17世紀のヨーロッパは、きわめて興味深い時代である。現代から遠く離れているようだが、きわめて近い感じもする。「危機の時代」としても知られるこの世紀は、「戦争の時代」でもあった。ヨーロッパに限っても小さな戦争まで含めると、戦火が途絶えた年はわずか4年にすぎなかった。ペストなどの悪疫の流行、(今日とは逆の)気候の寒冷化など異常気象の世紀でもあった。世紀後半には、スイスの湖やヴェネツィアの潟ラグーナが凍結した。今日の泥沼のイラク、パレスティナ情勢、地球温暖化、エイズや鳥インフルエンザの蔓延などを見ると、「人間の進歩」とはなにかと改めて考えさせられるほどよく似ている。
そして、最後の宗教戦争ともいわれる30年戦争。手元に積んであるカロの画集などを見ていると、昔世界史の授業などで教わったことはかなり異なったイメージが浮かんできた。
ちょうど「岩波文庫創刊80周年記念」として、シラー(シルレル)の名著『30年戦史』(第一部・第二部)*が復刊されたので読んでみた。文豪シラーが始めてイエナの大学で講義した時、たちまち学生の人気の的となった。押し寄せる学生の群に、大学街の人々が驚いて「なにごとですか」とたずねると、シラーの「30年戦史」を聴きに行くのだ。」と口々に答えて先を争って急いだという逸話が残っている(同訳書解説)**。当時は聴講者が教授に直接授業料を支払っていたらしいが、この講義は無料の公開講座だったようだ。
シラーが執筆したのは1790-93年、訳書は1943年の出版だが、さすがに文体も古めかしく読みにくい。しかし、がまんして読み続け、第2部に入ると、かなりこなれてきて読みやすくなった。
本書は、シラーの詩人と歴史家としての側面を渾然として融合した作品と評価されている。読んでみてやや意外だったのは、30年戦争のバランスのとれた戦史的叙述とはいいがたいことだ。戦場の硝煙を背景にした英雄を、歴史劇の舞台に雄雄しく描き出すことに重点が置かれている。
訳者解説では本書の真髄は、「戦争の史実的客観的な記述に優れているよりというよりも、むしろ描写の詩的形成に大きな意義」にあり、「シルレルの雄渾な筆に成るところの史的解釈、次にシルレルの意志対義務の問題における道徳性の発芽にある」と記されている。
シラーのイメージする英雄像は、スエーデン王グスタフ・アードルフと皇帝軍の将ヴァレンシュタインの対決という形で描かれている。ヴァレンシュタイン(1583-1634)は、皇帝軍司令官として活躍した傭兵隊長で、新教陣営の軍隊を次々に破ったが、野心を疑われて皇帝に暗殺された。ちょうど30年戦争の半分くらいの時点である。シラーの関心は、二人の英雄が登場、活躍する段階に留まっており、ヴァレンシュタインが戦場から去った時点で興味を失ったようだ。その後は失速したようにあっさり書かれている。この意味でも、30年戦争に関するバランスのとれた戦史とはいいがたい。
シラーの意図は、英雄の詩劇化にあったのだろう。グスタフ・アードルフは新教を代表する自由のための闘争に殉ずる純潔、高貴な心情の持ち主として描かれ、ヴァレンシュタインは自己の栄達を図るために皇帝を利用し、新教を抑圧する専横、倣岸な将軍として描かれている。しかし、最終段階で皇帝に悪用された薄倖の臣と評価される。新教徒としてのシラーの心情が反映されている。
結局、この作品はシラーの著作範疇では、『オランダ独立史』と並んで歴史書の範疇に含まれているが、壮大な歴史劇として読まれるべきもので、30年戦争の展開に忠実な史実的、戦史的記述は期待すべきではないのだろう。
それにしても、30年戦争の実態は必ずしも十分に研究されていないようだ。しばしば宗教戦争といわれるが、その性格はかなり複雑だった。外国軍が蹂躙、暴虐のかぎりを尽くしたロレーヌでも、シラーの描いた英雄像とは逆に、新教側のスエーデン軍、フランス軍の残酷さは、住民の恐怖の的だった。
戦争自体も30年の間に、当初の宗教的性格からさまざまな勢力の権力闘争へと変化した。この時代のフランス王ルイ13世にしても、太陽王ルイ14世の影にすっかり隠れて、宰相リシリューの意のままになっている凡庸な王とされているが、近年の史料の再検討などでかなりの見直しが必要なようだ。歴史像の修正は時間がかかるが、いかなるイメージが生まれてくるか、楽しみではある。
* シルレル(渡辺格司訳)『30年戦史』第一部・第二部、岩波書店、2007年原著は、Friedrich von Schiller. Geschichte des dreißigjährigen Krieges (1790)
** シラーのイエナ大学での『歴史学講義』の初日のことか?
Was heißt und zu welchem Ende studiert man Universalgeschichte? (Antrittsvorlesung am 26. Mai 1789, 1790)