時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(70)

2006年04月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Claude Deruet(1588-1660)
before 1642, Oil on canvas, 194 x 258,5 cm (whole painting) Musées des Beaux-Arts, Orléans
Courtesy of:
http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/deruet/fire.html


もう一人の謎の画家 クロード・ドゥリュ 

  わき道にかなり入ってしまったストーリーを、少しずつ元に戻そう。舞台もパリを離れて、再び画家ラ・トゥールの主たる活躍の舞台であるロレーヌに戻る。それでもまだしばらくは、わき道から抜けきれない。実はこの時代、現実の世界だけでなく、美術の世界も多士済々で老化の進む脳細胞の補填のためにも書き留めておきたいトピックスがかなりある。

ロレーヌ美術の黄金時代
  パリがフランス王室の栄光で輝きはじめたルイXIII世の治世の頃から、ロレーヌ公国の美術界は最盛期を迎えていた。この小国は芸術面では大きな光を放っていた。その背景には、洗練されたロレーヌ公の宮廷、当時の芸術先進国であったイタリアなどへの開かれた環境、多数のパトロン、収集家の存在、カトリック改革の最重点地域とされた先進性と重みなど、さまざまな有利な条件があった。1580年から1635年の間でも、およそ260人の画家と20人の版画家たちが活動していた。そして半数以上がナンシーに拠点を置いていたといわれる。まさにロレーヌ美術の黄金時代であった。

  ロレーヌ美術繁栄の礎石は、1580年頃ロレーヌ公国公爵シャルルIII世によって新たなナンシー市の造営が行われた時点に求められる。そして、この輝いた時代が終焉を迎えたのは、1633年にフランス軍がナンシーを攻略、1638年にはリュネヴィルも占領された時であった。その後、フランスの支配の下、戦争、悪疫、貧困などの悲惨な状況が展開する時期を迎える。他方、フランスは太陽王ルイXIV世の治世となり、強大な権力の下、輝かしい繁栄の時を迎える。

公爵が欲しかった作品:ラ・トゥールとドゥリュ
  1642年、宰相リシリューが世を去り、その後を継いだ宰相マザランによってロレーヌの総督に任命されたラ・フェルテ公爵 the marquis de La Ferteは、1643年にナンシーへ赴任した。ロレーヌはフランスの支配下に入った。ラ・フェルテはマザランの影響もあってか、きわめて熱心な美術愛好家で収集家でもあった。

  ラ・フェルテはナンシーとリュネヴィルに毎年、上納金の代わりに絵画の献呈を要請していた。こうしたことが許された時代だったのだろう。これに応じて、ナンシーはクロード・デルエの作品*、リュネヴィルはラ・トゥールの作品を贈ったようだ。

  ラ・トゥール(1593-1652)については、これまで記した通り、かなり謎の部分が解明されてきたが、デルエ Claude Deruet (1588―1662)については、ほとんど闇の中に隠れている。しかし、ラ・フェルテがラ・トゥールと並んで格別にご所望の画家であったドゥリュは、日本では専門家以外にはほとんど知られていない画家である。どんな画家だったのだろうか。今日、判明していることについて少し記しておこう。

ドゥリュの生涯
  ドゥリュは1588年にナンシーに生まれた。ラ・トゥールとまったく同時代の画家である。若い頃にイタリアに画業修業に行ったことが分かっている。ローマのヴォルゲーゼ邸で小さなフレスコ画を制作している。しかし、プッサンのようにローマへ残ることもなく、イタリア美術の影響はあまり強く受けなかったようだ。イタリアへ行ったか否かで議論のあるラ・トゥールについてもいえることだが、ドゥリュも活動の基盤をロレーヌの伝統風土においていた。

宮廷画家としてのドゥリュ
  ドゥリュは、ロレーヌ公アンリII世のお気に入りで宮廷画家であった。またルイXIII世もお好みの画家で、王の絵画の先生でもあった。未見だが、王が画家を描いた作品が残っているらしい。

  大変残念なことにロレーヌの宮殿などに描いたと思われる壁画などは、ほとんどすべて戦火や火災のために灰燼と化してしまって残っていない。また、カルメル会の教会のために描いたフレスコ画も1789年の革命時に破壊されてしまったようだ。

  さらに、1626-27年の間だけだが 風景画の名手として知られるクロード・ロランClaude Lorrain(1600-1682)を教えたことで知られている。この時期、デルエはカルメル派教会のフレスコ画の制作で忙しかったようである。ロランはまもなくローマへ移っている。この点は徒弟契約からはっきりしている。洗礼記録や徒弟記録は、この時代の資料として大変重要な意味を持っている。

  美術品の多くが残念にも多数失われてしまった時代なのだが、幸い残っている作品をつなぎ合わせることで輪郭を描くことはできる。

宮廷文化の光景
  ドゥリュが手がけた絵画でわずかに残っている作品の中に、リシリュー枢機卿が生前に自らの宮殿のために依頼したオルレアンに残る「要素」(空気、大地、火、水)Elementsと題された4枚のシリーズ物と、1651年にラ・フェルテ公に贈られた「サビーネの略奪」Rape of Sabines(Alte Pinakothek, Munich)と呼ばれる作品がある。

  話の筋道からすれば、後者をとりあげることになるが、残酷なテーマで見ていてあまり楽しくない。ローマの故事に由来する有名な主題で多くの画家がとりあげているが、どうも好きになれない。そこで、リシリュー枢機卿のために制作され、ラ・トゥールの研究書などにもしばしば登場する前者から「火」を紹介してみよう。

  これは、4枚のシリーズの一枚だが、大変装飾的で「劇場的」構図である。当時の流行であった花火観賞の光景が描かれている。 ルイXIII世時代の後半に好まれた審美的で華やかな様式だが、王室とそれを動かすリシリュー枢機卿の全盛期の一こまを描いている。拡大して見ないと分からないが、画面右手回廊、赤い衣をまとったのがリシリュー枢機卿ではないかと推測されている。
華やかな宮廷文化の一面が花火の光に美しく映し出されている。



ジャック・カロについては、東京の国立西洋美術館「ラ・トゥール展」の展示にも含まれていたので、ご覧になった方も多いと思う。この時代を代表する優れた銅版画家については、改めて記したい。ラ・フェルテに贈られたデルエの作品の中には、デルエが原画を描いて、カロが版画に制作したものも含まれていたかもしれない。

コメント
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