昨年暮れに、12産目の乳牛の治療を行った。今では信じられないほどの高齢牛である。現在 の、日本の乳牛の平均産次数は2.5産である。30年ほど前までは5産以上はあったものである。乳牛の評価を乳量だけで行うように、関係各機関は指導している結果である。
この12産目の牛は、平成8年4月生まれである。酪農に関係している方ならだれもが知っていることであるが、これは狂牛病(BSE:牛海綿状脳症)の発病牛が集中していた時である。日本で狂牛病(当時は誰もがそう言っていた)の発生は、平成8年2~4月に集中していた。この牛はまさしくこれに該当する牛である。当時は、何の症状や異常がなくても検査されない、死亡獣処理場に搬入した年齢の牛である。
この牛は、12歳8カ月である。乳牛に関係した人なら驚くであろうが、毎年1産以上をしてきたことになる。乳牛は、24~30カ月で最初の子供を産む。つまり、この牛は10年半の間に、12産もしているのである。驚異的な産次数である。毎年11か月ほどでお産していることになる。(左の写真は昨年治療した11産した牛である)
酪農家に対して、指導機関などの関係機関(普及所、農協、飼料会社、乳検機関などは)は、乳牛の評価を、乳量の過多で評価する。これに伴う、牛の個体の問題や維持管理に係わる経費は全く考慮しない。その結果、乳量が多くても経営が悪い農家が続出するのである。乳量を稼いでも、穀物の多給や疾患に伴う経費やそれらに伴う酪農家の労働量の増加などは、全く考慮しない。
この農家では、個体乳量は大したことはないが、牛の病気が極端に少ない。そのために、産まれた牛の7割ほどは、販売に向けることができる。高齢牛が頑張ってくれているからである。牛舎に馴染んだ牛たちは、放牧などでの牛たちのヒエラルキー(力関係による階級)がはっきりしていて、牛群に落ち着きがある。
乳量を追い続ける、普及所の指導に忠実な酪農家の乳牛たちは、哀れである。輸入された穀物を大量に与えられて、懸命に牛乳を搾りだす。その結果、消化器や泌乳器や循環器は極端に消耗してしまい、2.5産でお役目御免となる。全くもったいない話である。穀物資源と乳牛の消耗であるし、乳牛を命ある動物と扱っていないのである。動物福祉の精神にも反するのである。
しかしながら、こうした酪農家は極端に少なくなってきている。こうした酪農家は、飼料を購入しないし、設備投資にも無関心であるし、生産量(乳量)そのものが少なく、経済活動として評価されないからである。日本中が、あらゆる分野で経済性や費用対効果などという言葉で、効率ばかり追いかけている。この国は、いつになったらこうしたことの矛盾に気がつくのであろう。
ものない時代、食べ物がない時代に育った者にとって、物をぞんざいに扱うことは強く戒められていた。とりわけ、食べ物はいい加減な扱いをすると殴られる目にもあった。MOTTAINAIとはまさしくそうした感覚のことである。
最近になって、モノがあふれるような時代になると大事なものは何かという感覚すら薄らいでくる。とりわけ、またぐことも捨てることも怒られた食べ物は、相当な状態になっても食べたものである。
庭先に売りにきた人たちから買うものも、今流の表現をすると「自己責任」で、購入したものである。匂いや色形で判断して、買ったものである。それでも、誰も腹を痛めることなく、誰も売りに来た人を責めることもなかった。
食べ物の大量生産を企業が行うようになって何を基準にしたのか、「賞味期限」が表示されるようになってきた。その内容を改ざんするのは約束違反であるし、虚偽の表示を行うことになる。
しかしながら、突如として物が悪化するわけではない。薬では、効力が劣化するものについては「有効期限」が表示されている。これは、指示された保存の下で、その時期までは表示の内容を保障すると言うものである。生産段階では、劣化を見込んだ量(力価)で出荷するのである。科学的な根拠を持っている。
食べ物も、急激にに悪化するわけでない。まだ食べられる物を、賞味期限を設定しているからと、廃棄するのは何ともMOTTAINAIものである。1日経って廃棄される弁当で暮す、路上生活者は糖尿病になるほど肥満になっていたりもする。
虚偽の表示は、法的にも道義的にも間違っているが、今年多くの話題になった食品偽造に被害者はいない。不二家も赤福も白い恋人もミートホープも、被害者が出たわけではない。質の低い経営者がつるしあげられて、報道で騒がれているだけである。
海外に食料を大きく依存し、自らが生産しない国家で廃棄される食物は、一日一人当たり660カロリーになる。これは、日本全体ではおおむね1500万人の、胃腑を見たす量である。
どこかおかしな、食糧輸入大国日本のMOTTAINAI「賞味期限」表示である。
日本の食料自給率は、物単位では40%ほどである。生産工程などを考慮した、実質自給率はでは、20%程度まで下落している。
生産家=農民の減少と、自給率の下落に反比例して、日本人の食卓は豊かになる奇妙な現象に国民は慣れきっている。今では誰もが、この摩訶不思議な現象を当然のように受け入れて、飽食を満喫しているようでもある。
飽食国家では当然のように、食べ残しが生じている。食品ロスの統計調査によると、一般家庭では8%ほど、外食産業では5%ほど、宴会では16%ほど、結婚披露宴ではなんと24%にもなる。
国全体では、年間2200万トンも廃棄されていることである。このうち再利用されているのは、わずかに12%程度である。私が獣医師になったころには、都会の周辺に食品加工業者からの廃棄物を乳牛に与える「カス酪農」や食堂などからの残飯を与える「残飯養豚」が盛んであった。食べ残しが有効に利用されていたのである。
本来の畜産とは、人が食べることができないものを家畜に与えて、それを家畜の生体を利用する形で、肉や卵や乳に変換する産業である。 ところが、この国の経済力が増すに従い、あるいは円が力を付けることで安価な輸入穀物を買い与えて、生産効率を上げる畜産へと変わってきたのである。
犠牲になったのは、生産を強制される家畜ばかりでなく、飼料用穀物を大量に輸入する、この国の食料自給率である。そして廃棄される食料と貧困国家の食料自給率である。
なんと、”MOTTAINAI”ことであるか。今では、賞味期限などが設けられたおかげで、食料の廃棄のスピードが増したように思える。