時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(45)

2005年11月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


リュネヴィルに戻った画家:世俗の生き方を垣間見る
  
 長らく戦争や
悪疫に覆われていたロレーヌにも1640年代に入ると、つかの間の平穏が戻ってきた。パリなどに避難していた画家ラ・トゥール一家も、リュネヴィルに戻ってきたようだ。

 しかし、ロレーヌの環境は到底明るいものではなかった。ジョルジュが時代から取り残されたような小さな町ヴィック・シュル・セイユに生まれた頃のような平和な生活はすっかり失われてしまった。いつ、外国の軍隊や悪疫が襲ってくるかもわからない不安な時代に変わっていた。住民は見えない恐怖や不安に脅えながらも、その日その日を過ごしていた。先が見えないロレーヌだったが、ラ・トゥールは世俗の世界でもしたたかに生きていたようだ。

  この頃にはロレーヌのみならず、国王付き画家としての地位を確保し、パリでも知られる有名画家となっていたラ・トゥールである。土地などの資産も増え、恵まれた貴族階級としての地位を占めていた。その地位保全のために、ラ・トゥールは妻の実家のあるリュネヴィル移住の時からしかるべき手を打っていた。画家というと、世俗の世界から超越し、芸術の世界に沈潜してもいられる職業と思いがちだが、この時代に画家として生きるのは並大抵の努力ではなかった。

 画家はフランス国王付き画家としての権利を保持しながら、他方でリュネヴィル移住以来ロレーヌ公から与えられた特権を維持するためにも可能な限りを尽くし、法的な手段についても精通していた。そのしたたかさを推定しうるような記録資料が残っている。美術史研究者の間で画家の直情、粗暴さを思わせる証拠として、よく知られている記録である。

  ラ・トゥールが、リュネヴィルに再び落ち着いてからしばらくして、彼の所有する家畜に対して請求された税金の支払いを断固として拒否する事件が、ナンシー市の記録として残っている。市の税金を支払わせるために、ラ・トゥールの自宅に赴いた執達吏による1642年4月19日付の報告書である。これを読むと、ラ・トゥールの性格がある程度推測できる。記録は次のごとく記している:

  「私(執達吏)はリュネヴィル市の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の自宅に赴いた。そして邸の小道において彼と話しをし、丁寧に何度も彼の家畜に対して定められた総額16フラン6グロを支払うよう促しました。彼は自分は払うつもりはないと答えました。そして、私が支払いを求めた後、さもないと強制的に徴税するだろうと言いますと、彼は徴税しろと答えました。そして、そのために私が邸のさらに先へ入ろうとすると、私を激しく足でけり、扉を閉め、それより先に進んだら最初のやつをピストルで撃つと,怒っていいました。このようなわけで、私はそれ以上徴税を執行できませんでした。」(Thillier, 1997)

  この出来事があった後、ラ・トゥールはメスの高等法院にリュネヴィル市を提訴している。法院は1643年1月16日の判決では、最終的にその税金免除の特権は「戦争の荒廃のあいだ」は有効ではないとして、ラ・トゥールの訴えを退けたものの、ラ・トゥールの特権的な地位については承認した。

  こうした画家の生き方や行動についての記録から、そのままラ・トゥールの性格が傲慢あるいは横暴であったと結びつけることは、やや短絡かもしれない。この記録が税の執達吏の証言に基づくものであることにも留意しなければならない。ラ・トゥールとしては、租税免除の権利は、すでにロレーヌ公から確保していると思っていただろう。そして、彼は再三にわたり、その権利を主張してきた。

  作品から想像されるような世界とは、程遠い世俗の世界で生きてゆく処世の術ともいうべきものを、ラ・トゥールはいつの間にか身につけていたようだ。それが彼の出自と関係あるのかどうかはまったく分からない。しかし、記録などから類推される彼の息子エティエンヌなどの貴族的な生き方と比べて、父親であるジョルジュは別のものを持っていたようである。
  
  ラ・トゥールが残した作品と、こうした記録から推定される画家の人格との間には直ちに理解しがたいような大きな間隙が存在する。画家のこうした性格が、かなりの程度まで記録から推定されるものであったとしても、それが先天的なものか後天的なものかも分からない。だが、当時のロレーヌに生きる人々にとっては日々の生活で選択の余地はきわめて少なかった。

  社会的な階級などの差異はあったとはいえ、誰もが現実的にならなければ生きられなかった。才能に恵まれ、努力も実って社会の上層に近いところまでたどり着いていたとはいえ、ラ・トゥールは世俗の世界と作品の世界を意識して区分していたのではないか。世俗を超越して生きるということは、きわめて難しい時代ではあった。しかし、そうした苦難な過程を通して生み出される作品は、当時の人々が心密かに願っていた思いに応えたものであった。

  
 ラ・トゥールが獲得した特権とは、1620年、27歳でヴィック・シュル・セイユから妻の実家のあるリュネヴィルに移住した時に、ロレーヌ公アンリ4世に宛てて嘆願の手紙を書き、「貴族の身分の女性」と結婚したことや、画家という職業が「それ自体高貴であること」などを理由に、すべての税金の免除や社会的特権を得ようとし、7月10日にロレーヌ公から許可された内容を示している。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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