時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「引き上げた」ではすまない最低賃金

2007年09月11日 | グローバル化の断面

 

 中国に工場を持って、カメラやデジタル機器などのケースを生産する経営者の話を聞く。1960年代頃までは日本国内に設備を持っていたが、労務費の上昇とともに経営難となり、国内工場を閉鎖し、台湾へ全面移転した。その後、台湾の賃金水準も上昇し、フィリピンへ移転、さらに今は中国南西部で生産している。中国国内の賃金格差も大きく、労働力の質と併せて中国国内での立地動向からも目が離せないという。彼の視野からは、日本国内での立地選択はとうの昔に消えている。髪の毛もすっかり白くなったが、現地経営に支障ないほどに中国語(上海語)も上達し、経営者としての苦労と努力のほどがひしひしと伝わってくる。

 9月7日、都道府県別の最低賃金の決定状況が発表された。形の上では労使が参加する中央最低賃金審議会の提示した引き上げ幅の目安に沿った形にはなった。改めて記すまでもないが、地域最低賃金は中央最低賃金審議会が目安を定め、これを手がかりに各都道府県の審議会が地域別の最低賃金額を決める仕組みになっている。

  最近、最低賃金制度についての関心がようやく高まってきたことは大変望ましいことだと思う。この
ブログでも記したことがある。しかし、議論のほとんどは、現在の制度を前提にしての議論に終始している。言い換えると、中央最低賃金審議会の提示する目安を前提に、都道府県の地方最低賃金審議会が地域最低賃金を設定するという、ほとんど儀式化し、マンネリ化してしまった現行制度の仕組みに、メディアを含めほとんど誰も疑問を呈していない。しかし、現行制度は「制度疲労」があまりにひどく、最低賃金制度という重要な政策の目的、実施、効果測定という面について、客観的評価がほとんどできなくなっている。

  最低賃金制度の政策効果の測定は、欧米諸国におけるかなり膨大な研究成果の蓄積にもかかわらず、その結論は必ずしも十分に収斂していない。若年者などの雇用にはマイナスという結果もある反面、雇用の増加に寄与しているとの相反する効果が提示されている。実証研究の成果が必ずしも一貫した結果をもたらさないのは、研究に使われる仮説の設定、標本データの質、変動要因のコントロールなどがきわめて困難であり、反復テストが難しい、別の標本データでは相反する効果が計測されるなどの難しさが介在しているためである。抽象的次元で議論される理論と複雑な現実の間が十分埋められていない。

 日本でも実証研究が行われているが、同じような問題が生まれている。研究者は利用できる標本データと現実とのギャップに十分眼が行き届いていない。そして、理論をモデル化し、計測結果が出ると、それで満足してしまい、その結果に支配されやすい。労使や行政の関係者は逆に目前の現実にとらわれすぎて、ともすれば全体像を見失い、個別の利害に左右されがちである。

 ひとつの例を挙げてみよう。今回の引き上げで東北地方諸県では、青森(619円)、岩手(619円)、宮城(639円)、秋田(618円)、山形(620円)、福島(629円)というように7-11円程度の時給の引き上げが行われた。他方、東京(739円)、神奈川(736円)、千葉(706円)、埼玉(702円)など15-20円の引き上げが行われ、700円台の都府県もある*

 都道府県別に一見「きめ細かい」決定が行われているような印象を与える。しかし、本当にそうだろうか。都道府県という行政区分が現実の労働市場の代替指標としてはきわめて不十分であることは、前に記したこともある。最低賃金における地域差とは突き詰めると、なにを意味するのか。水準が大幅に上がった県と小幅な県とでは、現実になにが異なり、どう変化するのか。

  そればかりではない。これだけ中央と地方の格差が問題になっているのに、地方最低賃金審議会の決定結果は、格差を追認あるいは拡大・固定化する一因になってしまっている。

  グローバル化で進む労働市場の流動化に伴い、労働者も高い賃金水準の地域、産業へと移動する。活性化している都市部などでは、深刻な人手不足が経営者の頭痛の種となっている。当然、賃金水準も上がる。他方、多くの地域で地元に働く場所がなく、東京、大阪、東海など都市圏や工業地帯へ労働力は流出する。北海道などでは、若い世代が学ぶはずの高校が次々と閉鎖されていく。

  国内で相対的に賃金水準が低い地域へ企業が立地を求めてくる例(たとえば、東京から北海道へ)もないわけではないが、グローバル化が急速に進展している今日では、国内の賃金水準の格差よりも、数倍あるいは数十倍も低コストな中国、ヴェトナムなどへ移ってしまうことも増えている。仕事の海外へのアウトソーシングが急速に進んでいる。といってすべての企業が海外移転できるわけでもない。

 こうして最低賃金引き上げでなにが変わるのかという疑問は深まることこそあれ、解消することはない。別に、直ちに全国一律最低賃金制度にせよとか、上げ幅をもっと大きくせよとか言っているのではない。そうした制度の透明性を増やす必要は、もちろん早急・必須な課題だが、ここで考えるべき問題はそれ以前のところにある。制度がその目指す最大の目的である国民の文化的生活を最低限保障するための政策として真に設定され、機能しているかが基本的に問われるべきことだ。

 各都道府県毎に多大な行政コストをかけて、この制度を維持している必要性がどれだけあるのだろうか。単に最低賃金を改定する作業をワンラウンド終わりましたといって、評価もあいまいなままに先送りするいう話ではない。[現状では妥当な水準」、「仕方がない」といった「評価」が毎年繰り返されてきた。

  最低賃金制度は国民にとって重要なセフティ・ネットの一部たりうる政策手段であるだけに、透明性があり納得できる制度と運用の姿を提示すべきだろう。憲法が定める「文化的な最低生活」を保障するためにあるべきセフティネットの構想の中に正しく位置づけ、組み立て直すことが行われねばならない。時代は大きく変化している。その変化に対応しうる制度改革が議論されるべきではないか。

 
* 新最低賃金額は全国平均で時間賃率687円、引き上げ額14円。

コメント
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