、月探査衛星「かぐや」ではあるが、ハイビジョンの映像とともに、明るい夢を我々に与えてもらいたいものである。
羅臼港
春誓い羅臼港