イーストウッドはこの大ヒットで、名前は売れたがしばらく作品に恵まれず低迷期を迎える。俳優として売れたのがダーディーハリーである。売れたが彼はこの後に監督、制作者として存在を持つようになる。イーストウッドの映画製作は黒澤の対極にある。製作費も俳優に接する姿勢も全く逆であり、大作といわれるものがない。取り直しもほとんどなく、俳優の度量に任せ最初の演技をほとんど採用した。結果的に、イーストウッドは多作監督となる。
社会性の強い内容を持ったり、人の深層心理に深く張り込むもの、人の生き方や人生の苦悩や社会の矛盾不合理を描くものが増えてくる。年齢とともに西部劇が減ってきたのは、アクションがきつくなっただけではない。西部劇の晩作となる「許されざる者」は、「硫黄島からの手紙」で使った渡辺謙が友人の根室の牧場で日本版のリメイク作品を作った。夕日がきれいな場所が印象的だあったが、原作のようにヒットはしなかった。
イーストウッド作品の秀逸は、2005年の「ミリオンダラーベイビー」と4年後の、「グラントリノ」である。ミリオンダラーバービーは前半のロッキーを彷彿させるスポコン成功話から抜け出ると、一気に社会性の強い作品となり安楽死への提言をする。グラントリノは、末期がんを患う退役軍人の、社会への苛立ちと不条理を一気に自らの死で解決し、観客を安堵させる。
人の心理を巧みに取り入れ、正義が勝つという娯楽作品を、それを経験してきた監督がそれを凌駕する。
今日120キロ離れた釧路に行き、「運び屋」を見てきた。イーストウッドの最後の作品になろうかと思った。88歳の作品である。作品としての質は高くはないが、老人をよく演じている。演じているのではないかもしれないが、背中も曲がり歩く速度もすっかり老けたものである。気になった台詞がある。多分イーストウッドの言葉であろう。「100歳まで生きようと真剣に願っているのは99歳の者だ」という現実的な言葉である。
日本で開幕戦を迎える、大リーグのシアトルマリナーズである。イチローを9番ライトで使っているが、明らかな衰えの見えるレジェンドである。本人は50歳現役を希望するようであるが、オープン戦の成績が5分に満たない、つまり一割の半分以下である。たまたまヒットになることがる程度である。
全盛期を知る者にとって、あまりにも不甲斐ないバットさばきとスピードである。大リーグどころか、日本プロ野球でも危ない。社会人野球以下かもしれない。構えに入ったところでバットが揺れている。空振り後の姿勢も様変わりしている。堂々としていない、体が揺れている。
プロ野球解説者は何故か凡打のイチローを褒めちぎる。まるで安倍晋三ご用達の政治評論家が安倍政権を褒めるのに似て、恣意的に良いところだけけを探して、褒めて褒めぬく哀れでもある。
イチローは明らかに引退時期を逃して、迷惑なバットマンとして日本の開幕戦の人寄せパンダとして先発出場するらしい。誰でもいいから引退勧告をしてやる人物はいないのか。
アメリカ生まれの日本文学者、ドナルド・キーン氏が亡くなられた。若いころ日本文学全集を外国人が編纂することに違和感がなくもなかった気もした。東日本大震災の後日本に帰化している。
キーンの日本への美学の概念は、戦時中の通訳時代に兵士の日記によるという。日記は日本の文化であるという。兵士には毎年正月に軍人日記が手渡される。検閲のない時には血糊が着いた臭い日記には兵士の本音が書かれてあり、キーンはそこに日本の美学を見たのである。死を前にした前線の正月に12個の豆があり、3人で丁寧に別けあっとて食べたという。
焼け跡の何もないところで、植えた日本人は食料配給に乱れることなく列を作って順番を待っていた。これを見たキーンは世界のどこにもない光景と感じた。それは先ごろの震災でも見られたと述べている。
キーンの日本の美意識の延長の先には、三島由紀夫がいた。三島由紀夫を世界に広めたのはキーンである、キーンは三島に限らず、源氏物語をはじめとし多くの日本文学を訳し世界に発信している。日本人初のノーベル文学賞に三島を推したかったが、若いために川端康成次に谷崎潤一郎の後に回されることで了承された。三島は自害してそれもなくなった、
キーン氏は三島の自害について、「三島は”老い”を恐れたのだ」という、独自の分析を行っている。
日本人ば本を読まなくなった、特に古典については試験のための道具としてしか教こてなかった。古典は文法を学ぶ道具ではない。アメリカでは源氏物語の4種目の訳本が間もなく出版される人気がある。
「一流の文学は席で最も強いもの。言葉は最後まで残る。」と文学の存在を高く評価する。日本人の我々がすでに失っているのではないかと思われる美意識を高く評価して止まなかったドナルド・キーンの純粋さは、平気で権力に忖度し隠蔽や改竄をくり返す現代日本の権力者の腐臭をどう評価するか知りたくもある。
ドナルドキーン氏の死を悼む。
船村徹の神髄は1970年代までにある。それ以後演歌と呼ばれる前の、流行歌の作曲家として感性を磨いていた時代のものが、素晴らしい。それまでの流行歌の流れを曲の美しさによって詩を引き立たせていた。
それまでの作曲家が、古賀政男や吉田正や遠藤実などは音楽の基礎がなく、独学であったのに対して船村は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒という学歴が際立つ。
若いころは生意気そのものでポット出の田舎の男であった。そうしたところが、彼に斬新な曲を書かせたのであろうか。流行歌が演歌と呼ばれるようになったのは、1960年代後半からである。そうした演歌はヨナ抜けとよばれ、ファ(F,4)とシ(D,7)が抜けている。歌い易いが、単調極まりない。おまけに詞がほとんど似たものばかりになっている。日本の心と呼ぶには、演歌は相応しくない。
後に大家になってからの船村は、演歌を強調してはいたが、彼の曲はヨナ抜けがあまりないのも特徴である。船村がそれまでの大御所の作曲家と異なるのは、協定の縛りが強かったレコード会社にこだわらなかったことにある。キングレコード時代「別れの一本杉」(春日八郎)「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」(橋美智也)その後コロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(青木光一)はいずれも曲の流れが美しい、「王将」(村田英雄)、リサイタルでは最も客が静かに聞き入る「東京だよおっかさん」(島倉千代子)は、島倉のなき節を引き出している。異色なのは「宗谷岬」(ダ・カーポ)であるが、地元ではいつも流れている。
大衆曲の作曲家で文化勲章を受章したのは、船村徹が最初である。受賞のコメントで、「先輩たちを代表して受け取ったと考えています。もうすぐそちらに行くけどそう報告します」と、息を切らしながら述べていた。船村の数多くの曲に敬意を表し、ご冥福を祈りたい。
信州上田市の小高い丘の一角に小さな「無言館」という美術館がある。コンクリートの壁をむき出しにした ままの、この美術館は戦没画学生の作品を集めていることで知られている。先の大戦で私の父はフィリッピンで戦死している。私が生まれる前のことである。そうしたこともあって、戦争にかかわることについては人一倍感慨を覚えるのである。この美術館はいつの日か訪れるたいと思っていた。事前の知識は十分あったが、思ったほどの大きさはなく、ひんやりとしたコンクリートの壁面に飾られた作品は、習作といわれるレベルのものが多いが、胸打たれるのはこれらのすべてが遺作であり彼らが命を絶たれた背景である。
総じて裕福な画学生が多いが、どの作品も「もっと描きたかった」と訴えている。意思に反して戦場に狩り出された彼らではあるが、自らの死を超えて作品を世に残した。私の父なども同じように、内地に妻やまだ見ぬ子を残して死んでいくことの無念さは計り知れないものがあったであろう。彼らは、反戦主義でもなければコミニストでもなかった。そのため、かえってただ単に描きたかった無念が伝わってくる。
戦争とは人の命を奪う行為であり奪われる行為であり、人のすべてを断ち切る行為である。戦争を、国家観や防衛論などから語られてはならないものである。
中学の頃、近くに美術館があり絵を観察するのが好きであった。今でも450キロも走って、札幌に農民画家のミレーの作品を見に行くくらいである。そうした私にとって許せない事件があった。例の盗作騒ぎである。少し気の弱そうな画家が、ほとんど同じ作品を「クロウトが見れば、作品の雰囲気や空間の扱いや、筆のタッチを見れば全く異なる作品だとわかります」言ってのけた。恐ろしい発言である。
盗作であるかにかは、クロウトなどが判断することではない。シロウトが見て判断する方が正しいのでないか。第一、何とか会員や何とか賞を選考した「クロウト」連中は、大騒ぎになってやっと気がつくようなお粗末である。クロウトは作者に近かったり、人としてのつながりもあるだろう。クロウトがこれを盗作と判断せずに、「よく似ているから」今までの賞などを取り消す。ヨクワカラン。
食も同じである。農業、畜産分野は、現在いろいろな技術が行き交っている。それぞれの分野では、かなり苦労し、勉強や研究を重ねてきたことは理解できるが、生産者が消費者に向かって、シロウトには解らないことだと説明を拒否するのは問題である。シロウト(消費者)は、ニワトリや牛がかわいそうだとか、農薬は嫌いだという発言や感情を、農業の専門家が嫌悪感を持つのはやはりおかしい。こういうことこそ、シロウト感情で十分なのではないか。